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骨太の労働観・人間観を磨く-フロム「愛するということ」

本当に優秀だなあと思える産業人たちとお会いする機会があるのは、この仕事に携わる醍醐味の一つです。先日も、あるクライアントで「当社の地方支社で優秀な人材が、全国区レベルで通用する人材であるかどうか、プレゼンテーションによって評価する」というプログラムのお手伝いをしてきました。そして確かに、優秀な方がたが互いに切磋琢磨する現場に立ち会えるという、楽しい仕事でした。そのことを頼もしく感じながら思い出したのは、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」です。優秀な人たちが、フロムの述べているとおりの「愛しかた」(すなわち「働きかた」)をしていると感じたのです。

ユダヤ教徒として若年期を過ごしたフロムが、多分に聖書を通して培った「愛」に関する認識は、産業人として成熟するための作法と直列に繋がります。つまり、フロムが「愛する」と記した箇所を「仕事をする」とか、「働く」と置き換えると、そっくりそのまま、優秀な方々の仕事ぶりを述べているように思えます。いくつかご紹介しましょう。

「自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する」(鈴木 晶訳 紀伊國屋書店版P5。以下、出典は同書から)

仕事に、人格全体を発達させながら携わる、しかも全力をあげて努力する人が成功しているというこのくだり、わたしも全面的に賛成します。実際、これまでにであった魅力的な産業人たちは、産業分野や業界を問わず、割り当てられた職務領域を問わず、社内的ポジションを問わず、全人格を投入して仕事に取り組んでいる人たちでした。

「現代の用法では、「活動」というと、エネルギーを費やして現在の状況に変化をあたえるような行為を指す。したがって、事業に取り組んだり、医学の勉強をしたり、はてしないベルトコンベアーのうえで働いたり、テーブルを作ったり、スポーツに興じたりすると、その人は活動的だとみなされる。これらの活動のすべてに共通しているのは、達成すべき目標が自分の外側にあるという点である。活動の動機は考慮に入っていない。たとえば、つよい不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。」(同P41)

「能動的に見えてじつは受動的」-何年も前のことですが、これを初めて読んだときの衝撃は今でも忘れません。「駆り立てられた」状態を、フロムは決して褒めません。達成すべき目標が外側にあるうちは、単なる情熱の奴隷であるさえ言う。では、どういう状態が好ましい状態なのか、フロムはこう続けます。

「いっぽう、静かに椅子にすわって、自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので、「受動的」と言われる。だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢は、もっとも高度な活動である。内面的な自由と独立がなければ実現できない、魂の活動である。」(同P42)

活動の成果や生産性ではなく「瞑想の姿勢」を評価するというのが、フロム哲学の真骨頂だと思っています。実に魅力的な産業人たちが、どうも「評価」しづらいということがある。優秀な人なんだけれども、その優秀さを表現するための適当な言葉が見つからないと思うこともあります。前述の評価プログラムの場合、公平性を担保するためのビジネス上の、あるいはテクニカルなある種のスキルセットが定義されている。しかし、そういったスキルセットのディスクリプションでは易々と表現し尽くすことができない、いわく言い難い魅力の部分。これは定量的にも、また定性的にも上手に描写することを難しく感じてきましたが、フロムに言わせれば、「内面的な自由と独立」をもった人のことです。

「成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。」(同P57)

恵まれた事業環境(景気、顧客、配置、自社のネーム)という下駄をはいている人と、そうでない人がいる。前者であるにもかかわらず、それらを自分の手柄としてカウントしない人たちは、産業人として成熟していると感じます。こういう人たちは真の成長を志している。今回の評価プログラムでも(実際には名の通った大手の企業です)、「自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人」たちがいました。等身大の自分で勝負しようと決めている人たちであり、そうでなければ楽しいとも嬉しいとも思わない人たちです。こういう骨太の、成熟した人間観・労働観を持った人たちどうしが、互いに良い影響を与え合いながら共に働くことができるとしたら、それは実に幸福な人生体験ではないでしょうか。

フロムは時折読み返して、その都度貴重な示唆を受け直している稀有な書のひとつです。こういった知見を知見で終わらせることなく何よりも自分自身が実践したいと強く念じながら、もう何度目かの再読を楽しんだ次第です。

