月別アーカイブ: 2007年9月

Work2.0(その4)

プノンペンは今、雨季です。毎晩雨が降りますが、今年はさほどの豪雨がなく、助かっています。なにせ、本気で降られると、町中が海になってしまい、身動きが取れなくなりますから。

カンボジアの人は、タイ人より気性が荒く、人々の活動量、運動量も豊富です。マーケットでの客の奪い合いの光景など、なかなか凄まじいものがありま す。タイのバンコクなどではありえない光景。目先の競争では負けまいとするのですが、それが生産性に反映されないところがご愛嬌で、その点でもタイ人に負 けている印象があります。

世界中を廻って、ずっと「人はなぜ働くのか?」ということについて考えています。「なぜ働かねばならないのか?」ではありません。「なぜ働くの か?」=「なぜ働いてしまうのか?」です。人の本性のなかにビルドインされている「働く」という傾向の本質を知りたい。それがわかれば我々はもっと「良く 働く」ことができる。なぜなら、その「なぜ」を充たす仕方で「働く」ことが「良く働く」ことに違いないからです。

ここでいう「良く働く」とはより勤勉に働くとか、生産性を上げるとかいうことを意味しているのではありません。「良く働く」の「良い」は、良い世 界、良い家族、良い会社、良い人、良い親、良い牛乳、良いとんかつ、良い・・・、一般における「良さ」に適うという意味での「良い」です。これについて は、『働き方における<良さ>-<良く>働くと言うこと』で論じましたね(注1)。

で、「なぜ人は働くのか?」。まず、「働く」ということには四つの機能があると考えます。第一は生産、第二が成長、第三が保護です。第四については ひとまずブラックボックスということにさせていただき、第一から第三について論じます。まず、「生産」について。人が働くのは第一に、何かを生み出す、作 り出すためです。これが「生産」ですね。乏しければ乏しいほどそのための<必要>は大きいはずですが、今日では「生産」欲求を起動させているのは<必要> ではなくて、<欲望>です。空腹感は生物学的な欲求ですから、食べないことによって生じます。しかし、食欲は文化的欲望ですから、食べたことのないものに 対しては生じません。同じように「生産」欲求を起動させる<欲望>も見たことのないものについては生じませんから、それを外から見せる=刺激することが必 要になります。だから、<必要>が大きいはずの貧困国、最貧国よりも、<欲望>が大きい先進国の方が「生産」欲求が高いのです。

次に「成長」について。人はよく「働きがい」といったことを問題にしますが、<必要>なものを生産するといった第一の機能によって十分に欲求が起動 されていれば、働くことに「甲斐」もへったくれもない。しかし、「生産」するか否か、何を生産するか、どのように生産するかといったことに関して、選択の 余地が生まれてくると、人は「働きがい」を求めるようになる。昨今、<ES>(従業員満足度)といったことが問題にされ、「働きやすさから働きがいへ」と いったトレンドについて語られるようになりました(注2)。この「働きがい」の中核にあるものが「成長」実感です。仕事を通じて、産業人として、あわよく ば人間的にも成長したい。人はそのような欲求にもまた動かされて「働く」のです。ですから、「良く働く」ことには「働くことによって成長するという仕方で 働く」ということが含まれます。

第三に、人は「働く」ことによって「保護」されます。これはつまり「小人閑居為不善」(人閑居して不全を為すという)ということです。たいていの人 は、閑にしているとろくなことはしない。失業率の増加が犯罪率の増加に繋がる。だから失業対策は経済対策であるだけでなく、刑事政策でもある、といったよ うなことと同じ文脈です。愚かなことに巻き込まれないようにするためには「働く」ことに精を出すのが一番だということを昔の人は良く知っていたというわけ でしょう。

では、第四のものは何か?それは、ここカンボジア、プノンペンに来て、毎日カンボジア人を眺めていて発見したものです。彼らは生産機能との関係で働 く<必要>を大いに有していますが、<欲望>は目先のことに向いている(客の奪い合いで目の前のあいつに負けたくないというような欲望)ので、「生産」そ のものに向けた<欲望>は小さい。「成長」欲求も、「保護」(社会的自己保全)欲求だってさして大きくない。そういう彼らは何に起動されて=なぜ「働い て」いるのか?それは「時間を充たすため」です。

