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「企業にとって成長とはなにか?」

サワディ・カッ!バンコクは雨季が終わりました。日差しは強くなりましたが、湿気は下がって、爽やかです。これがタイの秋とか・・・・。

タイ人の友人は、12月になるともっと寒くなると言います。寒くなるっていったって、気温的には日本でいう真夏日が続くんですけど・・・。それで も、一時、セーターやマフラーやジャケットがデパートに並び、ほんの一週間ほどの、タイの冬(?)を皆が嬉しそうに「寒い、寒い」と言って過ごすんだそう です。早く見てみたい。

先回は、プラスサム競争への支援=教育への進出、いうところまで来ました。今回は、その続きです。題して、「企業にとって成長とは何か?」(「言語にとって美とは何か?」=吉本隆明=吉本ばななのお父さん、みたいですね)

教育とは、成長の支援です。ですから、最初に定義しなければならないのは、「成長とはなにか?」ということです。インサイト版、成長の定義。

<企業にとって成長とは、事業機会と経営資源の間の不均衡を、拡大方向に解消しようとする運動である>*1)

解説しましょう。企業がある種の事業機会をとらえて、そこに物・人・金・情報といった経営資源を投入し、付加価値を生み出しているとします。事業機 会と投入資源とが合致しているとき、事業は最大のパフォーマンスを生み出すでしょう。しかし、同一の事業機会が、同一の資源の投入によって、無限に同じ付 加価値を生み続けるということはありえません。事業機会そのものが消費され、資源は過剰なものとなります。その資源は別の事業機会のために振り向けられね ばなりません。(ここでいう事業機会には製品レベルのものから企業ドメインレベルのものまでが含まれます。)

そのような事業機会を見つけること自体がもちろん、挑戦なのですが、それが上手くいったとしても、経営資源がそれに見合ったものに調整されていなけ れば、果実は生じません。経営資源の中で、金はもっともフレキシビリティに富む資源ですから(お金は何のためのお金かにかかわらず同じお金である)、問題 はありません。一方、人=人材は、急に角を曲がれないようにできているので、調整に時間がかかります。

しかし、こうした調整に成功し、人材と事業機会との間にマッチングが生じると、成長が実現します。そして、人材の潜在力が事業機会をも上回るように なると、その人材力が新たな事業機会を発見、創造する契機となります。こうした好循環が、企業の継続的成長には欠かせません。

日本の企業の特殊な経営環境との関係でも、こうした成長観は有効だと思います。コンサルティング・ファームが戦略授与型の仕事をして、クライアント 企業に戦略を授与したとします。それがとてもよいものだったので、経営者はその通りしようと思う。では、何からはじめましょうか?その戦略に合わない社員 をレイオフすることから、戦略的経営はスタート!?

欧米ならそれも可能かもしれない。しかし、日本の場合はそう簡単にはいきません。いくらいい経営戦略があっても、人事の問題がアンカーとなって登場し、それは暗礁に乗り上げます。

何をすべきかを決める(戦略)。誰がするかを決める(戦略的人事:積極面)。誰が要らないかを決める。(戦力的人事:消極面)が、それを切れない=戦略がぐずぐずになる。これが現実。

ではどうするか?逆転の発想をしましょう。人事で最後に躓くくらいなら、それを戦略立案の最初にもってくるのです。この人材で何ができるか?この人材からどんなことが「立ち上がってくる」か?この人材プールにどんな刺激を与えれば、それは「立ち上がってくる」か?

そのような人材の育成には何が必要でしょうか?特定の事業機会に事後にマッチングさせるための教育=スキル教育だけでは十分でないことは明らかです。個々人の人間力や、組織の組織力がもっと普遍的かつ根源的な次元で鍛えられねばなりません。

経営資源の中で、お金はもっともフレキシビリティに富む、と言いました。人材はその逆だとも。人材はフレキシビリティには富みませんが、可塑性には富んでいます。お金には可塑性はありません。

ホリエモンは「お金で買えないものはない」と言いました。その通りです。お金で買えないものはありません(究極のフレキシビリティ)。ただし、それ は売っているものに限ります(フレキシビリティの限界)。売っているもので買えないものはないのですが、売っていないものは買えないのです(次元の違うも のに対する無効性=可塑性がない)。

人材はフレキシビリティに富んでいない代わりに、可塑性をもっています。簡単に何かの代替物にはなれませんが、次元の違う何かに自らなっていくことはできます。その可能性を信じることが、教育の信仰告白であるといえるでしょう*2)。

では、どうやって?それについて考えるためにはまだまだ思考のための道具が揃っていません。戦略とは何か?組織とは何か?創造性とは何か?こうしたことが順に確かめられる必要があります。

今後、このメールで、それらを主題化して行くつもりです。その過程で、「自己組織化」や「学習する組織」といった重要概念も押さえていきましょう。 インサイトのリーダーシップ論、OJTの新たな位置づけやアクション・ラーニングといった手法についてもお伝えしたいと思います。コウゴキタイ!

でも、バンコクネタは一体どこに行っちゃったんでしょうね?

Love & Work !!

