「分からない」を貫く-マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」

田原 慎治です。

東ニューギニアのトロブリアンド諸島で行われてきた「クラ」という交換の儀式については、マルセル・モースをはじめ、いろんな人類学者が述べてきましたが、中でもマリノフスキーの現地調査は冒険記として楽しく読めます。

「どの島でも、どの村でも、程度の差こそあれ、かぎられた数の男たちがクラに参加する-すなわち、 財貨を受け取り、これを短期間所有して、それから次に送る。だから、クラに関係するすべての男は、規則的にではないが、ときどき一ないし数個のムワリ(貝の腕輪)かソウラヴァ(赤い貝の円盤形の首飾り)を受け取り、それを取引相手の一人に渡さねばならない。その相手からは、交換に反対の品物を受け取る。このようにして、品物のどちらをも長期にわたって所有しつづけることはない。」(寺田和夫・増田義郎訳。中央公論社)

価値の「分からないもの」がやってきたとき、いくらに値付けするか考えて、分からないなりに反対給付する品物を決め、差し出す。そうやって順繰りにクラは交換され、またもとの島に戻ってゆく。ついでに日用品が交換される。これが経済活動の原初的なスタイルなのだとか。この「先に与えてもらった」という借財感がコミュニケーションを起動するという観点が、いろんな論を生み出してきました。たとえば昨年没したレヴィ=ストロースも、「婚姻」における「反対給付義務感」を例にとり、人間の諸制度の多くが、その本質はこの「反対給付」であるとしています。同様に、経済活動(財貨の反対給付)や言語活動(メッセージの反対給付)も、贈与されたものが反対給付することによって延々と交換される制度だというのが、このところの社会学の共通認識になっているようです。

ここでの要点は、価値が「分からない」ことにあります。いくらの値をつけるべきかが「分からない」からこそ、次に順送りして、次の送り先ではどう値踏みされるのかを確かめてみたくなる。その「分からない」というサスペンデッドな感覚が反対給付の無限連鎖を下支えしています。逆に、価値が分かったとたんにクラは清算され、終わる。

クラの「分からない」感と構造的にそっくりなのが、わたしたちのコミュニケーションです。コミュニケーションは「分からない」から始まり、「分かった」で終わります。「分かったつもりにならない」こと、これはコミュニケーションの本質といっていいでしょう。わたしたちのコミュニケーションには、常に互いに対する「分からない感」や「それって何?」感、「言い足りない」感や「言い過ぎ」感(つまり、自分に対する「分からない」感)がつきまといます。そのズレを、(気にせず、ではなく)どこまでも気にしながら丁寧に追いかけ続けることが言語コミュニケーションを起動し、人間関係を築き上げてゆきます。

ところが。

そのような悠長なやり取りが許されず、やや息苦しく感じる場面が増えてきました。何度も繰り返しますが、本来なら「分かる」ことをゴールにしつつも個々の場面では丁寧に「分からない」を積み上げたほうがよほどコミュニケーションやチームワークが機能するのに、瞬時に「分かる」ことばかりが優先的に目指される部下指導の場面に、何度も立ち会ってきました。仕事の場面だけでなく、「分かったか?」「はい、わかりました」で終わってしまう、そんな「閉じた」話法が、家庭での夫婦の会話、親子の会話でも増えています。気楽に「分からない」と言って判断留保することを一瞬たりとも許さない雰囲気が、いろんな場所に充満しています。

自分の経験を振り返ってみても、「分からない」、つまり価値を断定しないことによって損をしたことと得をしたことを比べてみると、圧倒的に後者のほうが多かった。たとえば、「分からない」は「あきらめない」「見切らない」に通じますから、人間関係を築き上げることができ、そうやって関係を作り上げた人たちには幾度も助けられてきました。一見双方向には見えないコミュニケーション手段であるところの、ものを書く場面でも同様です。「これでは分からないだろうな」とか「どうも自分の言いたいことをきちんと伝える言葉が分からない」という隔靴掻痒感のおかげで、「もっと練り直そう」という改善意欲が生まれてくるのです。さらには、「分かった」ような断定的な物謂いをする人に近づくと危険だという推察能力もずいぶん磨かれてきました。ことほどさように、「分からない」は学習意欲の源泉となり、人間関係の基礎となり、仕事における成長実感の基盤となり、自尊心の基盤にもなる。「分からない」は良いことずくめなんです。そういえば、橋本 治も「わからない」がすぐれた「方法」であることを述べていました。卓見です。

「論理」を、「非論理」が支える?-ランドル・コリンズ「脱常識の社会学」

田原 慎治です。

インサイトがHPをリニューアルし、コンサルタントたちがそれぞれ仕事に役立つブログを書くことになりました。わたしの当面の切り口は「本」です。

ブログ化するにあたって、いくつかのルールを決めました。

  • 流行りものは読まない(古典≒その特定の領域におけるカノン、正典に当たる)。
  • ビジネス書は読まない(いわゆる「ビジネス書」の中でもカノンには言及するかもしれませんから、貫けるかどうかちょっと自信ありませんが)。
  • 単なる読後感でもなく、書評でもなく、ビジネス/ワークへの活用方法について考え、書く。
  • 自分で活用してみる。

初回である今日は、弊社の売り物である「論理思考」の限界について論じてみたいと思います。「論理思考」はビジネス界における10年ほど前からのブームであり、わたしたちも「論理思考」を企業人普遍のスキルとして身体化するようお勧めしているわけですが、その「論理」はそれだけで万能であると思ってはならないという洞察を与えてくれるのが、ランドル・コリンズ「脱常識の社会学」(岩波書店)です。コリンズは言います。

