月別アーカイブ: 2015年5月

一羽のスズメから学ぶということ

「ある小さなスズメの記録」(クレア・キップス著)を読了。

クレアはある日、おそらく体の障がいのゆえに親によって巣から落とされてしまったスズメの雛を拾います。
まだ目の開いていなかった雛は最初に見たものとしてクレアに出会い、クラレンスと名付けられます。
それから12年と7週と4日の間、二人は戦中、戦後の苦楽を共にします。

たった一羽のスズメを育み、共に暮らし、彼から学ぶといっただけのことがクレアの人生にいかに豊穣なものをもたらしたか。
彼女の経験に気持ちのいい嫉妬を終始覚えながら読みました。

例えば、彼女がクラレンスの老いの姿から学んだことを語るこの部分。

「小鳥がこれほどまでに老衰と闘う姿は始めて見た、と、動物の軍医どのは、次から次へと続く驚きの連続の中で言った。
『カナリヤやセキセイインコなら、とっくに死んでますよ。』
しかし、不屈の意志をもったこの私の相棒は、決して降参しなかった。
屈する代わりに、ますます自由が利かなくなっていく状況に自分を適応させ、愚痴をこぼすことも(明らかに)なく、何か違うという思いをもつことも(おそらく)なく、味わえる限りの生の喜びを享受し、精一杯の活動を楽しんだ。
我々老いゆく者に対するなんという教えであろう。
若い人なら簡単にできるような、今まで日常的にやっていたはずの仕事をこなそうと延々と時間を費やして苦労するなんて、なんと馬鹿げたことであろうか。
そんなことをやっている間に、経験のある老人でなければできないような慰めや理解を、若者たちにあげることができるのに。」

こんな奇跡的な偶然が写真に撮られたこともあるといいます(写真は実際に本に掲載されています)。

「『日々の読書』と題した写真に関して、特筆すべきと思われる偶然の一致がある。
その写真は、『日々の光』という小さな礼拝用の古典の、あるページを、彼がまるで物思いにふけっているかのように、静かに見つめている姿を写したものだ。
『日々の光』という本は、ただそのサイズが適していたために選んだだけで、いろいろ積み上げてあった中から取り、そのときの勢いで無造作にページを開いたものなのだが、後に現像されてみると、彼の小さなくちばしのさしている文章が次のような箇所だったことが判明した。
『スズメ二羽はまとめて一銭で売っているほどのものである。
しかしそういうスズメの一羽ですら、主の許しなしでは、地に落ちることもかなわないではないか(マタイ10章29節)。』
(中略)
これはいわば、彼の短い説教であり、懐疑と不安に満ちた人類への別れのメッセージとも思われる。
そういうものとして、私はこれを記そう。
『しかるに怖るるな!
汝らは多くのスズメにもまして価値あるものである(マタイ10章31節)。』」

英語の原著を取り寄せて読んでみたくもなりました。
この邦訳版をプレゼントしたい友人たちの顔も何人か思い浮かびます。
そして、なにより鎌倉の実家の両親にこの本を「読み聞かせ」してあげたい。
そんな幸福な読後感をもたらした本でした。

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河合隼雄さんのこと

しばらく前の日経の夕刊に若松英輔さんの「一対一」と題するエセーが載っていて、河合隼雄さんのことが書かれてありました。
こうあります。

「彼は、意識の奥に『たましい』と呼ぶべきなにかがあるとしばしば語る。
それは狭義の学問としての深層心理学だけでは辿り着くことのできない場所であるとも述べている。
(中略)
『たましい』の働きにふれ、彼は次のように書いている。
『人間関係を個人的な水準ではなく、非個人的な水準にまで広げて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものでありますが、『かなしみ』というのが適切と感じられます。
もっとも、日本語の古語では『かなし』に『いとおしい』という意味があり、そのような感情も混じったものというべきでしょう。』」

「かなし」にはどんな字をあてるか。
「愛」は名詞としては音読みで「あい」ですが、訓読みで、動詞としては「めでる」、「いとおしむ」、形容詞としては「かなし」と読める、と聞きました。
つまり、「かなし」とは日本人の古層における「愛」なのだ、と思いたい。
ここ、つまり「愛」=「かなし」にこそ、日本人の「非個人的水準」における「たましい」がある。
そして、その古層において、日本人はやはり「普遍」(愛という普遍)に繋がっている。

最後の部分がまたいいんだ。

「治療者は、クライントと一対一で会う。
眼前にいる人は、日常生活の中で、ある試練に直面している。
現代社会には同様の日々を送っている人物は少なくない。
この人もそのうちの一人だと考えることもできる。
しかし、自分にはそう思えない。
どのクライアントに向き合うときも、必死に今を生きようとする人類の代表者として会う、彼はそう語った。」

