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話と発話者を区別する-ロキーチ「開かれた心と閉ざされた心」

このところ数年、ディベートの研修に出講しています。ディベートとは、自分の信念をいったん脇に置いて、敢えて一つの立場で、次いで逆の立場で立論するゲーム形式の討議のことです。これが盛り上がることといったら! その種の研修を実施するうちに、共通の特徴がいくつかあることに気づきました。三つほど挙げると;

一つ目は、実に立論がうまいことです。限られた時間でMECEに根拠を集め寄せて議論を組み立てるスキルは、みんなおしなべて高い。惚れ惚れするような論議が矢継ぎ早に繰り出されます。わたしが若いころはそんな能力が大事だなんて思ってもみなかったのですが、今は新卒の会社員たちがすでにそんなスキルを身に着けて入社しているようです。

二つ目は、「信念をいったん脇に置く」ことが苦手であるということ。常々、日本人は自分の信念に合致しない主張を言い募ることが苦手だ、だからディベートトレーニングは日本には馴染まない、といったことがよく指摘されてきました。こういった姿勢は無責任かつ道徳的に不誠実である、と感じられてならないようです。研修では、「責任なんか取らなくていいから、とにかく発言してみよう」、「発言と意見は異なる」と学んでゆくうちに、次第に心理障壁が下がってゆく場面によく出会います。そのようにして、「語ったからには責任を取らねばならない」という呪縛から自分を解き放つべく、「議論する力」「飛躍する力」のようなものを学んでゆきます。

さて、三つ目は何か。ここでいったん、ミルトン・ロキーチという人の「開かれた心と閉ざされた心」(“The Open and Closed Mind”,1960)を紹介します。邦訳がないので、以下はサミュエル・I・ハヤカワの一般意味論のテキスト「思考と行動における言語」からの孫引きです。

ロキーチによれば、伝達的事象は便宜的に話し手と話の内容の二つの要素に分けることができます。聞き手が伝達に反応する仕方は、次の四通りです。

 1:話し手とその話の内容とを、共に受け入れる。
 2:話し手は受け入れるが、話の内容は拒否する。
 3:話し手を拒否するが、話の内容は受け入れる。
 4:話し手とその話の内容を、共に拒否する。

ロキーチの言う「閉ざされた心」の持ち主は、1と4の反応しかできません。それに対して、「開かれた心」の持ち主は、もっと複雑な2や3の反応も示すことができます。開かれた心とは、人が世界についてもっと知ろうとする態度を持つことであり、閉ざされた心とは、世界に対する好奇心を弱めることです。ハヤカワの解説によれば、成熟した知性の持ち主は「開かれた心」があるので、話し手を拒絶しながらも、同時に話の内容を受け入れることができるし、話を拒絶しつつ、話し手を受け入れるといったことができるのだそうです。その後、この区分は精神医学の基本的な心得になりました。

そこで本論に戻ります。ディベート研修で見出す三つ目の特徴とは、実はジャッジ役を任せるオーディエンスにみられる特徴なのですが、ほかでもない、ロキーチが言うところの1か4の人たちが多いということです。「中身は良かったが、あの言い方がよくなかった」といった、「情緒的な」ジャッジが実に多い。ジャッジの情緒化傾向自体は当然あってよいのですが、問題は、その比率がかなり高いということです。どうもディベーターに対する(立論以外の、多くはノン・バーバルな面に由来する)共感度の多寡が、立論への共感度にも相当影響しているようです。

実際のビジネスの現場でもよく出会う場面ではないでしょうか。何が語られているかではなく、だれが語っているかが判断の材料になる。もっとも、ビジネスの現場ではディベートのような場面は普通ありません。主に会議の場で、だれの意見が結論として採用されるかです。立論の妥当性・客観性ではなく、「この場のボスはだれか」「この中ではだれが偉いのか」を見分けることに参加者たちの貴重な知的・時間的リソースが費やされてしまい、本質的な「何が語られているか」がおろそかになってしまう。そんなのは会議でも議論でもなく、単なる通達なんですが。

本当はそんなことにではなく、ひたすら「何が」語られているかに聞き耳を立てる。それがもっともな論議であれば、どんなに気に食わない相手からの諫言であっても、下っ端のつぶやきであっても、謙虚に受け入れる。そのようにして、語り手と発話内容を分ける。こういったことの大切さを、いつもディベートの様子を見守りながら、自分自身に教え込むとともに、みなさんにもお話ししています。

ところで、ロキーチが登場したハヤカワの著作も得るものが多く、実はわたしのお気に入りの一冊です。ハヤカワはカール・ポパーを引用してこうも言います。

「理性を信頼するということは、われわれ自身の理性を信頼するというばかりでなく-さらにいっそう-他人の理性を信頼することである。…だから合理主義者は…たとえ彼の知性が他人に優っていても、それは単に彼自身および他の人々の誤りから学ぶことはもちろん、批判からも学ぶという能力を持っているにすぎない。」

本当にそのとおりだと思います。

次回は4月に実施する予定のディベート研修が楽しみです。きっとこのたびも、わたし自身の産業人としての成長機会になることでしょう。