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定義の大切さと難しさ-吉本隆明「言語にとって美とはなにか」

田原 慎治です。

「定義」の大切さと難しさについて考えています。

コンサルの現場で、「成長」「指導」「育成」「モチベーション」「マネジメント」「チームワーク」などなど、種々の人事・教育タームをあらためて定義ないし分節化する機会があります。ほんの一、二年前まで、産業人教育の業界内外で「論理思考」「クリティカル・シンキング」といったテーマの文献や研修が大流行していて(さすがにやや下火になりましたが)、そのブームが、「とは何か」系の思考に火を付けたといってもいいでしょう。わたしたちも、「とは何か」系の話題には敏感です。

というのも、「とは何か」というクリアカットな思考の形態は、正解のはっきりしないビジネスの世界に、ある種の科学的な方法を持ち込んでいるようなところがあり、それゆえに、手探りで前に進むことの厳しさや難しさを痛感している産業界からは歓迎されやすいのです。もっとも、無理やりにでも何かを定義し、それを足がかりに思考を前に進め、課題を前景化させることは、ビジネスの世界のみならず、あらゆる学究領域で行われてきた手法です。ビジネスの世界でも、たとえば次のような定義を上手に使えば、いろんなアイディアの広がりが生まれてくることは、容易に想像できますね。

  • 事業の目的とは、顧客の創造である(P.ドラッカー先生曰く)
  • マーケティングとは、セリングを不要にする活動である(本当かな)
  • 問題とは、「あるべき姿」と「今の姿」のギャップである(どんなビジネス本にもそう書いてある)

繰り返しますが、こういう思考の契機はたいへん役に立ちます。何事も、それ「そのもの」を定義しなければ、その内訳を並べて見せるわけにはいかず、その内訳がわからなければ身につけかた(つまりハウツー)も浮き上がってこない。つまり、あらゆる活動が前に進まないからです。

・・・と、今でこそ「とは何か」をクリアカットに言い切ることの大切さを日々唱えているわけですが、実はこのことは、わたしにとってはこの業界に入って初めて学習して覚えたことの一つでした。

というのも、経営にせよ、経済にせよ、人材育成にせよ、社会科学系の現場では非常に重要かつ基本的な思考の型となっているこの方法が、わたしの出身領域(人文系)ではほとんど重要視されていないからです。むしろ、「とは何か、などという根源的な事柄を、単眼的、専一的に定義してはならない」という不文律が貫かれているように思います(自分だけの感じ方かしらん)。たとえば、中学生のとき読んだ、亀井勝一郎の「現代人生論」の冒頭は今でもよく覚えています。

「人生とは何ぞや、という広漠たる質問に、わたしは答えることはできない」(おおむね、こんな感じ)

「人生とは何かを論じます」と大風呂敷を広げた著作が、いの一番に「それは言えない」と開き直ることから始まっているわけです。かくも人文系では、「とは何か」を前面に出した読み物がはっきりとその定義を示してくれることは、実は案外少ないのです。文芸批評の中では必読書とされる文献が、軒並みそんな感じです。

  • 「言葉とは何か」(丸山圭三郎)は、言葉とは何かを一言で定義してくれない。
  • 「言語にとって美とはなにか」(吉本隆明)は、言語にとって美とは何かを一言で定義してくれない。
  • 「文学とは何か」(T.イーグルトン)は、文学とは何かを一言で定義してくれない。

このようなことが常態であるような世界に、わたしはずっと漬かってきました。それ「らしき」文言が、それとわずかに袖擦り合う程度には出てきますが、それ「らしき」ものは、それ「そのもの」ではありません。そういう定義不在のありようにあまりにも馴れてきたわたしにとっては、いろいろなものをクリアカットに言い切ることへの苦手意識がずいぶんありました。

たとえば、上記の吉本などは、そのタイトルがあまりにも魅力的なので、たいてい「その答えは?」と思いながら読み進めるわけですが、どこまで読んでも、「とは何か」に行きつきません。そして、行きつかない間にも、言語にとっての「意味とは何か」「価値とは何か」「像とは何か」と、どんどん話が拡散してゆきます。そしてそれらの一つ一つにも、そのものずばりの定義が示されず、実例やら、比喩やらでどんどん話が広がってゆき、モヤモヤのまま、いつの間にか次のトピックになっているのです。

「像とはなにかが、本質的にわからないとしても、それが対象となった概念とも対象となった知覚ともちがっているという理解さえあれば、言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされることは、了解できるはずだ。あたかも、意識の指示表出というレンズと自己表出というレンズが、ちょうどよくかさなったところに像がうまれるというように。」(定本 言語にとって美とはなにかⅠ」(角川選書版)

何が何だか分からない。そしてこう続きます。

「対象としてつくられた像意識とはなにかについて、ここは深入りする場所ではない。」

これなども、論じ始めておいて、「論じない」と言い切るスタイルです。のらりくらりと、言うべきことを言わないで逃げているような感じ。それでも読み終えるころには、「だいたいこんなことを言っていた」ということまでは聞き取ったような感覚だけはある。ただし最後まで定義そのものは覚えていない。だって出てこないのだから。・・・こんな読書体験を重ねた人間がやがてビジネスの現場でどんな苦労をすることになるか、容易にご想像いただけることでしょう。

ところが。

実際に「とは何か」を思考してみると、どうやら身動きが取りやすいことに、わたしも気付くようになりました。たとえば、「成長とは何か」と考えてみる。それを「良い方向への変化志向」である、つまり自分にとっての「良い」×「腰の軽さ」と定義する。その途端に、頭の中の霧がさっと晴れて、「良い」をさらに分節化してみよう、とか、腰の軽さを身につけるために何をしようか、といった次のアイディアへと跳躍することができるようになります。これは実に貴重な発見でした。これは冒頭に述べたとおり、方向指示器役を果たさねばならないコンサルの現場では非常に重要なスキルといえるでしょう。

もっとも、あるものを「~である」と定義した(抽象した)途端に、その定義に含まれない(捨象した)側面がすっぽりと抜け落ちてしまう可能性と危険性に自覚的であることの必要性は、体の奥底までしみついています。だから、いろんなことをクリアカットに言い切ることのできる人を「うらやましい」と思いつつ、同時に「もったいない」とか「危ない」とも思うのも、また確か。この中間点で今もブラブラと両睨みが続いているのです。