「私たちは合理的であることを誇りにしている。理性的であることはよいことであり、理性にしたがわないのは、愚か者や子どものしるしである。・・・しかし・・・合理性の万能を疑う最も単純な理由は、合理性を唱える人たちの間にしばしば意見の不一致が見られることである。経済学者たちがいずれも理路整然とした議論を展開しながら、お互いの結論は正反対ということがよくある。政治家や行政官は、自分たちの方針が高度に合理的で、敵対者の方針は誤ったものと考える。しかし、かつて敵対者側が政権の座にあったときには、その誤った政策が実行に移される機会もしばしばあったのである。」(井上 俊、磯部卓三訳)

そのとおりだと思います。顧客企業に出向いて、いっしょに戦略の論理的な策定方法をディスカッションした後、実際に「論理的に」思考して導出された戦略が、A部長とB課長で正反対であるということも、よくあります。なぜか。論理には限界がある、というより、論理はそれだけで機能しないように構造化されているからだとコリンズは言います。コリンズが例にとるのは「契約」です。

「あらゆる契約は本当は二つの契約である」。

つまり、どんな契約も、それが成立するのは、その契約が履行されるという約束(隠れた契約)を前提があるからであり、その「隠れた契約」も契約であるからには、それが確実に守られるという別の「隠れた契約」の前提があるのだと。

コリンズはこのアイディアを、デュルケムの「プリコントラクチュアル」(前契約的連帯=契約をする前に、すでに約束が発効している)論から得ています。要するに、契約というものはおしなべて非合理的な何かに基づいており、それはたいてい「信頼」とか「常識」といった、論理では説明のつかない合意であるというのです。人々が共同しうるのは、そうすることが合理的(論理的)であるからではなく、他の人びとが契約を守るものと信じてよいという「感覚」をもっているからだと、デュルケムと共にコリンズは述べます。

「あなたが契約に従って自分の守るべきことを守ったが、相手が欺いたとしよう。その結果はどうなるか。あなたは、契約につぎ込んだすべてものを失ってしまい、相手はただで何かを手に入れることになる。これは立場が反対の場合でも同じである。・・・したがって、基本線は欺くことと約束を守ることとでは、欺く方が合理的戦略だということである。欺けば、最悪の場合でも何も失わず、最良の場合には多くを手に入れることが保証される。これにくらべて、約束を守れば、最悪の場合失うものは多く、よくても得るものは少しということになる。かくして、合理的個人は必ず欺く。」

ところが、現実には人間は必ず欺いているわけではない。つまり、合理性だけでは人間の行為は説明できないということになります。現に、合理的であるだけの人(打算的な人、計算高い人)はあまり出世しない。それは社会が実のところこの種の非合理的な「感覚」な感情で動いているからではないか。

「この世が完全に合理的なものなら、だれも社会契約を結びはしないし、世界は永遠に互いに信用しあうことのない、孤立した諸個人の世界になるだろう。社会は決して形成されないだろうが、それは・・・あまりにも合理的だからである」。

世の中に社会が存在するのは、合理性を非合理性が支えているからです。わたしも、そのことを疑わない「論理万能主義」に陥ってはならないと思います。論理思考の必要性を説いてはいますが、その論理が成り立つのは「論理的に考えて出た結論は、みんなで守ろうね」という「感情的」な合意が背景にあることを忘れてはなりません。

誤解を恐れずに言えば、合理性の論理を担保するのは、非論理的な、人間的な、感情的な無意識の思考の積み重ねなのです。

昨今、論理万能主義≒個人的合理主義の企業人が異常なスピードで増殖中です。個人プレーの大好きな人たちも同じ勢いで増えています。「オレの仕事じゃないよ」つまり「会社と自分との間の契約には含まれてないよ」と述べてはばからない人です。個人としてはハイパフォーマーだけれども、チームプレーが嫌いだというオーラを全身で表現している人、いますね。特に業績がそのまま個人に跳ね返るような業種業態の場合、「合理的」に考えるとチームでパフォーマンスをあげることはバカバカしいのでしょう。背景として、この数十年のあいだに、あらゆることが「経済的合理性」のワーディングで語られるようになったことが根深く原因しているように思えます。「これをすると、どう得になるか(が分からないからやりたくない)」「自分にどう跳ね返ってくるか(が分からないからやりたくない)」「自分らしさが発揮できるか(以下同じ)」-こういった思考の型に押し込まれている産業人が増えてきています。しかし、実のところコリンズが言うように、その人が会社との間で結んでいる(と本人が勝手に思っている)「契約」の論理は、非論理的な側面が必ず下支えしています。その人は、雇用者や同僚たちの「感情」ないし「温情」によって今の仕事をさせてもらっているにすぎないのです。いったん合理的最短ルートを脇に置き、非合理的・非論理的と思える理路に丁寧に耳を澄ませること。そうすることによってかすかに聞こえてくる、論理では割り切りにくい、けれどもその論理を感情的に基礎づけている「信頼関係」とでもいった人間的な側面に気付くこと。そしてその信頼に応えるべく、どろどろとした、「非合理的な」業務にも魂をこめて携わること。そういった迂回路をたどることこそが、自己実現の唯一の道筋なのです。その理路を得心するまで考え抜くよう一人一人に寄り添うのが、わたしたちの仕事だと思っています。

ちなみに、この本を記念すべき1冊目に選んだ理由は、原書のタイトルにあります。実に「Sociological Insight」です(日本語版になると「インサイト」という言葉が隠れてしまうのですが・・・)。