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「気持ち」は構造化できるか?-九鬼周造「いきの構造」

田原 慎治です。

しばらく前に、とあるパートナー会社で「感情表現を体系化する」という議論に混ぜていただいたことがありました。感情はいくつに分類できるのか、という話です。その時教えていただいた基礎理論の一つが、「プルチックの立体モデル」でした。これは納得感の高いモデルで、タテ・ヨコ・高さ3次元の感情配置モデルで(正確には円錐形」をしている)、種々の感情の強さと色彩とを整理しようという試みです。学生時代、日本語研究センターの中村 明先生のもとで文体論を勉強していたので、語感の僅差にどこまでも敏感に寄り添い続けるということが興味の一つであることもあって、なかなか面白いディスカッションでした(あの教室が懐かしいなあ。そういえば、中村先生が最近「語感の辞典」を岩波書店から出されましたね。祝)。

ともあれ、その議論をしながら思い出したのが、九鬼 周造の「いきの構造」です。もうずいぶん版を重ねている本ですが、たとえば岩波文庫版で読まれた方なら、表紙の四角柱(直六面体)の図を思い出されることでしょう。さて、今回注目したいのは、この図の話に尽きます。

あまりにも有名な論考なので説明も面映ゆいのですが、「いき」などという極めて情緒的かつ日本的な、説明のしにくい概念を、似て非なるもの=近接概念や、対極にあるもの=反対概念を巧みに使って「見える化」してしまったのがこの論考です。どのようにか。

まず、九鬼は「いき」その他の概念を、「人証的一般性に基づくもの」と「異性的特殊性に基づくもの」に分けます。次いで、それぞれの概念をそれぞれを「対自的(価値的)」なものと「対他的(非価値的)」に分けます。ここまでですでに2×2とおり、つまり4種類の概念グループが作られたことになりきます。さらに進んで、このうち「対自的」概念にはさらにプラスの概念「有価値的」とマイナスの概念「反価値的」が紐付き、「対他的」概念にはプラスの概念「積極的」とマイナスの概念「消極的」が紐付きます。これにより、合計8つの日本的情緒的概念が整理できるというわけです。まとめますと、次のようになります。

  • 「人証的一般性」×「対自的」×「有価値的」=上品
  • 「人証的一般性」×「対自的」×「反価値的」=下品
  • 「人証的一般性」×「対他的」×「積極的」=派手
  • 「人証的一般性」×「対他的」×「消極的」=地味
  • 「異性的特殊性」×「対自的」×「有価値的」=意気(これがタイトルにある「粋」)
  • 「異性的特殊性」×「対自的」×「反価値的」=野暮
  • 「異性的特殊性」×「対他的」×「積極的」=甘味
  • 「異性的特殊性」×「対他的」×「消極的」=渋味

これらのパラメータの違いを具体的な芸術を例にとって説明し尽くすのですから、すごい。

しかし、それだけではありません。続いて「風流」の正六面体、そして「情緒」の系図なるものも出てきます。前者では「風流」に内包される6概念がやはり六面体で図示され、後者では「情緒」に関連した43もの感情語が、その感情の強さを円の大小で表現しながら、一幅の図となっているのです。「情緒」の系図については次のように解説されます。

「・・・図は、なるべく簡明であるために、あまりに派生的な情緒は省略した。そうして、主要な十種の情緒は大きい円であらわしておいた。「欲」と「寂」とを含む点線の円は、個的存在としての人間の中核を示している。そのすぐ上と、すぐ下には、緊張弛緩の感情が位置を占めている。更に上部には、興奮沈静の感情である「驚」の周囲に、いわゆる情操または高等感情の構成要素が一群をなしている。下部には、「嬉」「悲」「愛」「憎」を四つの中心として、快不快の感情が多様に展開している。「恐」と「怒」とは動物進化上に意義のある本能的情緒と言ってよいであろう。「寂」「哀」「憐」「愛」「恋」をつなぐ線が、特に人間学的重要性をもっていることは、看過してはならない。個体性の「寂」と有限性の「哀」とが論理的関係にあること、主観的な「哀」と客観的な「憐」とが相制約し合うこと、「愛」が自己否定的な「憐」(アガペ)と自己肯定的な「恋」(エロス)との二方向を弁証法的に内包していること、有的な「恋」の裏につねに無的な「寂」が基礎付けをしていること、等はこの図によっておのずから明らかであろう」。

どうです。図を示せないのが残念でなりません。ともかく、感覚的な表現を構造化することが、1930年の時点で、すでにこのような仕方で試みられていたということが、たいへん興味深く感じられます。もちろん、九鬼哲学の真骨頂は単なる図示にあるのではなく、その考察一つ一つの深さです。

しかし、面白いもので、こうやって構造化されたものをじっくり読みこんでゆくうちに、自分の語法との微妙な違いにも気付きます。「本当は(本当なのかどうかは分からないが)こういう意味だったのか!」という気付きです。「もしかすると、自分のあの感覚は、今後こういう風に言い換えなければならないのかもしれない」とか、「あれとこれとは、特定の角度から見れば同じ意味合いを持っていたのか」といった豊かな発見がありました。

ただ「構造化」作業、すなわち「特定の系全体が、何と何という部品から成り立っている」という要素還元思考は、歴史的な行き詰まりを迎えます。そのような要素分解は、「だから何?」という疑問で、終わってしまうからです。自然科学はそれでも究極の要素分解である量子論や数論へと進み、宇宙の謎を解いてきましたが、社会科学や人文科学では、要素還元それ自体は、さほど豊かには生み出さない。だからこそ、さまざまな学問領域がやがて「関係性」に着目する方向へと転換してゆきます。そのようにして、世界を構成する粒はますます細かくなると同時に、粒と粒を結ぶ線の網目が大量にできあがり、「世界が分節化」されて現時点の世界鳥瞰図と相成っています。適度に分けたら、次はつながりを観察して「何事かを言ってみる」。その仮説の正しさを検証すべく、さらに詳細に分けてみる。あるいはつながりを変えてみる。こんな思考錯誤によって、世界はますます小さくなってゆきます。

感情面に限っても、この種の分節化作業をさらに推し進めてゆくなら、そのうち、わたしたちの「意識」や「感情」はさらに精度の高い言葉で説明がつくようになり、「感情」と「感情」の関係性も膨大なマップ上に「構造化」されてゆくかもしれません。そのマップが完成した日には、人間にとって「微妙な気持ち」とか、「言葉にならない気持ち」なんてものはなくなってしまうことでしょう。もしかすると「親子の間の愛ですか?男親から息子、それも長男に対する愛でしたら、それは感情座標上の、x2034×y346×z5515の気持ちですが、二男の場合はzのパラメータが5516になります」なんてことに・・・なるわけないか。