「世界はシステムで動く」

「世界はシステムで動く」(ドネラ・H・メドウズ著)を読了。

「成長の限界」の主執筆者で、「世界がもし100人の村だったら」の原案者でもあります。

素晴らしい本です。
是非読んでいただきたい。
全編を引用したいくらいですが、そうもいかないので、一箇所だけ引いておきます。
こういうところ。

「システムには、あなたが生み出してほしいと望んだものだけをそのまま生み出すという怖ろしい傾向があるのです。
なにを生み出してほしいとお願いするのか、気を付けなければなりません。
もし、望ましいシステムの状態が「国家の安全保障」で、それは軍事支出額で定義されるとしたら、そのシステムは軍事支出を生み出すことになるでしょう。
それは国の安全保障を生み出すかもしれませんし、生み出さないかもしれません。
(中略)
もし、望ましいシステムの状態が『良い教育』で、その目標を生徒一人当たりに費やす金額で測るとしたら、生徒一人当たりの金額は確保されるでしょう。
教育の質を標準テストの成績で測るとしたら、システムは標準テストの成績を生み出すことになるでしょう。
これらの測定のいずれかが『良い教育』に繋がっているのか、少なくとも一考の余地があるでしょう。
インドで家族計画が行われた初期のころ、プログラムの目標は『避妊リングの装着数』で定められていました。
そこで医師たちは、目標を達成しようという熱心さのあまり、患者の同意を得ずに女性たちに避妊リングを装着したのです。
こういった例は、『努力』と『結果』の混同であり、間違った目標を中心に吸えてシステムを設計する際に最もよく起こる過ちです。
この種の過ちの中で最悪なものはおそらく、国の経済的な成功を測る指標としてGDPを採用してきたことでしょう。
(中略)
GDPは、達成したものではなく、達成のための取り組みや労力を測り、効率ではなく、総生産や総消費を測ります。
同じ明るさを作りだすのに必要な電力は1/8で、寿命は10倍長い新型電球は、GDPを引き下げることになります。
GDPは『スループット』(一年間に生産・購入されたモノのフロー)を測ります。
(中略)
資本のストックを測るのではないのです。
『最大ではなく最小のスループットで、社会の資本ストックが維持・活用されている社会こそ、最良の社会だ』と論じることもできるのではないでしょうか?
(中略)
『GDPが社会の目標だ』と定めれば、その社会は、GDPを生み出すために最大の努力をすることになるでしょう。
幸福や公正、正義や効率の目標を定義し、定期的に測定し、その状態を報告することをしなければ、公正、正義、効率は生み出されないでしょう。
(中略)
『ルールのせいで』ばかげたことが起こった、というときは、間違った目標の問題です。
ルールを迂回するやり方をしたからバカなことが起きたというなら、ルールのすり抜けの問題です。
システムのこの逸脱の両方が、同じルールに関して同時に進むこともあります。」

いやはやおみごと!

わたしもクライアント企業に常々こう言ってきました。
「期毎の売り上げや利益を成功の指標にしてはならない。
企業にとっての成功とは、ミッションをどう果たしたか、ヴィジョンにどれほど近づいたか、その間、社員がどれほど成長し、幸福になったかで測られなければならない。
利益を期毎に計算するのは、国家が企業から税金を取るための手段に過ぎない。
株主が資本的利回り計算をするための方便に過ぎない。
それらは必要なことではあるが、目的ではない。
ゆえにそれらを成功の指標にしてはならない。」

ドネラさんの言っていることと多少響きあうところがあると感じました。
嬉しい!

今年は「いい本との出会い」に関して、本当に<当たり年>だな~。
ドネラさん、訳者の枝廣淳子さんに感謝!

