月別アーカイブ: 2011年1月

二項対立は超えられないか-サイード「知識人とは何か」

田原 慎治です。

サイードで思い出すことと言えば、もう10年くらい前になるでしょうか、朝日新聞に連載されていた、大江健三郎との往復書簡です。あとは3年前にイスラエルに旅行するにあたって「予習」のために読んだ「オリエンタリズム」。そういった書き物に比べれば、BBC向けの講演をほぼそのままの形で編集しただけあって、かなり読みやすかったのが、本書「知識人とは何か」です。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」(大橋洋一訳 平凡社版)

その真意については本書をご参照いただくことにしましょう。いずれにしても、立論の道中、なかなか爽快な場面が随所に現われます。たとえば、フランシス・フクヤマ(「歴史の終わり」)やサミュエル・ハンチントン(「文明の衝突」)などをばっさり切り捨てているあたり。曰く、

「いずれも、よくもまあこれほどありきたりで、嘘っぱちな議論はないといえるほどの、とんでもないいんちきではないか。」

リオタールの「大きな物語消滅」論も、問答無用で切り捨てられます。その種の、一時期メディアを賑わした「分かりやすい」、時代を大所高所から鳥瞰した論述は、どうやらサイードの肌感には合わなかったようです(なるほど、読んだ途端に何となく世界が分節化できたような気持ちにさせてもらった、あの種の論述が嫌いなんですね。分かるような気がします)。続いてサイードは種々の「知識人」定義に言及しますが、中でもグラムシ、ジュリアン・バンダ、アドルノ、ジャンバティスタ・ヴィーコ、C・ライト・ミルズらの見識を高く評価しています。視点は一貫しており、「公的な場での批評精神」、「権力への懐疑」といった姿勢です。

そこで。

この書における「知識人」は「the intellectual」の訳語です。もっと一般的には「知性的な人」「知的な人」と訳される言葉です。そこでどうしても思い至るのが、知性的な人とは、本当にサイードが言うように弱者=少数派の代弁者なのだろうか、という疑問です。弱者=善、強者=悪という二極対立思考の危険についてはずいぶんいろんな人が論じてきているはずだのに(比較的最近の日本の論壇では小浜逸郎や中島義道などが書いていて、なかなか面白い)、サイードは敢えてその紋切り型の思考を正面からぶつけてきます。しかし、論理的に考えるなら、弱者=少数派の中にも往々にして存在する邪悪なものを見逃すことはないでしょうし、多数派=強者の中にある善をそれと知りつつ語らずに済ませることはないことでしょう。ポスト・モダンが「善悪二元論で語るのを、そろそろやめましょうよ」と言えば、「いや、そんな価値相対化は許さない」という立場、ここまでは分かるんですけどね・・・。もちろん、この講演集はあくまでもサイードの論評そのものではなく、論評を包括的に論じた「メタ論評」ですから、実際の仕事の中では、きちんと「反対側への目配り」をしているのかもしれない。しかし、それにしてはこの書の中で論じられる具体的なケースが、どうも「弱者=善」を無反省に言い募っているようで、ややすっきりしないままに、読み終わりました。

ここでコンサルの現場へ。

少数派の論点もきちんと議論の俎上に乗せる、それがわたしたちが指向する「議論の見える化」とか「図で考える」といったスキルセットの根底にある考え方です。たとえば、わたしたちコンサルタントには、会議の最中などに賛否両論を整理すべく、ホワイトボード上に縦横一軸ずつざっと十字を描いて、マトリックスに事象をマッピングするという、癖のようなものがあります。ここに一つのトリックがあって、そうやって図に描くと、たいてい相反する種々の立場が「見た目に同じサイズになる」のです。実はこの「同じ」であることがミソなのです。

マトリックスで「同じサイズ」にしてしまうことは、先入観を排除してくれ、潔く意思決定を行う後押しをしてくれます。しかし、そのようにしてバッサリ二つに区切った瞬間に「その両方である」や「どちらでもない」が、同様にきれいに排除されてしまいます。この割り切りを「気持ち悪い」と思う人と、そうでない人がいます。わたしは「気持ち悪い」派です。もっとも、その気持ち悪さを痛感しつつ、あくまでも道具として、その種の思考法を「都度使い回し」ます。ただし、どの瞬間にも、自分がある種のものを「切り捨てた」ことに無自覚であってはならないともまた思うのです。このあたりの迷いが前面に出てしまうところが、自分がコンサルタント向きではないところなんですけどね。そこは大いに自覚しています、はい。

