モデル化の功罪-野中郁次郎ほか「失敗の本質-日本軍の組織論的研究」

田原 慎治です。

少し前に野中教授とお目にかかる機会がありました。

例のSECIモデル(暗黙知、形式知・・・の、あれです)の現場ドキュメンタリー集とでもいうべき「流れを経営する」(東洋経済新報社)の読書会に、著者自らお出向きになられた、そんな場面でした。このところずっと野中教授の前に前景化しているのは、「ニコマコス倫理学」から着想を得た「フロネシス」(賢慮、実践的知恵、文脈判断の知恵など、さまざまに訳される)理論であるようです。これを、産業活動にどう活用するか、というテーマについて話を聞きました。「SECIモデルをもう一段階スパイラルアップさせたので、聞いてね。ついでに本も買ってね」と、熱く語っておられたのが印象的でした。

その野中教授が、防衛大学校の先生がたとともに1984年に出版されたのがこの本。司馬遼太郎をして「こればかりは何一つ希望がないので、題材にできない」と言わしめたノモンハン事件をはじめ、ガダルカナル、インパール、ミッドウェーなど、旧日本軍の失敗から何を学べるか、という趣向です。

「組織が継続的に環境に適応していくためには、組織は主体的にその戦略・組織を環境の変化に適合するように変化させなければならない。・・・自己革新能力のある組織は、以下に述べるような条件を満たさなければならない。」

その条件として、昭和初期の日本軍の振る舞いの裏返しであるところの

  • 不均衡の創造
  • 自律性の確保
  • 創造的破壊による突出
  • 異端・偶然との共存
  • 知識の淘汰と蓄積
  • 統合的価値の共有

の6つが挙げられています。そして、巻末。日本企業の戦略と組織への提言をもって本書は締めくくられます。要は、現代の日本企業に対して各所から言われている提言を、珍しい切り口から論じられたというものです。ただし、その方法論はSECIモデルそのものです。要は、創発的学びが機能していない、と。

組織学習論については、すでに山ほど語られてきました。「学習する組織」(センゲ)、「ダブルループ学習」(アージリス)、「知識創造」(野中郁次郎)、「心理的契約」(シャイン)・・・。とにかく、何かしら人類の知的アーカイブからいろいろな知見を引っ張り出してきては並べ直し、モデル化することによって手順化するという手法は、何事かを「分かったような気に」させてくれる便利な方法です。

ただ、いろんな研究が進み、手法がモデル化された現在でも、全体として世界の経済は特に進歩・成長しているわけではなく、次から次へと新たなツールが紹介されて「流行り廃り」が繰り返されています。いい加減、キャッチアップ自体が面倒くさくなってきませんか。少なくともわたし自身は、何を聞いても「どこかで聞いたな」と思うようになってきました。何を聞いても「これは古いな」と思うということは、適用・活用の敵です。かくして、確かに良いことが語られているのでしょうが、活用されないままに、目先の趣向を変えたものが次々と繰り出されてゆきます。

そこで思うこと。

ウィトゲンシュタインは言います。「問いが成立しうるのは、答えが成立するときである。答えが成立しうるのは、何事かを語りうるときである。語りえないものについては、沈黙しなければならない」。ホントはやっちゃいけないとされている、「コンテクストを無視した部分解釈」を乱暴に行えば、前段はこうなります。

「何が問題だったのかは、答えがおぼろげながら見えてきて初めて事後的に認知できる」。

成功例は、事後的に成功モデルに沿っていることが明らかになり、失敗例は、事後的に成功モデルから外れていたことが明らかになる。したがって、失敗の本質とは、失敗を事後的にしか認知できないことにある。事前に失敗が「認知」できていれば、いかに日本軍といえども、しなかったわけですから。身も蓋もない話ですみません。でも、そういうことです。

「これは、こういうことになっていた」という「後出しじゃんけん」的な読み解きは、意味を持たない。とすれば、いかに読み解けない段階でリアルタイムに、ビビッドに反応し、身をこなしてゆくか。考えては試し、試しては再考するというきわめて小規模なPDCAをどう回すか。産業人としての成長は奥が深いですね。

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