月別アーカイブ: 2014年8月

「人類が永遠に続くのではないとしたら」

「人類が永遠に続くのではないとしたら」(加藤典洋著)を読了。

ここのところしばらくこの本にかかりきりになっていました。

読み出すと止まらない、けど読み進めるのがもったいない、と同時に決して早くは読み進められない、頭が疲れて長くも読んでいられない、けど頭を休めて早く続きが読みたい・・・・、といった身もだえするような読書体験を久々に味わいました。

私が長年読んできた本の書き手はだいたい次の3グループの方々です。

1:加藤典洋、内田樹、芹沢俊介といった吉本隆明の系譜に属する人たち

2:見田宗助、大澤真幸、橋爪大三郎といった小室直樹の系譜に属する人たち

3:柄谷行人、中沢新一といったポストモダンの系譜に属する人たち

1と2の人たちは類似の主題を繰り返し扱いながら、相互に言及しあうことがない。

1の吉本キッズたちは3の柄谷さんへの否定的評価を繰り返し口にしてきた。

3のサイドからも、1や2のグループの成果は無視されているように見える。

しかし、互いに牽制し合っているように見えるこの3グループの方たちの全部を私は好ましく思う。

それはなぜなのだろうか?

他にも、

敬愛する吉本隆明が最晩年に「反・反原発」の立場に立ったことの意味を私はいったいどう理解すべきか?

エコロジー派の人たちの「反・成長」志向に対する私の若干の違和感はいったいどこからやってくるのか?

といった積年の問い。

こうした一群の問いに対して、この本から答えを得ることができました。

というか、それらの一群の問いが内的に関連性のある、実は一連の問いだったのだということについて合点がいきました。

自分自身では正確には言葉にできずにいたけれども、私の知的興味はそれなりの内的一貫性をもったものだったのだということが確認できたというわけです。

うれしい!!

加藤さんは何かについて論じる際に、その何かについて論じることに加えて、自分がそれについて論じる、つまりそのテーマに惹かれる、そのテーマから逃れられないのはなぜかといったこと、そうした<自分のこと>を書きます。

そのことによって読み手はその何かに加藤さん自身がどのように含まれているか、含まれていると加藤さんが考えているかが分かる。

それが加藤さんが「僕が批評家になったわけ」の中で自ら明らかにした彼の<批評の流儀>です。

その流儀がこの本でも見事に貫かれている。

その味わいがなんともすばらしかった。

論考そのものは暗い現実(311をスタートにして)を対象としているにもかかわらず、その論旨は新しい<希望>を指し示めさんとするものです。

その理路は決して単純ではなく曲折を交え、迂回を経たものではあっても、結論においてその願いは成就している。

しかし、さらににもかかわらず、その文章の背後にはある種の「死の影」が終始潜み伏流している。

それがどこから来るものかを読者はそのエピローグを読むときに了解することになります。

そしてやはり、彼の<批評>は<思想>であるよりも<文学>なのだということを知る。

最後に橋爪大三郎さんが日経の書評欄でこの本を取り上げて最大級の賛辞を捧げたあと、文末で述べた次の文章を引いておきます。

「実を言えば私(評者)は加藤氏ほど、この衝撃を深く受け止められない。3.11をはるかに上回る破局が起こるような気がするからだ。それはともかく、この時代の困難をどこまでも深く掘り下げる書物が現れたことを、読者と共に喜びたい。」

グローバル研修

昨日今日と二日連続で横浜の日立SBさんの「グローバル研修」に出講。
メインメッセージは次のようなものでした。

特定の企業でだけ役に立つような人材は実はその企業でも役に立っていない。
同じように、日本でしか役に立たないような能力は実は日本でも役に立たない。
さらに、仕事でしか役に立たないような能力は実は仕事でも役に立たない。
結局、人生の役に立つような能力だけが仕事にも役に立ち、世界で役に立つような能力だけが日本でも役に立つ。
そして、世界で役に立つ能力とは英語力なんかのことではなく、母国語による思考力と母国語によるコミュニケーション力のことである。
だから、Think & communicate in japanese!

受け止めて下さった受講者の皆さんも偉いけれど、なによりこういう研修をさせてくださる日立SBさんが偉い!!