いや、サイードの言わんとしているのは、そういうことでもないのかもしれないな。そうやって「ばっさり切って」はいけないんだろうな。いや、やっぱり切っているよな。いや・・・(以下、無限連鎖)。

モデル化の功罪-野中郁次郎ほか「失敗の本質-日本軍の組織論的研究」

田原 慎治です。

少し前に野中教授とお目にかかる機会がありました。

例のSECIモデル(暗黙知、形式知・・・の、あれです)の現場ドキュメンタリー集とでもいうべき「流れを経営する」(東洋経済新報社)の読書会に、著者自らお出向きになられた、そんな場面でした。このところずっと野中教授の前に前景化しているのは、「ニコマコス倫理学」から着想を得た「フロネシス」(賢慮、実践的知恵、文脈判断の知恵など、さまざまに訳される)理論であるようです。これを、産業活動にどう活用するか、というテーマについて話を聞きました。「SECIモデルをもう一段階スパイラルアップさせたので、聞いてね。ついでに本も買ってね」と、熱く語っておられたのが印象的でした。

その野中教授が、防衛大学校の先生がたとともに1984年に出版されたのがこの本。司馬遼太郎をして「こればかりは何一つ希望がないので、題材にできない」と言わしめたノモンハン事件をはじめ、ガダルカナル、インパール、ミッドウェーなど、旧日本軍の失敗から何を学べるか、という趣向です。

「組織が継続的に環境に適応していくためには、組織は主体的にその戦略・組織を環境の変化に適合するように変化させなければならない。・・・自己革新能力のある組織は、以下に述べるような条件を満たさなければならない。」

その条件として、昭和初期の日本軍の振る舞いの裏返しであるところの

  • 不均衡の創造
  • 自律性の確保
  • 創造的破壊による突出
  • 異端・偶然との共存
  • 知識の淘汰と蓄積
  • 統合的価値の共有

の6つが挙げられています。そして、巻末。日本企業の戦略と組織への提言をもって本書は締めくくられます。要は、現代の日本企業に対して各所から言われている提言を、珍しい切り口から論じられたというものです。ただし、その方法論はSECIモデルそのものです。要は、創発的学びが機能していない、と。

組織学習論については、すでに山ほど語られてきました。「学習する組織」(センゲ)、「ダブルループ学習」(アージリス)、「知識創造」(野中郁次郎)、「心理的契約」(シャイン)・・・。とにかく、何かしら人類の知的アーカイブからいろいろな知見を引っ張り出してきては並べ直し、モデル化することによって手順化するという手法は、何事かを「分かったような気に」させてくれる便利な方法です。

ただ、いろんな研究が進み、手法がモデル化された現在でも、全体として世界の経済は特に進歩・成長しているわけではなく、次から次へと新たなツールが紹介されて「流行り廃り」が繰り返されています。いい加減、キャッチアップ自体が面倒くさくなってきませんか。少なくともわたし自身は、何を聞いても「どこかで聞いたな」と思うようになってきました。何を聞いても「これは古いな」と思うということは、適用・活用の敵です。かくして、確かに良いことが語られているのでしょうが、活用されないままに、目先の趣向を変えたものが次々と繰り出されてゆきます。

そこで思うこと。

ウィトゲンシュタインは言います。「問いが成立しうるのは、答えが成立するときである。答えが成立しうるのは、何事かを語りうるときである。語りえないものについては、沈黙しなければならない」。ホントはやっちゃいけないとされている、「コンテクストを無視した部分解釈」を乱暴に行えば、前段はこうなります。

「何が問題だったのかは、答えがおぼろげながら見えてきて初めて事後的に認知できる」。

成功例は、事後的に成功モデルに沿っていることが明らかになり、失敗例は、事後的に成功モデルから外れていたことが明らかになる。したがって、失敗の本質とは、失敗を事後的にしか認知できないことにある。事前に失敗が「認知」できていれば、いかに日本軍といえども、しなかったわけですから。身も蓋もない話ですみません。でも、そういうことです。

「これは、こういうことになっていた」という「後出しじゃんけん」的な読み解きは、意味を持たない。とすれば、いかに読み解けない段階でリアルタイムに、ビビッドに反応し、身をこなしてゆくか。考えては試し、試しては再考するというきわめて小規模なPDCAをどう回すか。産業人としての成長は奥が深いですね。

