「人類が永遠に続くのではないとしたら」(加藤典洋著)を読了。
ここのところしばらくこの本にかかりきりになっていました。
読み出すと止まらない、けど読み進めるのがもったいない、と同時に決して早くは読み進められない、頭が疲れて長くも読んでいられない、けど頭を休めて早く続きが読みたい・・・・、といった身もだえするような読書体験を久々に味わいました。
私が長年読んできた本の書き手はだいたい次の3グループの方々です。
1:加藤典洋、内田樹、芹沢俊介といった吉本隆明の系譜に属する人たち
2:見田宗助、大澤真幸、橋爪大三郎といった小室直樹の系譜に属する人たち
3:柄谷行人、中沢新一といったポストモダンの系譜に属する人たち
1と2の人たちは類似の主題を繰り返し扱いながら、相互に言及しあうことがない。
1の吉本キッズたちは3の柄谷さんへの否定的評価を繰り返し口にしてきた。
3のサイドからも、1や2のグループの成果は無視されているように見える。
しかし、互いに牽制し合っているように見えるこの3グループの方たちの全部を私は好ましく思う。
それはなぜなのだろうか?
他にも、
敬愛する吉本隆明が最晩年に「反・反原発」の立場に立ったことの意味を私はいったいどう理解すべきか?
エコロジー派の人たちの「反・成長」志向に対する私の若干の違和感はいったいどこからやってくるのか?
といった積年の問い。
こうした一群の問いに対して、この本から答えを得ることができました。
というか、それらの一群の問いが内的に関連性のある、実は一連の問いだったのだということについて合点がいきました。
自分自身では正確には言葉にできずにいたけれども、私の知的興味はそれなりの内的一貫性をもったものだったのだということが確認できたというわけです。
うれしい!!
加藤さんは何かについて論じる際に、その何かについて論じることに加えて、自分がそれについて論じる、つまりそのテーマに惹かれる、そのテーマから逃れられないのはなぜかといったこと、そうした<自分のこと>を書きます。
そのことによって読み手はその何かに加藤さん自身がどのように含まれているか、含まれていると加藤さんが考えているかが分かる。
それが加藤さんが「僕が批評家になったわけ」の中で自ら明らかにした彼の<批評の流儀>です。
その流儀がこの本でも見事に貫かれている。
その味わいがなんともすばらしかった。
論考そのものは暗い現実(3・11をスタートにして)を対象としているにもかかわらず、その論旨は新しい<希望>を指し示めさんとするものです。
その理路は決して単純ではなく曲折を交え、迂回を経たものではあっても、結論においてその願いは成就している。
しかし、さらににもかかわらず、その文章の背後にはある種の「死の影」が終始潜み伏流している。
それがどこから来るものかを読者はそのエピローグを読むときに了解することになります。
そしてやはり、彼の<批評>は<思想>であるよりも<文学>なのだということを知る。
最後に橋爪大三郎さんが日経の書評欄でこの本を取り上げて最大級の賛辞を捧げたあと、文末で述べた次の文章を引いておきます。
「実を言えば私(評者)は加藤氏ほど、この衝撃を深く受け止められない。3.11をはるかに上回る破局が起こるような気がするからだ。それはともかく、この時代の困難をどこまでも深く掘り下げる書物が現れたことを、読者と共に喜びたい。」