月別アーカイブ: 2009年1月

葛藤と勤労観

早川です。

産業人として大人になるためには「勤労観」をもつことが必要だと言いました。
資本主義の生成期において、人々がどのように近代的「勤労観」を練り上げて行ったかということについては、マクス・ウェバーの「プロテスタンチズムと資本主義の精神」が参考になります。

とはいえ、あれを読んでプロテスタンチズムがどのように資本主義の精神をもたらしたかということがピンとくる日本人は少ないのではないでしょうか?
プロテスタンチズムというイズム(イデオロギー)が資本主義というイズム(イデオロギー)をどのように用意したか、前者が後者をどのようにもたらしたか、それが書いてあると思ってあれを読むとなんだか分かったような分からないようなという気分になります。

キリスト教、特にプロテスタンチズムには勤労精神と順手の関係にある勤勉さという性格もあるが、同時にそれとは逆手の関係にある禁欲主義的傾向(反物質主義的傾向)も含まれていました。
後者との関係では、勤勉に働くことは善として奨励されたというより、罪悪として抑圧されてもいました。
資本主義の黎明期にあって、勤労はそうした抑圧との間でコンフリクトを生じる行為だったわけです。

そうしたコンフリクト、葛藤が人々の資本主義的「勤労観」を練り上げていく。
だから彼らにとってそれはひとつの選ばれた「主義」であり、イデオロギーなのです。

実際、経済学はその黎明期において、倫理学の一分野でしたし、アダムスミスも倫理学の学者であり、今日的な言い方をすれば応用倫理学を論じる書物として「国富論」を書いたのです。

しかし、日本人にとって勤労ははじめから善でした。
少なくとも、キリスト教徒のようなコンフリクトをもつことはなかった。
日本では資本主義は「主義」ではなく、ひとつの「制度」に過ぎない。

この事情は中国でも同じです。
だから「資本主義」を採用した中国共産党はそれを「一国二<制度>」と呼ぶのです。

勤労がはじめから善であり、そこにコンフリクト、倫理的葛藤がなかった。
そこに日本人の「勤労観」が浅いひとつの理由があると思います。
マクス・ウェバーはヨーロッパ人が社会の世俗化によって「精神のない専門家」になることを危惧しましたが、日本人ははじめからそれを目標にした。
その差が今日に至るまで横たわっている。

しかし、今、働くことに関するコンフリクト、葛藤は日本に溢れています。
これを自らの「勤労観」を練り上げる契機とできないか。
それがなれば日本の産業社会は新たな成熟を遂げることができる。
そう思うわけです。

Love & Work!

二つの罠

早川です。

仕事を通じて幸福になるために仕事を通じて成長する=大人になる。
産業人として大人になるためにはちゃんとした「勤労観」が必要。
そこまできました。

「勤労観」をもつこと、もとうとすることには二つの罠が存在すると思います。
そのひとつは、答えが出るまで「働くことに手をつけない」、もしくは答えが出ないから「働くことをやめる」というもの。
もうひとつは、問いを持たずに、もしくは持つことを否定して「つべこべ言わずに働く」だけに終始するというもの。

社会全体が貧しいうちは大半の勤労者は後者に属し、社会に一定の財が行き渡り、あくせく働く必要がなくなると前者が増えます。
しかし、世の中が不景気になって食えなくなるとまた後者が増す。
こうした循環が長期循環、中期循環、短期循環の中で繰り返されているように見えます。
日本に例をとれば、近年のリテンション問題(新人の1/3が3年以内に会社を辞める)は前者の傾向がもたらしたものであり、08年末以来のリセッションは後者のトレンドを昂進させるでしょう。

しかし、仕事を通して成長し、大人になろうとする者にとってはどちらも罠になります。
「自分はなぜ働くのか?」という問いは「人はなぜ働くのか?」というメタレベルの問いを掘り下げるための補助線としては有効です。
前者の問いによって後者の問いは具体性と切実性を増すでしょう。
しかし、「自分はなぜ働くのか?」という問いが「自分は何かしたいのか?」、「自分にあった仕事は何か?」という自己実現系の問いに回収されてしまったら、問いが窒息してしまう。

幸いにもその問いに答えが見出せたとしましょう。
その場合でもその到達点は単なる自己実現でしかありません。
あなたが自己実現してもそれはあなたにとっての自己実現に過ぎない。
そしてそれだけでは人は幸福にはなれないようにできている。