一羽のスズメから学ぶということ

「ある小さなスズメの記録」(クレア・キップス著)を読了。

クレアはある日、おそらく体の障がいのゆえに親によって巣から落とされてしまったスズメの雛を拾います。
まだ目の開いていなかった雛は最初に見たものとしてクレアに出会い、クラレンスと名付けられます。
それから12年と7週と4日の間、二人は戦中、戦後の苦楽を共にします。

たった一羽のスズメを育み、共に暮らし、彼から学ぶといっただけのことがクレアの人生にいかに豊穣なものをもたらしたか。
彼女の経験に気持ちのいい嫉妬を終始覚えながら読みました。

例えば、彼女がクラレンスの老いの姿から学んだことを語るこの部分。

「小鳥がこれほどまでに老衰と闘う姿は始めて見た、と、動物の軍医どのは、次から次へと続く驚きの連続の中で言った。
『カナリヤやセキセイインコなら、とっくに死んでますよ。』
しかし、不屈の意志をもったこの私の相棒は、決して降参しなかった。
屈する代わりに、ますます自由が利かなくなっていく状況に自分を適応させ、愚痴をこぼすことも(明らかに)なく、何か違うという思いをもつことも(おそらく)なく、味わえる限りの生の喜びを享受し、精一杯の活動を楽しんだ。
我々老いゆく者に対するなんという教えであろう。
若い人なら簡単にできるような、今まで日常的にやっていたはずの仕事をこなそうと延々と時間を費やして苦労するなんて、なんと馬鹿げたことであろうか。
そんなことをやっている間に、経験のある老人でなければできないような慰めや理解を、若者たちにあげることができるのに。」

こんな奇跡的な偶然が写真に撮られたこともあるといいます(写真は実際に本に掲載されています)。

「『日々の読書』と題した写真に関して、特筆すべきと思われる偶然の一致がある。
その写真は、『日々の光』という小さな礼拝用の古典の、あるページを、彼がまるで物思いにふけっているかのように、静かに見つめている姿を写したものだ。
『日々の光』という本は、ただそのサイズが適していたために選んだだけで、いろいろ積み上げてあった中から取り、そのときの勢いで無造作にページを開いたものなのだが、後に現像されてみると、彼の小さなくちばしのさしている文章が次のような箇所だったことが判明した。
『スズメ二羽はまとめて一銭で売っているほどのものである。
しかしそういうスズメの一羽ですら、主の許しなしでは、地に落ちることもかなわないではないか(マタイ10章29節)。』
(中略)
これはいわば、彼の短い説教であり、懐疑と不安に満ちた人類への別れのメッセージとも思われる。
そういうものとして、私はこれを記そう。
『しかるに怖るるな!
汝らは多くのスズメにもまして価値あるものである(マタイ10章31節)。』」

英語の原著を取り寄せて読んでみたくもなりました。
この邦訳版をプレゼントしたい友人たちの顔も何人か思い浮かびます。
そして、なにより鎌倉の実家の両親にこの本を「読み聞かせ」してあげたい。
そんな幸福な読後感をもたらした本でした。

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河合隼雄さんのこと

しばらく前の日経の夕刊に若松英輔さんの「一対一」と題するエセーが載っていて、河合隼雄さんのことが書かれてありました。
こうあります。

「彼は、意識の奥に『たましい』と呼ぶべきなにかがあるとしばしば語る。
それは狭義の学問としての深層心理学だけでは辿り着くことのできない場所であるとも述べている。
(中略)
『たましい』の働きにふれ、彼は次のように書いている。
『人間関係を個人的な水準ではなく、非個人的な水準にまで広げて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものでありますが、『かなしみ』というのが適切と感じられます。
もっとも、日本語の古語では『かなし』に『いとおしい』という意味があり、そのような感情も混じったものというべきでしょう。』」

「かなし」にはどんな字をあてるか。
「愛」は名詞としては音読みで「あい」ですが、訓読みで、動詞としては「めでる」、「いとおしむ」、形容詞としては「かなし」と読める、と聞きました。
つまり、「かなし」とは日本人の古層における「愛」なのだ、と思いたい。
ここ、つまり「愛」=「かなし」にこそ、日本人の「非個人的水準」における「たましい」がある。
そして、その古層において、日本人はやはり「普遍」(愛という普遍)に繋がっている。

最後の部分がまたいいんだ。

「治療者は、クライントと一対一で会う。
眼前にいる人は、日常生活の中で、ある試練に直面している。
現代社会には同様の日々を送っている人物は少なくない。
この人もそのうちの一人だと考えることもできる。
しかし、自分にはそう思えない。
どのクライアントに向き合うときも、必死に今を生きようとする人類の代表者として会う、彼はそう語った。」