教養について考える-ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」

田原 慎治です。
1967年生まれのわたしは、「ポスト教養主義」世代です(教養主義については竹内洋「教養主義の没落」=中公新書をご参照ください)。最も多感な学生時代が1980年代ですから、論壇やキャンパスで批評の対象になった多くの出来事をまったくリアルタイムで体験していない。政治も、文学も、音楽も、演劇も、学友との面倒くさい議論は一切なし。ただ好きなものを、好きな者同士が集まってにこやかに楽しむ、すでにそんな世代でした。
世代を貫く連帯感を表現するなら、「手触り感が分からない」ことがあまりにも多いことへの「口惜しさ」、とでも言えましょうか。こんなネガティブなワーディングでしか自分たちの体験を共有できないことが、わたしたち、売り手市場世代、バブリーな青春時代を謳歌させてもらった世代の、実は悲しい原体験なのです。
そういえば、「1968-若者たちの叛乱とその背景」の著者、小熊英二が1962年生まれということになっていて、全共闘時代について書こうとしてるのだけれど、やはり本人は実体験がない。だから二次・三次資料を使うときに当時の「ニュアンス」をごっそり無視してしまっている、なんてことがひと頃批評されていました。わたしも自分の肌で経験していない「日本の来し方」があまりにも膨大なのでどう自分の中に取り込んで行ってよいのか、判断を留保したまま今に至っていることを、恥じつつ認めます。なにしろ、浅田彰らによるニューアカ・ブームが始まったかどうかのころ、のんびり中学を卒業した世代なのですから、半分くらいは勘弁してください。ただ岩波文庫の「緑帯」だけを必死で読み散らかしており、その「必死さ」だけがわたしのせめてもの「恥」の表われでした。
そんなわけで、大学に入って、アジビラや立て看板(の名残り)を見たり、些細な趣味の違いを肴に侃々諤々の議論をしていたというほんの十年ほど前の学生たちの話を聞かされるたびに、羨望とも旧懐ともつかない、不思議な感覚を抱いたことを思い出します。
そして社会へ。やっぱり多様な世代と(まがりなりにも)広い世界を相手に仕事をするには、教養が必要だと思い至ります。もちろん、抄録的知識はあります。けれども、何を語るにつけても、ちょうど、本文を読まず「もくじ」と「あとがき」だけを読んで読書感想文をでっちあげた(そして不思議と褒められた)「少年の日の思い出」(Byヘッセ)が蘇えってくきます。付け焼刃的な情報で一時しのぎをしようにも、常に各書の「原典」に当たっていないということがどうしても「引け目」となり、やましく感じられる。いつだってエミールから「そうか、つまり君はそういうやつだったんだな」と言われているような気分です。追いつけない「教養」へのルサンチマンにまみれてきましたが、ようやく最近になって、ほんの僅かばかり眺望が開けつつあります。

前置きが長くなりました。アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」(菅野盾樹訳、みすず書房)は、そんな80年代のアメリカの大学生における「教養主義の没落」を、実に多方面から観察した大著です。入学時点が最も教養レベルが高いとされる日本の大学ではなく、それなりの勉学生活を送るとされているアメリカの、しかもアッパークラスの大学にして、教養がすでに文化資本の意味を失っていることを、克明に描いてみせます。

議論の中核に据えるのは、アメリカが持つ「価値相対主義」のネガティブな側面です。ヨーロッパだけが世界の中心ではないという相対世界観に建国の理念が根ざすアメリカでは、さまざまな思想が等価であるがゆえに、真の教養の目指す「人としてよく生きること」「真実に、また完全に生きること」「真・善・美の追求」などの地位も相対的に下がるのだとか。だから当今の学生たちにはもっと教養を身につけてもらおうではないかという、実に割り切りのいい議論です。個人的には、「悩み」の感じられない、竹を割ったような論旨の立て方には要注意、という直感が働いてしまって、ところどころ眉に唾をしながら読みましたが。
とはいえ、「教養」の重要性そのものについては、間違いなく著者の述べるとおりだと、思うのです。
企業内教育に携わっていると、若年層のみならず、次期経営幹部といった人たちまでが、自身のリテラシーの低さを棚に上げて、「そんなこと、分かりません」と開き直ってくる場面に、結構遭遇します。「そんなこと(そんな言葉、そんな人、そんな本)、知りません。ぼくが分からないのは、知らない言葉で説明しているあなたが悪いからです」と、正面切って言われたことがあります。よほど見当違いの分野の話をしているならまだしも、彼らの専門領域の話でありながら、です。泣けますね。そこで必要なのは、共通の話題の源泉としての「教養」ではないかと、わたしたちは考えます。自分の教養不足を嘆いているわたし自身が、仲間の産業人のことをこんな風に思わねばならないことが、いかにも現代風ですね。
ピエール・ブルデューと共に言えば、この種の教養は「家庭内文化資本」です。「学校で教えてもらわなかった」とか、「これまで仕事で必要なかった」などと言わず、個人として、ご自宅で嗜んでいただきたい。この「教養」をいかにして身につけるのか、何を身につけるのか、そもそもなぜ身につけるのか、といったことについては、いずれまた。