不幸にもその問いに答えが見出せない場合はどうでしょう。
その結果もプロセスも「問いの深まりが成長そのものである」というようなリアリティをあなたにもたらすことはない。
つまりあなたは幸福になれない。
自己実現をGoalにしようとする思考は概してこういう隘路に私たちを誘導し、そして不活性化させてしまいます。

一方、「つべこべ言わずに働く」だけでも人は仕事を通して成長し、幸せになるという道筋から離れてしまいます。
人間はどうしても「つべこべ言う」。
それが封じられているだけでも不幸です。
仕事をすること、勤労、労働に関する悩みや葛藤を、自分自身の利害(自己実現を含む)を超えたパブリックな問いへと高めていく。
それが「働き方」という実践によってさらに鍛えられ行く過程、そこに仕事を通して成長し、幸福になるための契機が潜んでいる。

それに情況論的言っても、つべこべいわずにできる、単なる機械的勤勉さが必要とされるような内容の労働は、機械化されるか、労賃の低い海外に持っていかれるか、国内でもそのつど時価調達されるものになってしまっているのではありませんか。
労働市場のありようもまた、次なる葛藤へと我々を導いているのです。

Love & Work!

大人になるということ-2

早川です。

成長とはASISからTOBEに至ることである。
そのASISとTOBEを「子供から大人へ」としてみるのはどうか。
TOBE=産業人としての大人になること、産業人としての成熟。
そこまできました。

そこで、産業人として大人になるとはどういうことかを考えねばなりません。
まず確認しておきたいのは、大人になるとは達人やスーパーマンになることではないということです。
そういう突出した先端、前衛を目指そうといっているのではない。
むしろ、「普通であることの閾値を上げる」ことの方が大切だと考えたい。
大人になること=成人すること=人に成ることは万人に求められていい課題だからです。

では、あらためて産業人として大人になるとはどういうことか。
その資格の核にあるもの、それは「勤労観」を持っているということだと思います。
「仕事観」、「労働観」と言い換えてもいいでしょう。

人はなぜ働くのか?
自分はなぜ働くのか?

まず大切なのはその「答え」を持つことではない。
この「問い」を持つことです。
そして、問いを深めることを成長の原資としていくことです。

人はなぜ働くのでしょう?
あなたはなぜ働いていますか?
その問いはあなたによってどれくらい長く保持されていますか?
その間その問いは問いとして深くなったでしょうか?
そういう問い、悩み、葛藤はあなたの勤労観を練り上げてきましたか?
問いを深める過程で生成される仮説としての勤労観はあなたの成長の原資となってきましたか?

Love & Peace!

大人になるということ-1

早川です。

仕事を通して幸福になる。
そのために仕事を通して成長する。
成長とはよい方向への変化である。
ゆえに成長するためにはまずは変化志向が必要となる、と言いました。

しかしやみくもに力任せにただ変化すればいいというわけにはいきません。
「犬も歩けば棒にあたる」というわけには行かないでしょう。
私たちは犬ではないのですから。

犬の散歩のような行き当たりばったりではない「意図した変化」を遂行していくには、今の自分の現在地点と行き先となる目標地点を暫定的にでも定めておかねばなりません。
この二点が定まれば「方向」が見出せるはずだからです。

では現在地点(ASIS)はどこか?
目標地点(TOBE)をどこに定めるか?

成長のためのASISとTOBEを「子供から大人へ」と定めてみるのはどうでしょうか?
成長とは子供が大人になることでもあるからです。
たかだか100年くらい生きるだけでは人間としての究極の成熟に到達することなど叶いません。
ですから、「大人になれ」=「成熟せよ」という遂行的命題はいくつになっても追いかけることのできる目標たりえるはずです。
だからこそ、人生のゴールデンタイムを産業人として生きることに決めた限りは仕事を通して一定の成熟へと成長していかなければならないし、それができなければ人生の全体を幸福なものにできない。

仕事を通して大人になる。
つまり、産業人として成熟することをとおして人間として成熟する。
人間としての成熟を通していっそう産業人としても成熟する。
そういう循環を作り出す。

「ソウイウヒトニワタシハナリタイ」

Love & Work!

