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「外部にいる者に何を語りうるか」

「ゆかいな仏教」(大澤真幸×橋爪大三郎)を読了。

同じ<大澤さん×橋爪さん>の対談本、「ふしぎなキリスト教」もたいへん面白かったですが、この「ゆかいな仏教」もとっても楽しみました。
いい本だ!

キリスト教について、大澤さんはこう言います。
「日本だけは、ずっと、そしておそらく現在も、キリスト教にとって、圧倒的な周縁に留まってきたわけです。
日本人は、世界で一番、キリスト教を知らない国民だといっても過言ではない。」

とはいえ、キリスト教が「ふしぎ」なのは日本人がキリスト教を「知らない」からではありません。
その一方で、「近代社会を成り立たせている制度や文化が前提にしている多くのことが、当事者も意識することなく、キリスト教的な感性や前提を世俗化して活用している」からです。
民主主義しかり、主権という概念しかり、人権思想しかり、近代法のあり方しかり、契約の思想しかり・・・。
だから事実上我々日本人は「キリスト教の<利用技術>」についてはずいぶんのことを知っており、それなしでは生きていけないという状況を生きている。
しかしその<利用技術>の背後にある<原理原則>については実は何も知らない。
つまり、日本人はキリスト教のことを「知らないままそれに依っている」。
「知らしむべからず、依らしむべし」というコンセプトの下で統治されてきた江戸時代の日本人と同じしかたで生きている、ということなんでしょう。

では「仏教」については何が言えるか?
「キリスト教の場合とは、状況は逆である」と大澤さんは言います。

仏教については、キリスト教と違って、日本人はある程度知っている。
かなりのイメージをもっている。
「しかし同時に、日本人の大半は、仏教について、最も肝心なことを知らない。
仏教とは、いったい何を目指すムーブメントなのか?
仏教は世界をどうとらえているのか?
仏教を信じるとは、どんな生き方を意味しているのか?
そうしたことについては、ほとんど何もわかっていない。
『お経』という語が、『わけのわからないこと』、『ちんぷんかんぷん』の代名詞にな使われているくらいだ。」

「多くの困難に直面している日本人に対して、仏教は、何か決定的なヒントや洞察を提供してきただろうか?
たとえば、3・11の津波と原発事故によって言葉を失った日本人に、仏教は、困難を乗り越えるための手がかりになることを示唆してきただろうか?
残念ながら、そうとは言いがたい。
仏教はほとんど関心がないかのようにふるまっている(ように見える)。
なぜだろうか?
どうして仏教はなんの反応も示さないのか?」

「仏教の方が自分たちに語りかけてこないのであれば、私たちの方から仏教に訊ねてみよう。
仏教よ、お前は何者なのか?
お前はどんなふうに考えてきたのか?
仏教よ、お前には世界がどんなふうに見えているのか?
仏教よ、お前はどんな実践を提案するのか?
・・・・・・そういうことを、こちらから尋ねてみよう。
むこうからすすんで語りかけてこないならば、こちらから、仏教に応答を迫ってみよう。
答えさせてみよう。」

「仏教の外部にいるものとして仏教に語りかける」ことの重要性について大澤さんはこうも言っています。
そのフレーズに一番、グッときました。

「普遍宗教の価値は、すでにその宗教に帰依している者にたいして護教論的に語る内容によって決まるのではなく、その宗教の外部にいる者にたいして何を語りうるかによって決まるからである。」