話と発話者を区別する-ロキーチ「開かれた心と閉ざされた心」

このところ数年、ディベートの研修に出講しています。ディベートとは、自分の信念をいったん脇に置いて、敢えて一つの立場で、次いで逆の立場で立論するゲーム形式の討議のことです。これが盛り上がることといったら! その種の研修を実施するうちに、共通の特徴がいくつかあることに気づきました。三つほど挙げると;

一つ目は、実に立論がうまいことです。限られた時間でMECEに根拠を集め寄せて議論を組み立てるスキルは、みんなおしなべて高い。惚れ惚れするような論議が矢継ぎ早に繰り出されます。わたしが若いころはそんな能力が大事だなんて思ってもみなかったのですが、今は新卒の会社員たちがすでにそんなスキルを身に着けて入社しているようです。

二つ目は、「信念をいったん脇に置く」ことが苦手であるということ。常々、日本人は自分の信念に合致しない主張を言い募ることが苦手だ、だからディベートトレーニングは日本には馴染まない、といったことがよく指摘されてきました。こういった姿勢は無責任かつ道徳的に不誠実である、と感じられてならないようです。研修では、「責任なんか取らなくていいから、とにかく発言してみよう」、「発言と意見は異なる」と学んでゆくうちに、次第に心理障壁が下がってゆく場面によく出会います。そのようにして、「語ったからには責任を取らねばならない」という呪縛から自分を解き放つべく、「議論する力」「飛躍する力」のようなものを学んでゆきます。

さて、三つ目は何か。ここでいったん、ミルトン・ロキーチという人の「開かれた心と閉ざされた心」(“The Open and Closed Mind”,1960)を紹介します。邦訳がないので、以下はサミュエル・I・ハヤカワの一般意味論のテキスト「思考と行動における言語」からの孫引きです。

ロキーチによれば、伝達的事象は便宜的に話し手と話の内容の二つの要素に分けることができます。聞き手が伝達に反応する仕方は、次の四通りです。

 1:話し手とその話の内容とを、共に受け入れる。
 2:話し手は受け入れるが、話の内容は拒否する。
 3:話し手を拒否するが、話の内容は受け入れる。
 4:話し手とその話の内容を、共に拒否する。

ロキーチの言う「閉ざされた心」の持ち主は、1と4の反応しかできません。それに対して、「開かれた心」の持ち主は、もっと複雑な2や3の反応も示すことができます。開かれた心とは、人が世界についてもっと知ろうとする態度を持つことであり、閉ざされた心とは、世界に対する好奇心を弱めることです。ハヤカワの解説によれば、成熟した知性の持ち主は「開かれた心」があるので、話し手を拒絶しながらも、同時に話の内容を受け入れることができるし、話を拒絶しつつ、話し手を受け入れるといったことができるのだそうです。その後、この区分は精神医学の基本的な心得になりました。

そこで本論に戻ります。ディベート研修で見出す三つ目の特徴とは、実はジャッジ役を任せるオーディエンスにみられる特徴なのですが、ほかでもない、ロキーチが言うところの1か4の人たちが多いということです。「中身は良かったが、あの言い方がよくなかった」といった、「情緒的な」ジャッジが実に多い。ジャッジの情緒化傾向自体は当然あってよいのですが、問題は、その比率がかなり高いということです。どうもディベーターに対する(立論以外の、多くはノン・バーバルな面に由来する)共感度の多寡が、立論への共感度にも相当影響しているようです。

実際のビジネスの現場でもよく出会う場面ではないでしょうか。何が語られているかではなく、だれが語っているかが判断の材料になる。もっとも、ビジネスの現場ではディベートのような場面は普通ありません。主に会議の場で、だれの意見が結論として採用されるかです。立論の妥当性・客観性ではなく、「この場のボスはだれか」「この中ではだれが偉いのか」を見分けることに参加者たちの貴重な知的・時間的リソースが費やされてしまい、本質的な「何が語られているか」がおろそかになってしまう。そんなのは会議でも議論でもなく、単なる通達なんですが。

本当はそんなことにではなく、ひたすら「何が」語られているかに聞き耳を立てる。それがもっともな論議であれば、どんなに気に食わない相手からの諫言であっても、下っ端のつぶやきであっても、謙虚に受け入れる。そのようにして、語り手と発話内容を分ける。こういったことの大切さを、いつもディベートの様子を見守りながら、自分自身に教え込むとともに、みなさんにもお話ししています。

