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未来予測の不毛-ドラッカー「すでに起こった未来」

田原 慎治です。

先日会議で、評論家たちがこぞって予測したがる未来が、たいてい『20年後』であることに関する話題が出ました。ちょうど今月の「文藝春秋」の特集も20年後の日本というテーマです。10年後でも15年後でもなく、20年。そういえば最近もとある会社で「将来のサービス事業構想」に関する演習形式の研修を実施しましたが、その際にどれほど先の「将来」を想定するかを受講者の皆さんにお任せしたところ、案の定「20年後」が出てきました。

幸いなことにその演習では質の高いアウトプットが得られたのですが、一説によれば、これは「無責任に言い放つことができる絶妙のタイミング」だそうです。たとえば今40代の産業人たちの多くは20年後にリタイア(しようと)している。それ以下の年代にとっても、20年後に今とまったく同じ仕事・部署で仕事をしているとは考えにくい。これが仮に10年後なら、あるいは現在の仕事の延長線上に自分の職務があるかもしれない。でも、さらに先になると、自分の仕事であるという当事者意識はなかなか持ちにくい。むしろ「あとは野となれ山となれ」です。そのような将来を語る上で一番キリのいい数字が20年後。

P.F.ドラッカーも「未来学者」と呼ばれることが多い人です。しかし、彼は意外にも未来について多くの仮説を述べているわけではありません。彼がハーバード・ビジネス・レビューで「すでに起こった未来」を発表したのは1997年ですが、同趣旨の論文が早くも1951年に同誌に掲載されています。詰まるところ、彼が確実な未来と述べているのは一点に尽きます。何だと思われますか? 経済動向でも、政治動向でも、地球環境動向でもない。「人口動態」です。こればかりは数十年先まで確かな数字です。そのようわけで、この数字はさまざまな予測の根拠になります。労働力人口、医療制度、保険制度、介護制度、教育制度、年金制度、エネルギー計画、防衛計画、食糧計画、などなど。

しかし、考えてみればその種の「予測」には何の構想力も関係しません。単なる予測であって、物事が今の流れのまま自然に進展すると、どこかのタイミングでどう数字が推移してゆくかを客観的に叙述しただけです。そこには世界に対する「わたし」の関わり方は何ら算入されない。鬼の首でも取ったかのように「絶対に未来はこうなる!」と叫んだところで、だから何なのか。産業人に真に必要なのは、単なる未来予測力ではなく、その未来を自らの意思によって変えてゆく未来変革力のほうです。もし自分がこの世界に(この会社に、この業界に、この国に、このコミュニティーに)いなかったらきっと異なっていたであろう事態が、自分が関わることによってどのように引き起こされるのか、そのことを語る力。その意味で、「20年後」は産業人として無責任なレンジであると、そう思った次第です。世界を変えるプロダクト・制度・概念を生み出してきた先人たちは、そういう未来変革力の持ち主でした。そのような変革力・構想力が、たとえば人口動態といった確実な未来にしっかり結びついているなら、その種のアイデアはたいへん魅力的でしょうね。

単なる「20年後の未来予測」には、そのようなわけで、どうも興味が持てないのですが、しかしながら、本気で世界を変える決意をした人が、自らの関与する世界を構想して、それをきっちり積み上げた挙句に「20年後へのコミットメント」を静かに語るとすれば、それには大いに耳を傾けてみたいと思います。