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人が「動く」ことのからくり-エリック・ホッファー「大衆運動」

田原 慎治です。

インサイトのコンサルタントたちがしばしば議論してきたことの一つに、われわれは人を「動員」すべきかどうか、というテーマがあります。コンサルタントがクライアントを「動かす」とは、あくまでも「自分で自分を動かす」よう仕向けるのであって、決して「われわれが動かし」ているようであってはならない、といった話です。もっと正確にいえば、「人間は他人にきっかけを与えてもらいながら、あたかも最初から自分で自分を動かしていると‘錯覚’できる、高度な取り違え能力を持っているので、その能力に働きかけて、‘物事が動き始める場’を提供するのがわれわれの仕事である」、と、そんなことを口角泡を飛ばしながら議論しているわけです。

エリック・ホッファーという哲学者がいます。正規の教育は受けたことがなく、アメリカ西海岸で沖仲仕や農園労働者として糊口をしのぎながら、深い思索にいそしんだという人で、代表的な著作のひとつが「大衆運動」です(高根正昭訳、紀伊國屋書店)。自律的にであれ、他律的にであれ、人が「動く」とはどういうことかを、その是非を別にして、深く考察しています。これがなかなか示唆に富んでいる。

たとえば、人が何らかの「運動」に「動員」される要件は四つあるとホッファーは言います。

  • はげしい不満をいだいていなければならない。
  • 有力な主義を、誤まることのない指導者を、あるいはまた、新しい技術をもっているので、鬼に金棒の状態にあると感じていなければならない。
  • 未来の展望と可能性についても、とほうもない考えをもっていなければならない。
  • 自分たちの巨大な事業にともなう困難について、まったく無知でなければならない。

わたしたちも、まさにクライアントが上記のとおりに自ら感じ、振る舞うにはどうすればいいのか、と考えて、あれこれ策を練っています。ほかにも、鋭い観察が随所に。

「大衆運動は、出世の欲求を満足させる能力があるからではなくて、自己放棄の激情を満足させることができるからこそ、追随者を引きつけ、引きとめているのである」

「(運動を引き起こす要因であるところの)不満というものは困窮に何とか堪えられるとき、つまり条件が改善されて理想的状態がほぼ実現されようとしているときが、もっとも高いようである。不平というものは、それがほとんど除かれたときに、かえってもっともはげしくなるのである」

なるほど、「自己放棄」「理想の直前状態」などは、自分の知るムーブメント成功例にもあてはまるキーワードです。さらに人々をして運動へと駆り立てる「自己放棄」精神のレシピとして、

「個人をしっかり結合した集合体に融合させ・・・、想像上の自己を与え・・・、彼に現在を非難する態度を教え込み・・・、彼の興味をまだ存在しないことに固定させ・・・、彼と現実との間に事実を通さない仕切りを差しはさみ・・・、熱情の注射を通じて、個人とその自己との間に、強固な均衡が確立するのを妨害する」

などと続きます。さらにホッファーは「潜在的回心者」として、大衆運動に動員しやすい人々の種類を細かく挙げてゆき、それがこの書の中核部分です。その後、結論近くで彼はこう要約します。

「運動は言論人によって開拓され、狂信者によって具体化され、活動家によって強化される」

それぞれのステージに、それぞれのプレーヤーが紐付くのであって、これ以外の組み合わせでは運動は起きないというのです。そして、それらの一つ一つに、いちいちごもっとも、というべき実例が豊富に提示されるところが、この本の真骨頂でしょう(もっとも、20世紀前半の話ばかりですが)。とはいえ、これらの引用はいずれも周辺の説明抜きでは分かりにくいものばかりですので、中身については、やはり実際にお読みいただくのが一番です。

とまれ、私はこういう読書体験をきっかけにして、いろんなことを考えます。

わたしたちは、人(や組織)を動員すべく誘い出しておき、動員された人が計画されたとおりに動くことをもって「成果」とみなしたりはしません。そこには計画されたこと以上の新しいものは何も生まれない。しかし、内発的なやむにやまれぬ動機によって動きはじめた人たちが、互いに働きかけて意図を超えたダイナミックな相互啓発に取り掛かり、その運動が一定のティッピング・ポイントを超えるとき、それは一大ムーブメントとなります。そこには計画の総和以上の生成物が生まれます。その爆発の場をどう作るか、だれに起爆ボタンを持ってもらい、どうやって爆薬を仕掛け、いつボタンを押すのか、こういったことを練り上げ、企業の中に仕掛けてゆくのがわたしたちの仕事です。いろんなヒントが得られる読書でした。

ちなみに、原題は「The True Believer」つまり「真の信仰者」です。ホッファーは、あらゆる大衆運動の本質を、宗教運動のメタファーでとらえようとしているようです。うーん、「真に、信じる」、もっと日常的な言い方をすれば「真(ま)に受ける」ことから、運動は始まるのか。なるほど。