月別アーカイブ: 2012年2月

『痴呆老人』は何を見ているか?

「コミュニケーションという名詞には、コミュニケートという英語の動詞が対応しており、ラテン語のコミュニカレに由来します。

これには情報を共有する、という現代人が理解する意味と同時に、「共に楽しむ」という古義があり、「楽しい」という情動を共有するという含意があります。」
(大井玄、「『痴呆老人』は何を見ているか」より)

週末に同著を読みました。
最近の認知科学の成果や哲学、仏教(唯識論)などを総動員して、非認知症の人と認知症の人の間の<連続性>について論じています。

痴呆(大井さんは認知症という言葉をあえて使いません)には、アルツハイマーのような「脳組織変性」のものと、脳溢血の後遺症のような「脳血管性」のものとがある。
認知能力の低下という「主症状」と、うつ状態や妄想・幻覚・夜間せん妄などの「周辺症状」とは区別されなければならない。
そうしたことが、よく整理されていて納得感が高かったです。

そして周辺症状のない「純粋痴呆」は、老いの過程であって<病ではない>(老いは病ではない!)こと、周辺症状は周囲とのコミュニケーションによって緩和、縮減、無化されうるものであることが説明されています。
そこで、上のようなコミュニケーション論が展開されます。

だからこそ、介護に当たる周囲の者が「痴呆老人が世界をどう見ているのか」を知らねばなりません。
そして、それは非認知症の普通の人々が、自らが世界をどう認知しているかを知ることに繋がっていきます。
そこにある種の「連続性」が発見できたときに、両者の間にコミュニケーションが立ち上がる。
そしてそれが認知症患者に「周辺症状」の緩和をもたらす。

大井さんはこうも言います。
「痴呆状態にある人と心を通わすとは、記憶、見当職などの認知能力の低下によって彼らに生じる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、心穏やかな、できれば楽しい気分を共有することです。
そのためには、細かい行動学的観察に基づく個別化された接近方法が必要ですが、しかしまず、自分は彼らと連続した存在であり、彼らは実は『私』であるということを確信しなくてはなりません。」

この「彼らは実は『私』であるということを確信」するために、単なる思いやりや愛といった道義が説かれるではなく、主には認知科学が動員されています。
認知症でない我々も、いかに不完全な認知能力をやりくりして現実(世界)と折り合いをつけて生きているか、そのことがよく分かるような仕方で。

後半の「私とは何か」という章も読ませます。
「私はもう私ではないが私である」という「自己の現象学」。

①の私は、過去から現在までの経験を閲覧し、それによって変化し、過去現在を総括し、しかも未来という時間性にある私。
②の私は、大病を患う以前の健康に恵まれた私―健康に担保される諸能力は多分に利己的な目的に用いられる。
③の私は、病によって常識的な意味での健康と利己的な意味での能力を失ったが、それでも他者や社会に対し、本来の繋がりがあることを主張する私―そこには社会的有用性の自覚があるが、もはや利己的意図を削り取り、面目を一新した能力的装いがある。
と大井さんは説明します。

ところどころ、嫌米的で、日本賛美的な議論に流れるところが疵ですが、それもまた著者の「認知」の正直な発露なんでしょう。

両親にも、弟妹たちにも読ませたい本です。
皆様にもお勧めします。

日産の会議

「すべては一人一人の意欲から始まる」
(「日産Way」より)

「日産 驚異の会議」という本を読みました。
「会議は問題解決のツールである」という認識から出発して、

従来の会議がそのようなものとして機能していない現実を認め、そこで「会議プロセスを新たに開発する」ことにする。
その新たに開発された「会議プロセス」が紹介されています。

プロセスの中身についてはここでは解説しませんが、わたしが「会議コンサル」で言ってきたことと重なる部分について、わたしの側が発信してきたキーワードを二つだけ紹介させてください。
<会議の外部と内部を定義する>
<発言と意見と決定を区別する>

プロセスそのものも秀逸ですが、「新たに開発しなければならない」という気づきがなにより大切だったのだろうと思います。
「失敗論」の文脈に置き換えると、失敗を成長につなげるためにはどうしても次のことがまず認識されねばなりません。

1:失敗した(している)と認める
2:その失敗は自分の失敗であると認める
3:自分の失敗の原因は自分が発見し、自分が改善しなければならないと決意する

これはタフな要求のようですが、実は現実的で積極的な覚悟です。
過去と他人は変えられませんが、未来と自分は変えようがあるからです。

ゲーミフィケーション

「すでにゲームはあるじゃないか。
そう言う人はいるだろう。
間違っていない。
確かにゲームはすでにある。
しかし、そこにはゲームが「ある」だけなのだ。
われわれはそのゲームを必ずしも楽しんでいない。
積極的に、意欲を持って参加しているわけではない。
いくつかのゲームはリセットしてやめることもできない。
目の前に存在するゲームは簡単に変更することができないのだ。」
(井上明人、「ゲームフィケーション」より)

先日NHKの「クローズアップ現代」でゲーミフィケーション(Gamification=ゲーム化)の特集をやっていてたまたま観ました。
題して「ゲームが未来を救う」。
日本でゲームといえば「遊び」としてのそれしか連想しませんが、欧米ではもっとビジネスよりの場所で活用されているらしい。
ちょうど、直前にシリアスゲーム(Serious Game)というゲームの領域についても見聞する機会があったこととも重なって、「なるほど」感、充溢。

http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3147&html=2

そしたら、そぐにこの本がTUTAYAで平積みになっているのを発見。
早速購入。

すばらしい本でした。
優秀で志ある若い書き手と出会うのは気持ちのいい経験です。

彼はこういう未来像を描いています。
「もしも、会社で働く同僚たちに、5時で退社することを共有してもらえるようなゲームを機能させることができたら?
たとえば、5時になって、子育てをしている同僚を退社させることに失敗したら、全員が「失敗した!」と落胆することができたなら?
もしも5時に帰えることをニコニコと共有できるようなゲームを設計することができるようになったら?
子育てがある同僚に5時に退社してもらうために、チームが協力するゲームは作ることができるだろう。
子育てと業績アップの両方が全員の中に自然に共有できるようになれば、それは望ましいことではないだろうか。」

そのためには「ゲームを設計する権限をよりオープンにしていくこと」が必要だという指摘もアッパレ!
いい本です。
是非、ご一読を。

「たらいの水の原則」

「当社の経営理念は『たらいの水』の原理です。
たらいに張った水に両手を入れ、

これを自分の方に引き寄せようとすると、反対に向こうの方に逃げます。
しかし、水を向こうの方に押すと、今度はこちら側に流れてきます。
お客様や社会が喜ぶ努力をすればするほど自分に利益が帰ってくるのです。」
(若林克彦、日経「人間発見」欄より)

若林さんは、ハードロック工業という会社の創業社長。
「ゆるまないねじ」を作っている会社です(Hard Rockをやってる会社ではありません)。

こうも言っています。
「世の中の商品はすべて未完成だとみなし、どうすれば便利になるかと模索する。」

「すべて未完成」というところがいいですね。