まいったな~。

「初秋」

「初秋」(ロバート・B・パーカー著)を再読。

パーカーのスペンサーシリーズは全巻もっています。
中でも一番のお気に入りはこの「初秋」。
なんど読んだか分からない。

両親にネグレクトされて育ったポールをスペンサーが保護し、彼の自立を支援するというお話。
その自立のためのプログラムは次のようなものです。
1:田舎の土地に連れて行って、二人でセルフビルドで家を建てる
2:その合間合間にウェイトトレーニングやランニングをしてポールの身体を鍛える
3:ちゃんとした料理を作って食べさせる

田舎暮らし、セルフビルド、ウェイトトレーニング、ランニング、料理―これって全部私がやってる、やろうとしていることじゃないか!!
今回再読してみてそのことに改めて気付きました。
これほどまでにこの本にインスパイヤされているとは思っていなかった。

「彼(ポール)はただぼんやりと私を見ていた。
家は人が建てるものであることなど、一度として考えたことがないのだ。
家は建築会社が建てるものであり、時には自然に出現するもの、と思っている。」

もう、そのまま竹内ユウさんやDee Williamsさんの台詞みたいでしょ。
こういうのもあります。

「得意なことが何かということより、得意なことがあるということの方が重要なんだ。
おまえには何もない。
なににも関心がない。
だからおれは、お前の体を鍛える、丈夫な体にする。
10マイル走れるようにするし、自分の体重以上の重量が挙げられるようにする。
小屋を造ること、料理を作ること、力いっぱい働くこと、苦しみに耐えて力を振りしぼる意志と自分の感情をコントロールすることを教える。
そのうち、できれば、読書、美術鑑賞や、ホームコメディの台詞以外のものを聞くことも教えられるかもしれない。
しかし、今は体を鍛える、いちばん始めやすいことだからだ。」

私の場合、10マイル(16キロ)以上走れるし、自重以上の重量を挙げられる。
料理も作れるし力いっぱい働き、力を振り絞ることの快感も知っている。
となると、あとはやっぱり「小屋造り」だな。

「目の見えない人は世界をどうみているのか」

「目の見えない人は世界をどうみているのか」(伊藤亜紗著)を読了。

目の見えない人もある意味で「見ている」。
例えば、彼らが「点字」を使って読むとき、そのときに使われている能力は「触覚」ではなくて、「読む」能力であって、それは「見る」ことに近い。
実際、脳科学的にも、点字の処理は「見るための場所」で行われている。
そのことから逆に見える人にとっての「見る」ことの意味が明らかになる。
つまり、見える人もまた「見る」ことにより、「読む」ことをして見ている。
「見る」とは「視覚」の機能ではなくて、「読む」という身体全体が行っている「仕事」に対する名前なのだ。

見える人に見えてているものが見えない人には見えていない。
つまり、見えていない人には「情報」レベルでの欠損が存在する。
見える人はそう考える。
そして、その欠損を補うこと、そのために見える人が見えない人に対して与えるもの、それが「福祉」の名で呼ばれているものです。

そうした「福祉」の重要性を認めつつも、著者は「情報レベル」の非対称性の克服といった「福祉」のアプローチとは別の、「意味レベル」の差異に注目します。
そして、見える人と見えない人の間の「意味」の訪れの差異を理解するために、見えないとい人の経験に対する「健全な好奇」(面白がること)を勧める。
そのためには、見えない人の身体に「変身」することを推奨している。
この本はその「変身」のレッスンのための本だとも言える。
だから著者はこの本を「身体論」の本だと位置づけているのです。

見えない人と著者が大岡山駅で待ち合わせ、著者の研究室がある東工大のキャンパスまで一緒に歩いていたときのこと。
見えない人=木下さんはこういう。
「大岡山はやっぱり『山』なんですね。」
このとき、著者はこう気付きます。