まいったな~。

「初秋」

「初秋」(ロバート・B・パーカー著)を再読。

パーカーのスペンサーシリーズは全巻もっています。
中でも一番のお気に入りはこの「初秋」。
なんど読んだか分からない。

両親にネグレクトされて育ったポールをスペンサーが保護し、彼の自立を支援するというお話。
その自立のためのプログラムは次のようなものです。
1:田舎の土地に連れて行って、二人でセルフビルドで家を建てる
2:その合間合間にウェイトトレーニングやランニングをしてポールの身体を鍛える
3:ちゃんとした料理を作って食べさせる

田舎暮らし、セルフビルド、ウェイトトレーニング、ランニング、料理―これって全部私がやってる、やろうとしていることじゃないか!!
今回再読してみてそのことに改めて気付きました。
これほどまでにこの本にインスパイヤされているとは思っていなかった。

「彼(ポール)はただぼんやりと私を見ていた。
家は人が建てるものであることなど、一度として考えたことがないのだ。
家は建築会社が建てるものであり、時には自然に出現するもの、と思っている。」

もう、そのまま竹内ユウさんやDee Williamsさんの台詞みたいでしょ。
こういうのもあります。

「得意なことが何かということより、得意なことがあるということの方が重要なんだ。
おまえには何もない。
なににも関心がない。
だからおれは、お前の体を鍛える、丈夫な体にする。
10マイル走れるようにするし、自分の体重以上の重量が挙げられるようにする。
小屋を造ること、料理を作ること、力いっぱい働くこと、苦しみに耐えて力を振りしぼる意志と自分の感情をコントロールすることを教える。
そのうち、できれば、読書、美術鑑賞や、ホームコメディの台詞以外のものを聞くことも教えられるかもしれない。
しかし、今は体を鍛える、いちばん始めやすいことだからだ。」

私の場合、10マイル(16キロ)以上走れるし、自重以上の重量を挙げられる。
料理も作れるし力いっぱい働き、力を振り絞ることの快感も知っている。
となると、あとはやっぱり「小屋造り」だな。

「目の見えない人は世界をどうみているのか」

「目の見えない人は世界をどうみているのか」(伊藤亜紗著)を読了。

目の見えない人もある意味で「見ている」。
例えば、彼らが「点字」を使って読むとき、そのときに使われている能力は「触覚」ではなくて、「読む」能力であって、それは「見る」ことに近い。
実際、脳科学的にも、点字の処理は「見るための場所」で行われている。
そのことから逆に見える人にとっての「見る」ことの意味が明らかになる。
つまり、見える人もまた「見る」ことにより、「読む」ことをして見ている。
「見る」とは「視覚」の機能ではなくて、「読む」という身体全体が行っている「仕事」に対する名前なのだ。

見える人に見えてているものが見えない人には見えていない。
つまり、見えていない人には「情報」レベルでの欠損が存在する。
見える人はそう考える。
そして、その欠損を補うこと、そのために見える人が見えない人に対して与えるもの、それが「福祉」の名で呼ばれているものです。

そうした「福祉」の重要性を認めつつも、著者は「情報レベル」の非対称性の克服といった「福祉」のアプローチとは別の、「意味レベル」の差異に注目します。
そして、見える人と見えない人の間の「意味」の訪れの差異を理解するために、見えないとい人の経験に対する「健全な好奇」(面白がること)を勧める。
そのためには、見えない人の身体に「変身」することを推奨している。
この本はその「変身」のレッスンのための本だとも言える。
だから著者はこの本を「身体論」の本だと位置づけているのです。

見えない人と著者が大岡山駅で待ち合わせ、著者の研究室がある東工大のキャンパスまで一緒に歩いていたときのこと。
見えない人=木下さんはこういう。
「大岡山はやっぱり『山』なんですね。」
このとき、著者はこう気付きます。

「私にとってそれは、大岡山駅という『出発点』と、西9号館という『目的地』をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばもう忘れられてしまうような、空間的にも他の空間や道から分節化された『部分』でしかなかった。
それに対して木山さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で全体をとらえるイメージでした。
(中略)
見える人にとって、そのような俯瞰的で3次元的なイメージを持つことは極めて難しいことです。
(中略)
目に飛び込んでくるさまざまな情報が、見える人の意識を奪っていくのです。
(中略)
私たちはまさに『通行人』なのだとそのとき思いました。
『通るべき場所』として定められ、方向性を持つ『道』に、いわばベルトコンベアのように運ばれていく存在。
それに比べて、まるでスキープレーヤーのように広い平面の上で線を引く木下さんのイメージはより開放的なものに思えます。」

このような他我の経験の差異に対して開かれた構えをもつこと、それはとても素晴らしいことだと思います。
そうした構えは見えない人と見える人の間にだけ必要なのでも有効なのでもない。
もっと普遍的な力をもった構えだと思います。

すべての人がそれぞれに自分自身の<環世界>を生きている。
つまりそれぞれ別の「意味的世界」を生きている。
その差異に想像力を働かせる。
相手の身体に「変身」し、「他者の身体を生きてみる」といったほどに想像力を働かせる。
そうするときに初めて私たちはそれぞれ「他者に出会う」ことが出来る。

それってつまり<愛>ってことですよね。

Love & Work!