「ベートーヴェンは凄い!」‐2

早川です。

先回に引き続いて、「ベートーヴェンは凄い!」についてです。
コンサートの中で、合間合間にプロデューサーの三枝成彰氏が演奏者へのインタビューという形で「ベートーヴェンのどこが凄いか」ということを解説してくれました。

ベートーヴェンのスコアには彼が生きていた時代にはうまく弾けない、吹けない音、フレーズが存在した。
その原因のひとつは当時の楽器(古楽器)の制約。
もうひとつは当時の演奏家の技量上の制約。

前者についてはその後、彼のスコアを演奏できるように楽器が進化した(改良された)。
たとえば、金管や木管の類。

一方、弦楽器などは当時すでに完成されていたので、後者の制約だけがあった。
初演の時、作曲家兼指揮者でもあるベートーヴェン本人に対して当時の演奏家が「こんなの弾けるわけがない」と文句を言ったときの彼の台詞。
「私は100年後の演奏家のために書いている」

ヴァイオリンに関してはパガニーニやサラサーテなどの超絶技法を駆使する演奏家が登場し、彼らが書いたエチュードのおかげで、後のヴァイオリニストはベートーヴェンが100年後の演奏家のために書いたスコアを本当に演奏できるようになった。
8番にはまだヴィオラのパートにその種の難所が残っているし、9番のあるフレーズはコントラバス奏者に言わせると、「演奏できるようになるまでにあと300年はかかる」とのこと。

これらのエピソードはベートーヴェンという人が未完成の楽器のポテンシャルや完成した楽器を奏でる側の演奏家のポテンシャルというものを知り尽くしていたことの証左。
ここまでが三枝さんからの受け売りです。

そうした解説を聞いていて私が思ったのは、彼が音楽の「進歩」や「発展」、ひいては人類の「成長」を本当に信じていたんだなー、ということです。
そういう想いがあって、その先に苦悩があり、それを突き破ったからこそ、彼は世界によきものを積み増し、また新しいものをもたらすことに成功した。

もちろん、何が「進歩」で、何が「発展」で、何か「成長」か、ということに関しては、我々は大いに懐疑的であっていい。
しかし、その、実定化される前の、価値充填される前の、遂行的概念としての価値そのものについてまで懐疑、否定してしまったら我々はどう考えるか以前に、何について考えるかという地点で、はぐれてしまいます。

うーーん、ベートーヴェン、あなたは偉い!!

Love & Work!

「ベートーヴェンは凄い!」‐1

早川です。

大晦日から元旦にかけて行われた「ベートーヴェン全交響曲連続演奏会2008」に行ってきました。
9曲全曲を1番から9番まで番号順に演奏し、第九でフィーナーレというとんでもない試みです。

http://www.saegusa-s.co.jp/con081231.html

指揮は「炎のコバケン」こと小林研一郎。
オーケストラは「イワキメモリアルオーケストラ」。
場所は上野の東京文化会館。
31日の14時に開演で、終わったのは1日の午前2時。
12時間!!

3(「英雄」),5(「運命」),7,9(「合唱付」)の奇数ラインがパワフルですばらしかった。
特に5番と7番。

5番で魂を抜かれてしまい、6番(「田園」)で体勢を立て直したと思ったら、7番でまた打ち抜かれてしまった、そんな感じ。
こんな年越しは初めてです。

コバケンは、舞台の袖から小走りで登壇し、まるでリリーフしたピッチャーが投球練習なしにいきなりノーワインドアップで投げ出すみたいな感じで、さっと曲をスタートさせます。
1楽章が終わると、いったん壇を降り、オケに短く会釈して再度登壇し2楽章に入っていく。
2楽章と3楽章の間でも同じ動作を繰り返します。
でも、3楽章の終わりでは、最後に振り上げた指揮棒を頭上でとめ、短く静止して、腰をためて振り下ろし、いきなり4楽章に入る。
ほぼ全曲そういう流れでした。
この3楽章と4楽章のあいだの<間>の緊張感がよかった。

コバケンは一曲が終わると、観客にオケのメンバーへのアプローズをたっぷりと求め、自らも壇上を走り回って拍手をし、握手をし、そうやって皆を励まして励まして、長丁場を乗り切っていました。
いい指揮者というのは卓越した芸術家であるだけではなくて、優秀なプロジェクト・マネージャーでもあるのだと納得。
ベートーヴェンも偉いけど、コバケン、あなたも偉い!

Love & Work!