「期待」ではなく「希望」を方法化する教育-イリッチ「脱学校の社会」

田原 慎治です。

企業内教育の現場で、よく「効果測定」が話題になります。何をもって施策(たとえば研修)が成功したとみなすか。やや古いのですが、「カークパトリックの4段階モデル」は今でも有効とされています。すなわち、

  1. Reaction(反応)=参加者の満足度
  2. Learning(学習到達度)=スキル・知識の理解度
  3. Behavior(行動変容)=職場における実践度
  4. Result(組織貢献結果)=行動がもたらした組織への影響

さらにこれに「5.費用対効果」を加えるべきだというJ.フィリップスの理論もあります。

いずれにしても、何らかの仕方で教育の成果は計測可能とする立場が、今や主流といっていいでしょう。業界を見渡せば、教育測定を是とする立場もあれば、わたしのように、肚の底では違和感を感じながらも戦略的に対応しているような者もいるのが実情です。

ところで、産業人教育におけるこの発想はどこからきているのかといえば、それは学校教育であると述べても差し支えないでしょう。上記の指標は、「費用対効果」を別にすれば、すべて小学校以来の「通知表」でよく見かけた文言ばかりだからです。いや、今や「費用対効果」という指標は学校教育にも確実に取り込まれていると言ってもいいようです。カリキュラムは文科省によって「シラバス」として「カタログ」化することが義務付けられ、子供たちは「これを勉強したらどんな得があるのか」と食ってかかり、企業は「市場価値」の高い人材を輩出せよと大学に迫る。すべて、貨幣経済のターミノロジーで教育が語られています。

この経済ターミノロジーに絡め取られた学校教育・産業人教育を何とかしなくてはならないと、この5年ほどの間にようやく議論がほうぼうで展開されるようになってきたように思いますが、実は早くも1970年に、この風潮にうんざりしている人がいたのです。

「本当は、人の成長は測定のできる実体ではない。それは鍛錬された自己主張の成長であり、どのような尺度やカリキュラムをもってしても測ることができないし、他人の業績と比較することもできないものである。・・・学校において何でも測定するように教育されてきた人々は、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。・・・人々は学校において、価値は生産することができ、測ることのできるものだという観念を教育されると、あらゆる種類の等級づけを受け入れるようになる傾向がある。・・・学校化された世界では、幸福への道はいわば消費者についての指標で舗装されているのである。」(イヴァン・イリッチ「脱学校の社会」東 洋・小澤周三訳、東京創元社)

イリッチによれば、学校システムの弊害は産業のあらゆる分野に及んでおり、上述の「測定」はその一面にすぎません。効果測定以外にも、学校はわれわれをどんなピットフォールに突き落としてきたか。たとえば次のとおりです。

「『学校化』されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も『学校化』されて、価値の代わりに制度によるサービスを受けるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう-」

Aという目的のためにBという制度を作る。途端に、Bの中に居ればすなわちAを達しているかのように誤解される。この種の「心理的不能化」ないし「破壊」を、イリッチは見事に喝破してみせます。そしていかに社会を脱学校化(deschool)するか、その方法論を具体的に論じてゆきます。この著作の中核である、「脱学校化プロセス」もたいへん興味深いものながら、わたしが最も感動したのは次の一節でした。

「われわれは希望と期待との区別を再発見しなければならない。積極的な意味において、『希望』とは、自然の善を信頼することであるのに対して、『期待』とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることである。『希望』とは、われわれに贈物をしてくれる相手に望みをかけることである。『期待』とは、自分の権利として要求できるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。(今日的)エートスは、今日希望を侵害している。人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている。」

イリッチの立場は「期待」ではなく「希望」の推進力としての教育です。教育とは、学校であれ産業界であれ、「計画され統制される結果」を目指してはならない。「予測可能な過程からくる満足」などは目指すべきものではない。そんなものに、何の意味があろうか、と、我が意を得る思いです。

旧来型の産業人教育システムを内側から解体しようと、意気込みだけは壮大です。

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