ところで、ロキーチが登場したハヤカワの著作も得るものが多く、実はわたしのお気に入りの一冊です。ハヤカワはカール・ポパーを引用してこうも言います。

「理性を信頼するということは、われわれ自身の理性を信頼するというばかりでなく-さらにいっそう-他人の理性を信頼することである。…だから合理主義者は…たとえ彼の知性が他人に優っていても、それは単に彼自身および他の人々の誤りから学ぶことはもちろん、批判からも学ぶという能力を持っているにすぎない。」

本当にそのとおりだと思います。

次回は4月に実施する予定のディベート研修が楽しみです。きっとこのたびも、わたし自身の産業人としての成長機会になることでしょう。

未来予測の不毛-ドラッカー「すでに起こった未来」

田原 慎治です。

先日会議で、評論家たちがこぞって予測したがる未来が、たいてい『20年後』であることに関する話題が出ました。ちょうど今月の「文藝春秋」の特集も20年後の日本というテーマです。10年後でも15年後でもなく、20年。そういえば最近もとある会社で「将来のサービス事業構想」に関する演習形式の研修を実施しましたが、その際にどれほど先の「将来」を想定するかを受講者の皆さんにお任せしたところ、案の定「20年後」が出てきました。

幸いなことにその演習では質の高いアウトプットが得られたのですが、一説によれば、これは「無責任に言い放つことができる絶妙のタイミング」だそうです。たとえば今40代の産業人たちの多くは20年後にリタイア(しようと)している。それ以下の年代にとっても、20年後に今とまったく同じ仕事・部署で仕事をしているとは考えにくい。これが仮に10年後なら、あるいは現在の仕事の延長線上に自分の職務があるかもしれない。でも、さらに先になると、自分の仕事であるという当事者意識はなかなか持ちにくい。むしろ「あとは野となれ山となれ」です。そのような将来を語る上で一番キリのいい数字が20年後。

P.F.ドラッカーも「未来学者」と呼ばれることが多い人です。しかし、彼は意外にも未来について多くの仮説を述べているわけではありません。彼がハーバード・ビジネス・レビューで「すでに起こった未来」を発表したのは1997年ですが、同趣旨の論文が早くも1951年に同誌に掲載されています。詰まるところ、彼が確実な未来と述べているのは一点に尽きます。何だと思われますか? 経済動向でも、政治動向でも、地球環境動向でもない。「人口動態」です。こればかりは数十年先まで確かな数字です。そのようわけで、この数字はさまざまな予測の根拠になります。労働力人口、医療制度、保険制度、介護制度、教育制度、年金制度、エネルギー計画、防衛計画、食糧計画、などなど。

しかし、考えてみればその種の「予測」には何の構想力も関係しません。単なる予測であって、物事が今の流れのまま自然に進展すると、どこかのタイミングでどう数字が推移してゆくかを客観的に叙述しただけです。そこには世界に対する「わたし」の関わり方は何ら算入されない。鬼の首でも取ったかのように「絶対に未来はこうなる!」と叫んだところで、だから何なのか。産業人に真に必要なのは、単なる未来予測力ではなく、その未来を自らの意思によって変えてゆく未来変革力のほうです。もし自分がこの世界に(この会社に、この業界に、この国に、このコミュニティーに)いなかったらきっと異なっていたであろう事態が、自分が関わることによってどのように引き起こされるのか、そのことを語る力。その意味で、「20年後」は産業人として無責任なレンジであると、そう思った次第です。世界を変えるプロダクト・制度・概念を生み出してきた先人たちは、そういう未来変革力の持ち主でした。そのような変革力・構想力が、たとえば人口動態といった確実な未来にしっかり結びついているなら、その種のアイデアはたいへん魅力的でしょうね。

単なる「20年後の未来予測」には、そのようなわけで、どうも興味が持てないのですが、しかしながら、本気で世界を変える決意をした人が、自らの関与する世界を構想して、それをきっちり積み上げた挙句に「20年後へのコミットメント」を静かに語るとすれば、それには大いに耳を傾けてみたいと思います。