月別アーカイブ: 2006年7月

四都疾走-CCLについて

ニーハオ!

6月末の時点で、台北におります。ここ一ヶ月の間に、プノンペン、バンコク、東京、台北と四都を巡って参りました(今は台北におります)。

5月はじめから6月はじめまでの1ヶ月間、プノンペンにおりました。今回のプノンペン滞在ではいろいろな人と友達になることができ、大変収穫の多い 1ヶ月でした。ポルポト時代の生き残り(ベトナムに逃げて後に戻ってきた)の華人(カンボジアの国籍を持つ、中華系カンボジア人)や、天安門事件に絡んで 本国から流れてきた中国人(カンボジアの華人社会再建のための中国語教育の教師として赴任中)、日本からのボランティアの若者たち、などなど。

6月6日にプノンペンからバンコクへ。一月ぶりのバンコクです。バンコクは国王の在位60周年記念行事一色で、なんだか別の街に来たよう。なんと、 幹線道路沿いに、露天商がいない!&屋台が無い!2週間くらい、営業停止なんだそうです(かわいそうに)。国賓が来る間は、隠しておく作戦。タクシーの運 転手は、上機嫌で、「アキヒトもミチコも来るぞ」と言っていました。見なかったものは無かったもの、これぞマイペンライの世界。

人々は10人中8人くらいの割りで、黄色のTシャツ、ポロシャツを着ていました。胸や背中には、タイ文字でなにやらおそろいの言葉が書いてある。英語バージョンのものもありました。<I love the king.>ですって。

でも、このTシャツ、だんだん値上がりして手に入らなくなってしまったとのこと。国王のお祝いだって、ちゃんと商売ネタにしてしまうところに、ある 種の健全さを感じました。しかも、お祝いのピークが迫るにしたがって、今度は在庫がたまり値崩れが起きたようで・・・、なんだか、日本の「たまごっち」騒 動みたいですね。宴の後、再開する露天商では、黄色いTシャツが投売りされることでしょう。外国人が何も知らずに買っていくのかな。<I love NY.>みたいなものだと勘違いして・・・。

ランニングをしようとホテルのジムに行きましたら、従業員が二人でTVを見ていました。画面には、集まった群集に向かって国王が王妃と一緒にベラン ダから手を振っている場面が流れています。画面の人々は感涙に咽び、嗚咽を挙げて泣いています。と、そのシーンをTVで見ていた従業員二人もハンカチで涙 を拭い、泣いている様子。私はこのまま走っていていいんだろうか?不敬罪で捕まったりしないよねー?と、ちょっと心配になりました。

6月11日に成田へ。12日からの自社の公開セミナー出席のためです。タイトルはCCL(クロス・カルチャー・リーダーシップ)セミナー。おかげ様で盛況でした。

クロス・カルチャー(CC)の問題は海外進出しようとする企業が、現地の従業員をどのようにマネージメントすべきかといった問題から派生したもので す。しかし、CCはなにも日本と外国、ドメスティックとグローバルの間にだけあるのではない。団塊の世代と団塊ジュニアの世代といった世代間(その接点に バブル世代がいます)。経営層と従業員層といった職層間(その接点に管理職層がいます)。このような各所にCCは存在し、その接点を担っている人々がい る。CCの問題は実はかように普遍的な問題であって、それに取り組むための方法もまた普遍的なものであるはずだ、云々。といったことを議論させていただき ました*1)。

東京にいた一週間では、エレベーターに乗るたびに、乗客が「これ、シンドラー・エレベーターじゃないよね?」とお決まりのネタのように言うのが滑稽 でした。私自身が気になったのはエレベーターじゃなくて、エスカレーターの方。東京の場合、人は左側に立って、右側を空け、そこを急ぐ人が駆け上がります よね(大阪では左右が逆ですけど)。

今回の東京滞在で、なんだかエスカレータの右側を駆け上がる人が少なくなったような印象を持ちました。単に、夏で熱いからでしょうか?それとも、 「ロハス」(注2)な雰囲気が徐々に浸透していると言うことでしょうか?もし後者だとしたら、時代の潮目が変わりつつあるサインなのかもしれません。

6月20日から台北に来ています。台北は2年ぶりですが、バンコク、プノンペンで鍛えた目(?)で見ると、街全体がとても清潔で、日本とあまり変わ りません。九州のどこかの地方都市に来たよう。まあ、その分、生活コストも高くなっているわけで、Nothing is perfect!です。

仕事の合間に、中国語を習いに通っています。これからの時代を見とどけるためのツールとして必携と判断したからです。文法は簡単。英語と似ています が(S+V+Oというふうに並べます)、もっと簡素です。例えば、動詞に時制がない。名詞に、男性女性の別はもちろん、単数形複数形の別も無く、冠詞もな い。英語の前置詞に相当するものも数が少ない。

文字は漢字(当たり前です)。日本人にとっては、学習済み(大陸の簡体字は「困ったさん」ですが)。語彙に関してもたいそうオプチマイズされている らしく、現代中国語のレベルでは大きな問題ではないらしい。そういった意味では、中国語は組しやすい言葉であるように見えます。

しかし、問題は発音。母音も子音も音素が多い上に、四声という音階があるので、厄介以上。特に大陸が開発したピンインという発音記号は発音記号としての役に立っていないのではないかと思えるほどに、例外処理の多い、「ほとんど嫌がらせ」といった代物。

でも、中国語の難しさの本質は別のところにあります。日本語の場合、一つの音は一つの音でしかない。例えば、マはmaという音であって、間にも魔に もなりうるけど、maはあくまで音としてのマ。でも、中国語の場合には、三声のマ(ma3)という音は<馬>という文字の読みとしてあって(もちろん同音 異語はありますが)、<馬>という文字は<うま>という意味をもった<語>です。一音=一字=一語=一意味が一体というこの成り立ちが本当に面白い。日本 語とは全く語としてのコンセプトが異なります。それは文字のコンセプト(表音文字か表意文字=正しくは表語文字)や文法の違いを超えた違いだと思います。 だって、ある音(論理的にはありうる音)に相当する語(漢字)が無い場合、中国語にはその音が無いとされ、しかもそれが無いことが意識さえされず、した がってその音の練習もしないんですよ。これって、日本語的にはおかしくないですか。アイウエオ/アカサタナハマヤラワを習って、カ行のウの段=クと発音す る語が無いから、クという音はない(しかもそれがないということが意識さえされていない)というような言語世界が想像できますか?でも、それが中国語。

言語としての成り立ちが違う中国語という言語を話し、その言語によって思考している人たちと日本人がコミュニケーションしようとした場合のコンフリ クトの大きさは推して知るべしです。違いを無視することは論外としても、違いを理解するだけでなく、違いを超えたところ(普遍的な地平)でのコミュニケー ト力(普遍的な人間力)が試される局面がこれからもっと多くなることでしょう。とまあ、こういったことを我々はCCLという領域で研究しているわけです。

次回は、タイ、ミャンマー、カンボジア、ベトナムといった東南アジア諸国が、華僑への対応でどのように異なり、その結果がどのように国の現状に反映 しているかといったことを書いてみたいと思っています。でも、このコラム、予告どおりに展開しないことが多いので、その場合はアシカラズ。

再見!

Love & Work !!

*1)CCLについては次のサイトでご案内しています。
http://ccls.jp/
ロハスの定義については次のサイトをご覧ください。
http://allabout.co.jp/family/simplelife/closeup/CU20050225A/