「私にとってそれは、大岡山駅という『出発点』と、西9号館という『目的地』をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばもう忘れられてしまうような、空間的にも他の空間や道から分節化された『部分』でしかなかった。
それに対して木山さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で全体をとらえるイメージでした。
(中略)
見える人にとって、そのような俯瞰的で3次元的なイメージを持つことは極めて難しいことです。
(中略)
目に飛び込んでくるさまざまな情報が、見える人の意識を奪っていくのです。
(中略)
私たちはまさに『通行人』なのだとそのとき思いました。
『通るべき場所』として定められ、方向性を持つ『道』に、いわばベルトコンベアのように運ばれていく存在。
それに比べて、まるでスキープレーヤーのように広い平面の上で線を引く木下さんのイメージはより開放的なものに思えます。」

このような他我の経験の差異に対して開かれた構えをもつこと、それはとても素晴らしいことだと思います。
そうした構えは見えない人と見える人の間にだけ必要なのでも有効なのでもない。
もっと普遍的な力をもった構えだと思います。

すべての人がそれぞれに自分自身の<環世界>を生きている。
つまりそれぞれ別の「意味的世界」を生きている。
その差異に想像力を働かせる。
相手の身体に「変身」し、「他者の身体を生きてみる」といったほどに想像力を働かせる。
そうするときに初めて私たちはそれぞれ「他者に出会う」ことが出来る。

それってつまり<愛>ってことですよね。

Love & Work!

 

「世界で闘う仲間のつくり方」

「世界で闘う仲間のつくり方」(ジェニー・チャン著)を読了。

著者はトレンドマイクロ社の創業者マイケル・チャン氏の妻であり、同社2代目CEOのエバ氏の姉でもある方。
自身も同社の共同創業者の一人であり、現在もCCO。

CCOというのはChief Culture Officerの略で、訳せば「最高文化責任者」。
この場合の「文化」とは「会社の文化」のことですね。
現在この肩書きは少しづつ普及しつつあるけれど、どうやら彼女がCCOを名乗ったのが最初のようです。

私はクライアント企業に、CLO=Chief Learnig Officerを置くように勧めているのですが、彼女が言うCCOもそれにかなり近い。
CCOの方がすこしミッションの幅が広そうだけれど。

トレンドマイクロの創業の際の生みの苦しみ、ITバブルが弾けたときの混乱、日本での上場、CEOの交代やその直後のトラブル。
それらに際して創業者グループがいかに処したか。
その一貫た、毅然とした対応振りに感動!

特に、「組織フィットネス」という言葉や考え方に大いに触発されました。
たとえばこうあります。

「会社の前途はあくまであかるいのだが、まさにそうであるからこそ、われわれは鍛錬してより強健な身体を作り上げ、挑戦を迎え撃たねばならないのだ。」

会社の「戦略草案」を顧客に開示して共に議論するといった作業にも驚嘆!
こうあります。

「これまで、顧客が営業マネージャーと面会すると、話題になるのはたいてい価格の交渉であった。
サービス部の場合は、製品の問題への対応や問題解決の要請であった。
今回は個別の営業や製品も問題点ではなく、方向性や戦略といった一段レベルの高い、革新的な議論がなされた。
つまり、単なる企業と顧客の関係から、ともに計画を練るパートナー関係へと転換したのである。」

ピーター・センゲの「学習する組織」論、弊社=インサイトのコンサルティングの底流をなす考え方の一つです。
クライアント企業が「学習する組織」へと成長し、「学習する組織」として成長することを願ってこれまでやってきました。
しかし、ここまでの成功例が実際に身近に存在することは知らなかった(反省!)。

トランス・ナショナル企業を謳うトレンドマイクロですが、元々は日本で上場した広義の「日本企業」。
だから、「学習する組織」を日本企業の中で実現することは可能なのだということが分かったことが最大の収穫でした。

いやはや、今年は年初からいい本との出会いが立て続けに起きている。
今年の私は「なにかもってる」のかもしれない。
嬉しい!

Thanks Jenny!