<個人が勝手にやる公共事業>

「小商いのはじめかた」(伊藤洋志著)を読了。
伊藤さんの本はこれで3冊目。
「ナリワイをつくる」=「人生を盗まれない働き方」
「フルサトをつくる」=「帰れば困らない場所を持つ暮らし方」
そしてこの「小商いのはじめかた」には次のような副題がついています。
「身の丈にあった小さな商いを自分ではじめるための本」
「日本劣化論」における笠井さんの次の結論を思い起こしました。
<独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助する>
笠井さんの言葉を真に受けたときに立ち上がってくる問い=「ではどこから、どのようにはじまるか?」、に対する一つの答えがここにあります。
笠井さんの本で問いが立ち上がり、伊藤さんの本で答えにめぐりあう。
そういうセレンディピティが嬉しい。
エピローグの中で伊藤さんが言っている次の言葉。
グッときてしまいました。
<小商いは『個人が勝手にやる公共事業』だ!>
大きくても小さくても自分の仕事を「勝手にやる公共事業」と言い切れるなんて、「そうこなくっちゃ!」という感じです。
アッパレ!

<独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助する>

「日本劣化論」(笠井潔×白井聡の対談本)を読了。

今年、2014年は第一次世界大戦の開始(1914年)から100年という年でもあります。
さまざまなところで、第一次大戦の意味を改めて問い、総括しようとする試みがおこなわれているようです。
そして1914年の国際情勢が不気味に現在の国際情勢に似ているという指摘も聞こえてきます。

というわけで、私も今、その類の本を並行して三冊読んでいます。

1:「日本劣化論」(笠井潔×白井聡)
2:「『反日』中国の文明史」(平野聡)
3:「第一世界大戦」(木村靖二)

白井さんは、近著「永続敗戦論」も評判になっています。
「永続敗戦論」は第二次大戦の「戦後」論。
私の読んできた本に限って言えば、次のような系譜に属するもののようです。

岸田秀「唯幻論」
→加藤典洋「敗戦後論」
→内田樹「ためらいの倫理学」、「日本辺境論」
→白井聡「永続敗戦論」

「日本劣化論」においては第一次大戦に遡った議論が行われています。
第一次大戦100年への興味から、「永続敗戦論」よりも先に「日本劣化論」を手にとりました。

前半をリードする白井さんのキレキレ具合にも感嘆しましたが、後半の笠井さんの近代全体を見渡すフレームワークのすばらしさに驚嘆。
白井さんは「反知性主義」が優勢になっている現在の趨勢を「劣化」と呼び、笠井さんは「倫理主義の観念的倒錯」を別種の「劣化」の例とする。

フランス革命が絶対王政を打倒しつつもその負の遺産たる「国家主権」からの解放をもたらさなかったこと。
「主権国家」が対等に決闘しあう権利としての「交戦権」が第一次大戦の反省から事実上否定され(パリ不戦条約)、以後戦争は「犯罪」になったこと。
しかし、その「犯罪」を無効化する(取り締まる)メタレベルの権威が存在しなかったために第二次大戦が起こったこと。
つまり第二次大戦はそのメタレベルの世界的権威=世界国家を造りだすための戦争でもあったこと。
しかし、戦後処理の中で半世界国家が二つ(米・ソ)ができてしまったこと。
国連もまた両国の拒否権のゆえに世界政府性を発揮できなかったこと。
冷戦の終結によって、アメリカが世界政府的役割を担おうとして国際警察行動に出たこと。
そのアメリカの衰退によって現在、<世界内戦>とでもいうべき事態が進捗しつつあること。

そうしたパースペクティブを提示した上で笠井さんは最後にそれへの対抗策として読者個々人にこう訴えます。

<とりあえずはグローバリズムと世界内戦の21世紀を、我々は生き延びていかねばならない。
そのためには、市場にダイレクトにアクセスできる独立生産者として自立することが必要になるでしょう。
20世紀後半に完成した福祉国家の時代のように、政府も会社も個人を守ろうとはしません。
国家や資本に身柄を預けるのはリスクが高すぎます。
それより独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助することを考えた方がいい。>

アナキスト系の思想家の面目躍如たる結論です。
うっとりしてしまう。

<独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助する>

指南力のある先達にまた出会ってしまった!
笠井さん、感謝!