「期待」ではなく「希望」を方法化する教育-イリッチ「脱学校の社会」

田原 慎治です。

企業内教育の現場で、よく「効果測定」が話題になります。何をもって施策(たとえば研修)が成功したとみなすか。やや古いのですが、「カークパトリックの4段階モデル」は今でも有効とされています。すなわち、

  1. Reaction(反応)=参加者の満足度
  2. Learning(学習到達度)=スキル・知識の理解度
  3. Behavior(行動変容)=職場における実践度
  4. Result(組織貢献結果)=行動がもたらした組織への影響

さらにこれに「5.費用対効果」を加えるべきだというJ.フィリップスの理論もあります。

いずれにしても、何らかの仕方で教育の成果は計測可能とする立場が、今や主流といっていいでしょう。業界を見渡せば、教育測定を是とする立場もあれば、わたしのように、肚の底では違和感を感じながらも戦略的に対応しているような者もいるのが実情です。

ところで、産業人教育におけるこの発想はどこからきているのかといえば、それは学校教育であると述べても差し支えないでしょう。上記の指標は、「費用対効果」を別にすれば、すべて小学校以来の「通知表」でよく見かけた文言ばかりだからです。いや、今や「費用対効果」という指標は学校教育にも確実に取り込まれていると言ってもいいようです。カリキュラムは文科省によって「シラバス」として「カタログ」化することが義務付けられ、子供たちは「これを勉強したらどんな得があるのか」と食ってかかり、企業は「市場価値」の高い人材を輩出せよと大学に迫る。すべて、貨幣経済のターミノロジーで教育が語られています。

この経済ターミノロジーに絡め取られた学校教育・産業人教育を何とかしなくてはならないと、この5年ほどの間にようやく議論がほうぼうで展開されるようになってきたように思いますが、実は早くも1970年に、この風潮にうんざりしている人がいたのです。

「本当は、人の成長は測定のできる実体ではない。それは鍛錬された自己主張の成長であり、どのような尺度やカリキュラムをもってしても測ることができないし、他人の業績と比較することもできないものである。・・・学校において何でも測定するように教育されてきた人々は、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。・・・人々は学校において、価値は生産することができ、測ることのできるものだという観念を教育されると、あらゆる種類の等級づけを受け入れるようになる傾向がある。・・・学校化された世界では、幸福への道はいわば消費者についての指標で舗装されているのである。」(イヴァン・イリッチ「脱学校の社会」東 洋・小澤周三訳、東京創元社)

イリッチによれば、学校システムの弊害は産業のあらゆる分野に及んでおり、上述の「測定」はその一面にすぎません。効果測定以外にも、学校はわれわれをどんなピットフォールに突き落としてきたか。たとえば次のとおりです。

「『学校化』されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も『学校化』されて、価値の代わりに制度によるサービスを受けるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう-」

Aという目的のためにBという制度を作る。途端に、Bの中に居ればすなわちAを達しているかのように誤解される。この種の「心理的不能化」ないし「破壊」を、イリッチは見事に喝破してみせます。そしていかに社会を脱学校化(deschool)するか、その方法論を具体的に論じてゆきます。この著作の中核である、「脱学校化プロセス」もたいへん興味深いものながら、わたしが最も感動したのは次の一節でした。

「われわれは希望と期待との区別を再発見しなければならない。積極的な意味において、『希望』とは、自然の善を信頼することであるのに対して、『期待』とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることである。『希望』とは、われわれに贈物をしてくれる相手に望みをかけることである。『期待』とは、自分の権利として要求できるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。(今日的)エートスは、今日希望を侵害している。人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている。」

イリッチの立場は「期待」ではなく「希望」の推進力としての教育です。教育とは、学校であれ産業界であれ、「計画され統制される結果」を目指してはならない。「予測可能な過程からくる満足」などは目指すべきものではない。そんなものに、何の意味があろうか、と、我が意を得る思いです。