Zero to One

「Zero to One」(ピーター・ティール著)を読了。

日立さんでの仕事の際に弊社の社員が熱烈に引用していて興味を持ちました。
読んでみてびっくり。

私は常々こう言ってきました。
「日本は資本主義国だということになっているけれど、日本人に資本<主義者>などほとんどいない(まだ会ったことがない)。」

この本を読んで、彼の国にはやはり資本主義者が存在していて、それでもそれは少数者なのだ、ということが分かりました。
単なる資本制生産従事者とイデオロギーとしての資本主義信奉者とでは勝負にならない。
迫力が違いすぎる。

「何かを創造する行為は、それが生まれる瞬間と同じく一度きりしかないし、その結果、全く新しい、誰も見たことがないものが生まれる。」

「他の生き物と違って、人類には奇跡を起こす力がある。
ぼくらはそれを『テクノロジー』と呼ぶ。」

「未来とは、まだ訪れていないすべての瞬間だ。
でも、未来がなぜ大切なのかといえば、それが『まだ訪れていない』からではなく、そのときに『世界が今と違う姿になっている』からだ。」

「マクロレベルの水平的進歩を一言で表すと、『グローバリゼーション』になる。
ある地域で成功したことを他の地域に広げることだ。
中国はこれを国家ぐるみで行い、20年計画で今のアメリカを目指している。
(中略)
ゼロから1を生み出す垂直的な進歩を一言で表すと『テクノロジー』になる。
(中略)
1971年以来、グローバリゼーションは急速に進んだけれど、テクノロジーの進歩はほぼITの分野だけに限られている。」

彼は競争よりも独占(クリエイティブな独占)を目指すことを勧め、事業とは利益ではなくレント(超過利益)を生みだすようなものでなければならないとする。

会社の採用面接で彼が必ず訊く質問。
<賛成する人がほとんどいない、大切な真実とはなんだろう?>

この質問は次のものと等価だ。
<誰も築いていない、価値ある企業とはどんな企業だろう?>

こういう問いに自ら答え、それに挑もうとする者が<ゼロを1にする>ことができる。
と彼は言います。
ね、元気が出るアジテーションでしょ。

しかし、彼のこういう熱い確信は単なる科学信仰や進歩思想のようなお気楽な楽天主義から来ているのではないことが最終章で明らかになります。

これからの世界の未来について彼は4つの可能性を示唆します。
A:繰り返される衰退(循環)
B:プラトー(成熟社会への到達、もしくは世界の再中世化)
C:絶滅
D:テイクオフ

彼の展望はこうです。
「希少な資源をめぐる競争がこれに加わると、世界的な横ばい状態(B)が永遠に続くことは考えられない。
競争圧力を和らげる新たなテクノロジーがなければ停滞(A)から衝突に発展する可能性が高い。
グローバルな規模での衝突が起これば、世界は破滅(C)に向かう。
そうなると残されるのは、僕たちが新たなテクノロジーを生み出し、はるかにいい未来へと向かう、4番目のシナリオ(D)だ。
中でもいちばん劇的なケースが『シンギュラリティ』と呼ばれるもので、これは、現在の自分たちの理解を超えるほどの新しいテクノロジーがもたらす、特異点のことだ。」

「未来が勝手によくなるわけはない。
ということは今僕たちがそれを創らなければならないとういことだ。
宇宙規模のシンギュラリティを達成できるかどうかよりも、僕たちが目の前のチャンスをつかんで仕事と人生において新しいことを行うかどうかの方がよっぽど大切だ。
(中略)
今ぼくたちにできるのは、新しいものを生み出す一度限りの方法を見つけ、ただこれまでと違う未来ではなく、よりよい未来を創ること―つまりゼロから1を生み出すことだ。
そのための第一歩は、自分の頭で考えることだ。
古代人が初めて世界を見たときのような新鮮さと違和感を持って、あらためて世界をみることで、僕たちは世界を創り直し、未来にそれを残すことができる。」

ホイジンガは「朝の日の影に」のプロローグの中で、「自分はみなが言うようなペシミストではない、むしろオプティミストなのだ」というようなことを謂っています。
その伝で謂えば、ピーター・テールは「オプティミストなんじゃなくて、ペシミスト」だからこそこういう威勢のいい、熱い本を書いたということなんでしょう。

その意気やよし!
彼のアジテーションにしばらく乗って思考してみようと思います。

Thanks Peter!