人は一日24時間を何かをして「過す」という必要をもっています。食べる、寝るという必要があって、それを充たすために何かを生産する=稼ぐ。その 稼ぐ作業によって、一日が、時間が費やされ、過されていく。稼ぐこと、それによって必要が充たされることと、それらによって時間が充ちることとが一体化し ている生活はある意味、幸福です。そこにはある種の完結性と簡潔性がある。

カンボジアでは、稼いでも稼がなくても、食べること、寝ることの量と質に大きな差が生じるわけではありません。働いたからといって先進国のような暮 らしが出来るわけではなく、働かないからといって餓えて死んでしまうわけではない。乱暴な言い方をすれば、その差は先進国の人間から見れば「誤差」程度の ものに見えます。それでも運動量という観点からみれば彼らは結構がつがつと働いている。それはなぜか?それは何もしないことに耐えられないから、一人でい ることに耐えられないからです。それは第三の「保護機能」=社会的自己保存欲求に似ていますが、それより積極的で根源的で深いものだと思います。

プノンペンでよく見かける光景を素描してみましょう。車を運転していていると、幹線通りから一つ入ったくらいの道で、若者(子供?)が車に向って、 「こっちへ来い、ここに停めろ」と手招きするのによく出会います。たいていは、レストランか床屋の客引きです。こういった駐車場係は町のいたるところにい て、どこかに車を停めようとすると、どこからともなくやってきて、車を誘導し(大きなお世話何だけど)、車のドアを開けてくれます(これも大きなお世 話)。で、帰りにも同じことをして、ちょっとしたチップをもらう(大体1000リエル=25セント=30円くらい)。

もちろん、それはチップを稼ぐための労働には違いないのでけれど、でも彼らの働きぶりは、それだけではない、なにかの「喜び」や「やりがい」といっ た感覚を発散させもいます。それはたいした仕事ではない。床屋の店先で車の呼び込みをする。それは床屋の本体が生産している付加価値と比較すれば非本質的 で些細なものでしかありません。実際、床屋の主人が彼に何がしかの報酬を払っているようには思えない。客からもらうチップだってタカが知れています。それ でも、そこを自分のショバ(場所)にできていること、そこを任されているという自覚がある種の「やりがい」の自覚を生んでいるのでしょう。

毎日そこに通ってきて、仲間と会い、彼らと一緒に時を過す。そのためにその場の有力者からの信任を得、それを維持しなければならない。そのために一 生懸命働く。それは日本に昔あった丁稚システムのさらにプリミティブな形態と言えるかもしれません。昔といったってそんなに昔じゃありません。私の父が祖 父の家業を手伝うようになる直前まで、店員は丁稚で、「**ドン」と呼ばれていたのですから。丁稚さんは、「家でブラブラさせていてもナンだから」とツテ をたどって預けられるといった仕方で都会にやってきました。そこでも彼らにとっての仕事とは「皆と一緒に何かする」(そうやって時を過ごす)こと自体を目 的としたその「何か」だったのです。

そして今、日本では「ネットカフェ難民」のことが問題にされていますが、もし、ネットカフェがなかったら、「難民」は何もしないこと、一人きりでい ることに耐えられないでしょう。だからかれらはネットカフェに滞留するのです。ネットやネットカフェがない環境であれば、人は何かを誰かと一緒にすると いった仕方でしか時を過ごすことが出来ません。そしてそのためにもとりあえず「働く」のです。

であってみれば、つまり「働く」ということにこのような第四の意味があるとすれば、「良く働く」ことはこの第四の意味にもよく応えねばならないこと になります。どのように?「働く」ことを通して、友を作り、その友と助け合うことを通して、充実した時を過すという仕方によってです。「仕事」の本質には 「時の過し方」という一面がある。「時」を物(お金)に換える。これが生産。「時」を使って自分の価値を上げる。これが成長。「時」を空費しないことで、 不善から逃れる。これが保護(社会的自己保全)。そして、人(他人)とともに「時」を過すことそれ自体によって創造しうるもの。それは信頼、信用、友情。

幸い、先進国では、労働が、仕事が、働くことが、こうした四つの機能、意味を総合的にかつ自覚的に充たせるようになりつつある。そのような仕事を巡 る社会的、歴史的、文明論的環境が整いつつあるのではないか。そのような環境=仕事の社会的プラットフォームのことをWork2.0と呼びたい。どのよう な変化、情況がその名にふさわしいか、それについてはまた次回。

再見!

注1:「働き方における<良さ>-<良く>働くということ」

注2:「人材教育」2007年6月号特集「働きがいとESを重視する組織作り」