*1)この定義については、次の本が種本となっています。好著です。ご一読をお勧めします。
「成長と人材―伸びる企業の人材戦略」佐藤博樹・玄田有史編

*2)フレキシビリティと可塑性の違いについては、次の本からインスパイアされました。推薦図書です。
「わたしたちの脳をどうするか-ニューロサイエンスとグローバル資本主義」カトリーヌ・マブラー著

「プラスサム競争」、もしくは「教育」について

サワディ・カッ!バンコクも雨季が終わりかけていて、毎晩、花火大会の最後みたいに雷が鳴っています。闇夜を一瞬、真昼に変える稲光、爆撃のような雷鳴。来た当初はとても眠れなかったんですが、慣れとは不思議なもので、ほとんど気にならなくなりました。

さて、先回は、私が「当事者性の捏造力」を使って、コンサルタントになったことについて書きました。今日はその後の展開に触れてみたいと思います。

「当事者性の捏造力」をもって、クライアントの事業に係わっていき、それなりの成果をあげる。当初はそれで満足していたんですが、時たつうちに、だ んだん、自慢の「捏造力」に陰りを覚えるようになって来ました。なぜだ!私は、正真正銘、この問いの当事者です。そして、その当事者性を発揮して、考え、 答えに突き当たりました。答え=「ヒトダスケデハヨワイ」

「ヒトダスケ」とは「人助け」のことです。この場合の「人」とは「他人」のことであり、かつ他人一般ではなくて、「助けて欲しいと言ってこられた他人」=クライアントのことです。

弊社の社訓の一つに<困っている人しか助けられない>というのがあります。正確に言い直せば、<自分が困っていることを自覚している人しか助けられ ない>ということです。で、困っていることを自覚している方が助けを求めてこられ、私は、持ち前の「捏造力」でもって「当事者性」を発揮して助けたいと思 い、一肌脱ごうと考える。これが「ヒトダスケ」。

でも、上手くいってクライアントを「助ける」ことに成功したとしても、それだけでは社会的な「価値」を生み出したことになるとは限りません。例え ば、業界内のシェアを上げるといった課題を持ったクライアントに肩入れし、それが成ったとしましょう。しかし、それだけでは、業界内の別の場所で、シェア を落としている人がいるわけで、つまり、ゼロサム競争において、たまたま自分を頼ってきた縁者が勝つことに貢献したにすぎません。クライアントは「勝っ た」かもしれませんが、それだけでは、そこに社会的な「価値」が新たに創造されたとは必ずしもいえない。それを私は<ヒトダスケデハヨワイ>と表現したわ けです。

<ヨワイ>とは、それだけでは私が「当事者性」を捏造する根源的力として弱いと言う意味です。それだけでは、「当事者性の捏造力」がそのうち枯渇し てしまうのではないか。昔のやくざが、たまたま遭遇した「出入」において、自分がわらじを脱いだ側に、一宿一飯の義理だけで、加勢し、人殺しまでする。 「人助けで十分」だとしたら、それはそういうやくざと一緒ということなんじゃないか。

ではどうするか?ゼロサム競争の助太刀ではモチベーションが上がらない、ということが問題なわけですから、プラスサムな論理が通用するような場所で働けばいい。そして、発見したプラスサムな場所、それが「教育」という分野だったというわけです。

「教育」という分野は、ゼロサムな場所であると誤解されています。教育=学校教育=受験教育と連想する限り、それは確かにゼロサムなものです。なぜならそれは有限な社会的資源の奪い合いだからです。

高校野球のことを考えて見ましょう。今年の甲子園優勝高でも問題になりましたが、体罰やしごきは今でも野球部につきものです。どうしてか?あれは一種のセレクションの過程であり、社会がそれをまだ必要としているからです。

理不尽な体罰やしごきに耐えてきたものだけが、本格的な野球をする資格を認められる。野球をするという仕方で「遊ぶ」特権=そういう社会的資源が有 限で、それにアクセスできる人数に限りがあることを、当事者たちが理解している。社会全体が貧しかった昔は、そうした資源の有限性はもっと明瞭でした。だ から、庶民は、六大学野球といったエリートのプレーに熱狂できたわけです。

社会全体がある程度豊かになっても、事情は根本的なところであまり変わりません。野球の名門校に入り、野球部に入り、レギュラーになり、甲子園行きの切符を手に入れること、その全体がゼロサム競争だからです。

受験競争についても同じです。結局、名門校での教育機会という資源が有限なので、それを目指した競争はどうしても、ゼロサム競争にならざるをえない。

しかし、「教育」の本質は本来、ゼロサムではありません。自分が一生懸命勉強して賢くなったからといって、その分、誰かが愚かになるわけではない。全体の知の総和=sumは部分の成長に伴って増加する=plusされていく。つまり、プラスサムですね。

こういうプラスサムな方向で、クライアントを支援できれば、それはそれ自体が社会的な価値の創造に貢献していることになるのではないか。それが、コ ンサルティングを人財教育と繋げようと考えた当初の狙いでした。その願いは今でも変わっていません。私にとっての僥倖は、同じ志をもつ者=同志と出会い、 彼らとともにコンサルティング・ファームの経営という社会的実践に携われることです。

仕事を成長機会として活かすこと。それがプラスサム的な成長であること。それがそのまま、人としての成長に繋がっていくこと。Love & Work! にはそういう願いが込められています。

Love & Work !!