「櫛挽道守」

「櫛挽道守」(木内昇著)を読了。

同じ木内さんの作品「ある男」を以前に読んでたいへん感心した記憶があって、今度、「櫛挽道守」で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞のトリプル受賞の報に接して、急遽購入。
暖機運転も兼ねて、直木賞受賞作の「漂砂のうたう」をまずは文庫で読んで、「櫛挽」に進むという二段階方式で臨みました。

「漂砂」が明治維新直後の江戸の色町を舞台にした物語であるのに対して、「櫛挽」は江戸時代末期(黒船到来の頃)の木曽の櫛挽き職人の物語。
前者が士分の次男坊から色町の客引きに身を落とした男の話であるのに対して、後者は櫛挽職人の家に生まれ父のその業に魅了されてその跡を継ごうとする娘(長女)の話。
こう要約してみると両者があわせ鏡のようになっているのが分かります。

「漂砂」についてにあまり感心しませんでしが、「櫛挽」には「やられた!」と思わされました。
女と男、恋と結婚、仕事と生活、個人と家族、家族とコミュニティー、地方と中央、日本と世界、経済と政治、変革と伝承・・・・といった様々な二項対立的な物語のコードが最後に一つに収斂して、物語的昇華に至る。

そして、その全体のパースペクティブの消滅点の位置に「仕事」がある。
「櫛を挽く」という「仕事」が、ひとつの「道」として。

久しぶりに、「カタルシス」なんて死語を思い出してしまいました。
トリプル受賞も納得。

橋本治がどこかで(確か、「『分からない』を方法化する」だったと思います)でこんなことを言っていた、そのことを思い出しました。

「人は遊びじゃ成長できない。
人を成長させるのは仕事だ。」

私はこの橋本さんの言葉が好きです。
そしてそう思うからこそ、企業の人材育成を自分の「仕事」にしています。

もちろん、ここでいう「成長」というのはもちろんGDPの数字があがっていくことじゃあない。
ここでいう「仕事」というのは資本制生産を前提とした産業主義的なそれに限らない。

「櫛挽道守」を読んで改めて、やはり「仕事」っていうのは素敵なものだという信念を新たにすることができました。

木内さんに、感謝!
そして
Love & Work!

「体の知性を取り戻す」

「体の知性を取り戻す」(ユン・ウンデ著)を読了。

身体論系の本は大好物でいろいろ読んで来ました。
野口晴哉さん、竹内敏晴さん、甲野善紀さん、高岡英夫さん、内田樹さん。

こうした実践者、書き手は皆、私より年長の方たちでした。
甲野さんの弟子筋にあたるユンさんのこの著作を読んで、初めて自分よりも若い世代から身体論的な啓発を受けることができました。
とっても愉快!

ユンさんは「概念」という言葉を「しなければならないこと」と訳します。
そしてその「しなければならないこと」と現実との差異を否定的に自覚することを「実感」とし、それを梃子にしてあれこれ工夫する、そういった努力や進歩の筋を丸ごと否定します。

例えば、<立つ>とはただ立つことであり、<手を挙げる>とはただ手を挙げるということであるのですが、<ただ立つ>、<ただ手を挙げる>といったことが如何に難しいか。
<立つ>ことがいつのまにか、というかはじめから、「立つ」といった概念をなぞるような営みになってしまっている。
<手を挙げる>ということがいつのまにか、いやはじめから「手を挙げる」といった概念をなぞる所作になってしまっている。

原初の日本語が独自の文字と概念を生み出す前に、日本語は中国文明(の文字と概念)に触れてしまい、それゆえに日本語の体系において概念的思考は常に外国語(当初は中国語、後に欧米語)を借りて行うことになってしまいました。
日本語の独自の概念は「わび」とか「さび」とかいうような美学用語に僅かに存在するだけで、他の分野の概念は皆、外来語です。
私はそのことに日本語で思考する者としてある種のコンプレックスを持っていました。