旧来型の産業人教育システムを内側から解体しようと、意気込みだけは壮大です。

人が「動く」ことのからくり-エリック・ホッファー「大衆運動」

田原 慎治です。

インサイトのコンサルタントたちがしばしば議論してきたことの一つに、われわれは人を「動員」すべきかどうか、というテーマがあります。コンサルタントがクライアントを「動かす」とは、あくまでも「自分で自分を動かす」よう仕向けるのであって、決して「われわれが動かし」ているようであってはならない、といった話です。もっと正確にいえば、「人間は他人にきっかけを与えてもらいながら、あたかも最初から自分で自分を動かしていると‘錯覚’できる、高度な取り違え能力を持っているので、その能力に働きかけて、‘物事が動き始める場’を提供するのがわれわれの仕事である」、と、そんなことを口角泡を飛ばしながら議論しているわけです。

エリック・ホッファーという哲学者がいます。正規の教育は受けたことがなく、アメリカ西海岸で沖仲仕や農園労働者として糊口をしのぎながら、深い思索にいそしんだという人で、代表的な著作のひとつが「大衆運動」です(高根正昭訳、紀伊國屋書店)。自律的にであれ、他律的にであれ、人が「動く」とはどういうことかを、その是非を別にして、深く考察しています。これがなかなか示唆に富んでいる。

たとえば、人が何らかの「運動」に「動員」される要件は四つあるとホッファーは言います。

  • はげしい不満をいだいていなければならない。
  • 有力な主義を、誤まることのない指導者を、あるいはまた、新しい技術をもっているので、鬼に金棒の状態にあると感じていなければならない。
  • 未来の展望と可能性についても、とほうもない考えをもっていなければならない。
  • 自分たちの巨大な事業にともなう困難について、まったく無知でなければならない。

わたしたちも、まさにクライアントが上記のとおりに自ら感じ、振る舞うにはどうすればいいのか、と考えて、あれこれ策を練っています。ほかにも、鋭い観察が随所に。

「大衆運動は、出世の欲求を満足させる能力があるからではなくて、自己放棄の激情を満足させることができるからこそ、追随者を引きつけ、引きとめているのである」

「(運動を引き起こす要因であるところの)不満というものは困窮に何とか堪えられるとき、つまり条件が改善されて理想的状態がほぼ実現されようとしているときが、もっとも高いようである。不平というものは、それがほとんど除かれたときに、かえってもっともはげしくなるのである」

なるほど、「自己放棄」「理想の直前状態」などは、自分の知るムーブメント成功例にもあてはまるキーワードです。さらに人々をして運動へと駆り立てる「自己放棄」精神のレシピとして、

「個人をしっかり結合した集合体に融合させ・・・、想像上の自己を与え・・・、彼に現在を非難する態度を教え込み・・・、彼の興味をまだ存在しないことに固定させ・・・、彼と現実との間に事実を通さない仕切りを差しはさみ・・・、熱情の注射を通じて、個人とその自己との間に、強固な均衡が確立するのを妨害する」

などと続きます。さらにホッファーは「潜在的回心者」として、大衆運動に動員しやすい人々の種類を細かく挙げてゆき、それがこの書の中核部分です。その後、結論近くで彼はこう要約します。

「運動は言論人によって開拓され、狂信者によって具体化され、活動家によって強化される」

それぞれのステージに、それぞれのプレーヤーが紐付くのであって、これ以外の組み合わせでは運動は起きないというのです。そして、それらの一つ一つに、いちいちごもっとも、というべき実例が豊富に提示されるところが、この本の真骨頂でしょう(もっとも、20世紀前半の話ばかりですが)。とはいえ、これらの引用はいずれも周辺の説明抜きでは分かりにくいものばかりですので、中身については、やはり実際にお読みいただくのが一番です。

とまれ、私はこういう読書体験をきっかけにして、いろんなことを考えます。

わたしたちは、人(や組織)を動員すべく誘い出しておき、動員された人が計画されたとおりに動くことをもって「成果」とみなしたりはしません。そこには計画されたこと以上の新しいものは何も生まれない。しかし、内発的なやむにやまれぬ動機によって動きはじめた人たちが、互いに働きかけて意図を超えたダイナミックな相互啓発に取り掛かり、その運動が一定のティッピング・ポイントを超えるとき、それは一大ムーブメントとなります。そこには計画の総和以上の生成物が生まれます。その爆発の場をどう作るか、だれに起爆ボタンを持ってもらい、どうやって爆薬を仕掛け、いつボタンを押すのか、こういったことを練り上げ、企業の中に仕掛けてゆくのがわたしたちの仕事です。いろんなヒントが得られる読書でした。

ちなみに、原題は「The True Believer」つまり「真の信仰者」です。ホッファーは、あらゆる大衆運動の本質を、宗教運動のメタファーでとらえようとしているようです。うーん、「真に、信じる」、もっと日常的な言い方をすれば「真(ま)に受ける」ことから、運動は始まるのか。なるほど。