しかし、ユンさんの指摘を経て、「概念」化された思考とは別の「体の知性」を使った「体の思考」というようなものがあるのかもしれないと考えるようにりました。
もしそうなら、日本語を思考言語としてもっているということには稀有なアドバンテージが潜んでいるのかもしれない。
<心で欲望し、頭で理解し、体で動く>ということ、つまり統合的に(魂として)生きるということの端緒に改めてつけた思いです。

いやはや、60年生きてきて、生きることの最も基本のツール(体と言葉)について若い世代からこんなにも根本的な啓発と問いを投げかえられるとは。
次の言葉を吐くにはまだちょっと早いのですが、これからもずっとこういう感慨を重ねて行きたいものだと思います。

<長生きはしてみるもんだ>

ユンさん、感謝!

http://nonsavoir.com/book20140918.html

「人類が永遠に続くのではないとしたら」

「人類が永遠に続くのではないとしたら」(加藤典洋著)を読了。

ここのところしばらくこの本にかかりきりになっていました。

読み出すと止まらない、けど読み進めるのがもったいない、と同時に決して早くは読み進められない、頭が疲れて長くも読んでいられない、けど頭を休めて早く続きが読みたい・・・・、といった身もだえするような読書体験を久々に味わいました。

私が長年読んできた本の書き手はだいたい次の3グループの方々です。

1:加藤典洋、内田樹、芹沢俊介といった吉本隆明の系譜に属する人たち

2:見田宗助、大澤真幸、橋爪大三郎といった小室直樹の系譜に属する人たち

3:柄谷行人、中沢新一といったポストモダンの系譜に属する人たち

1と2の人たちは類似の主題を繰り返し扱いながら、相互に言及しあうことがない。

1の吉本キッズたちは3の柄谷さんへの否定的評価を繰り返し口にしてきた。

3のサイドからも、1や2のグループの成果は無視されているように見える。

しかし、互いに牽制し合っているように見えるこの3グループの方たちの全部を私は好ましく思う。

それはなぜなのだろうか?

他にも、

敬愛する吉本隆明が最晩年に「反・反原発」の立場に立ったことの意味を私はいったいどう理解すべきか?

エコロジー派の人たちの「反・成長」志向に対する私の若干の違和感はいったいどこからやってくるのか?

といった積年の問い。

こうした一群の問いに対して、この本から答えを得ることができました。

というか、それらの一群の問いが内的に関連性のある、実は一連の問いだったのだということについて合点がいきました。

自分自身では正確には言葉にできずにいたけれども、私の知的興味はそれなりの内的一貫性をもったものだったのだということが確認できたというわけです。

うれしい!!

加藤さんは何かについて論じる際に、その何かについて論じることに加えて、自分がそれについて論じる、つまりそのテーマに惹かれる、そのテーマから逃れられないのはなぜかといったこと、そうした<自分のこと>を書きます。

そのことによって読み手はその何かに加藤さん自身がどのように含まれているか、含まれていると加藤さんが考えているかが分かる。

それが加藤さんが「僕が批評家になったわけ」の中で自ら明らかにした彼の<批評の流儀>です。

その流儀がこの本でも見事に貫かれている。

その味わいがなんともすばらしかった。

論考そのものは暗い現実(311をスタートにして)を対象としているにもかかわらず、その論旨は新しい<希望>を指し示めさんとするものです。

その理路は決して単純ではなく曲折を交え、迂回を経たものではあっても、結論においてその願いは成就している。

しかし、さらににもかかわらず、その文章の背後にはある種の「死の影」が終始潜み伏流している。

それがどこから来るものかを読者はそのエピローグを読むときに了解することになります。

そしてやはり、彼の<批評>は<思想>であるよりも<文学>なのだということを知る。

最後に橋爪大三郎さんが日経の書評欄でこの本を取り上げて最大級の賛辞を捧げたあと、文末で述べた次の文章を引いておきます。

「実を言えば私(評者)は加藤氏ほど、この衝撃を深く受け止められない。3.11をはるかに上回る破局が起こるような気がするからだ。それはともかく、この時代の困難をどこまでも深く掘り下げる書物が現れたことを、読者と共に喜びたい。」