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中国の濃度

しばらく日本に帰国していて、最近再びプノンペンに戻りました。カンボジアに限らず、東南アジアは12月から2月にかけてがベストシーズンで、 HOT,HOTTER,HOTTESTと三つあるシーズンのうちのHOTシーズンになります。とはいえ、今年はなかなか涼しくならず、現地の人たちは「こ んなの初めてだ!」といっています。地球は温暖化しているといいますが、熱帯がさらに温暖化したら、熱帯でなくて灼熱帯になってしまいますね。人間という 生命体は上は45度Cの環境下でしか生存できないそうですから、HOTTESTシーズン(4月)には42度になるカンボジアあたりは、すでに生存限界に近 いのかもしれません。

先日、噂に聞いていたある光景をとうとう目にしました。<点滴をしながらバイクに乗っている人>というものです。しかも、そのバイクは4人乗りで、 一番後ろに乗っていた女性が赤ちゃんを抱え、多分その赤ちゃんが点滴中で、二人目(運転手の後ろにいた人)が点滴パックをつるした竹の棒を持っていまし た。灼熱の太陽の下、渋滞の中をそんなバイクが走っていきます。点滴液が沸いてしまわないか心配!

さて、今回のお題は「中国の濃度」。しばらく日本にいた間に、日本社会の中における中国(人や情報)の濃度がとても濃くなったと感じました。その印象について書いてみたいと思います。

今回、東京の銀座の八丁目にしばらく宿をとったので、毎日のように銀座界隈を歩く機会があったのですが、行き交う人々が中国語を話しているというこ とがとても多かった。しかも、一時のように一見中国人と分かる人々が団体で往来しているというのではなく、カップルや家族連れが日本人に紛れてそこここに いる。言葉を聴かなくては分からない。そんな感じ。

ちょうど世界バレー(バレー・ボール)をやっている時期でしたが、日本のエースが最近帰化した元中国籍の小山修加さん。*1)彼女のバックアタック をTVで観て、バレーボールは格闘技だなとつくづく感心しました。アスリート同士のゲームというより、格闘家同士の闘いという感じ。凄いですねー。

そんなこんなの東京での滞在期間中、たまたまなんですが、「泣きながら生きて」というTV番組を見ました。*2)フジテレビが放送したドキュメンタ リー番組で、日本に違法滞在している中国人の生活を10年も追ったもの。筋は次のようなものです。 主人公の丁尚彪(てい・しょうひょう)さんは、上海出身の中国人で、貧しい家で育ちました(母親は字を読めなかった)。彼は高い教育を受けてそうした境遇 から脱することを夢見ていましたが、ちょうど学齢期に文化大革命があって、下放政策で地方にやられ、教育の機会を失ってしまいます。文化大革命終息後、同 じく下放されていた女性を結婚して上海に戻り、一女をもうけますが、貧しい暮らしから抜け出せません。

あるとき、彼は日本のある大学の募集要項をたまたま手に入れ、「大学に行く」という夢に掛けてみようと思い立ちます。入学のための費用は42万円、 夫婦の収入の15年分に相当します。一族郎党から借金をしてなんとかそれを工面し、彼はとうとうその<日本の大学>に旅立ちます。1989年のことです。

しかし、その<大学>は北海道の阿寒町の***字番外地なるところにありました。村が炭鉱の閉山後の村おこしのために無理やり作った大学で、校舎は 廃校間直の中学校の校舎、宿舎は炭鉱労働者が使っていた町営住宅、といったものでした。丁さんをはじめとした中国人留学生は、日本に来て勉学の傍ら、その 後の授業料、生活費、謝金の返済のためにアルバイトをするつもりでいました。当然のことならが<番外地>にアルバイト先があるはずもなく、彼らはその地を 逃げるように去り、都市に移っていきました。留学ビザは更新されるはずもなく、その後丁さんは滞在者となって、東京に住むことになります。

東京での彼の生活は壮絶なものです。早朝の仕事、昼間の仕事、夜の仕事と三つの仕事を持ち、終電が通ったあとの線路を歩いてアパートに帰ります。ア パートでは台所の湯沸かし器からのお湯で頭を洗い、その後ポリバケツの中で体を洗います。「風呂の付いているアパートは2万円は高くつく。その分、多く仕 送りした方がいい。」と、彼は言います。不況の中でも仕事があることを感謝し、また今後も仕事にあぶれないために多くの資格をとっています。TVの画面上 では、目力があり、強健そうに見えますが、無理は歯に来ているらしく、ほとんどの歯が差し歯になってしまいました。

彼がそれほどまでに働いて仕送りするのは、上海で待つ家族の、とくに娘の学業のためです。自分が日本で大学を出て中国に戻り貧しい暮らしから抜け出 すという夢は諦めたものの、それを今度は娘に託そうというのです。彼女をアメリカの大学にやりたい、その一念で彼は働きます。「人生はリレーみたいなもの だ。自分は親からバトンを渡された。次に子供にそれを渡す。そのときまで、懸命に、懸命に走る。それだけだ。」と、彼は言います。

しかし、その彼の思いを上海の家族は必ずしも完全には理解していません。大学に行って4年で卒業して帰ってくるはずだった夫・父親が、仕送りはして くるもののいっこうに帰ってこない。妻は、「日本に女でもできたに違いない」と考えます。そして、夫からの仕送りにはいっさい手をつけずに自分もまた懸命 に働きます。

そんな家族の下に、1997年、取材班が撮りためたVTRを持ってやってきます。そして、夫・父親の日本での様子=仕事、暮らし、家族への想い、を見せます。そして、泣く。「こんなに苦労しているとは思わなかった」

娘は言います。「親が子供のためにこんなにも犠牲を払うというのは決して正しいことではない。私はそう何度も言った。でも両親は止めない。であれ ば、自分はその期待にこたえるよう励むしかない。」かくして、彼女はアメリカのNYの名門大学の医学部に合格し、渡米します。そして、そのアメリカ往きの 飛行機が成田を経由する、その時に24時間だけの入国許可が与えられる。そして、彼女は父親との8年ぶりの再会を果たします。

父は娘を自分のアパートでもてなし、また自分の元の職場に連れて行き、昔の同僚に紹介します。「日本人は本当によく働く。中国人は日本人に学ばなけ ればいけない。」と、彼は言います。別れのときが来て、二人は京成線で成田空港を目指します。でも、父は空港のひとつ手前の成田駅で下車しなければならな い。空港では身分証のチェックがあるからです。

二人並んで座る列車が成田駅のホームに着きます。父はさっと立ち上がり、右手を「じゃあ・・」という感じでちょっと振って、列車を降りてしまう。娘 も振り返ってホームの父を見ることもしない。扉が閉まり、列車が動き出す。その刹那、娘がチラッとホームに立つ父を見る。列車がホームを離れ、二人の距離 が閾値を超えたとき、二人はそれぞれの場所、ホームで、列車で、肩を震わせて泣く。

二人の再会の後、今度は妻・母がアメリカの娘を訪ねるために渡米します。そのときも経由地である日本での滞在が、今度は72時間許可される。そこ で、今度は夫婦が再会を果たします。夫はハトバスのパンフレットを持っている。そこには代金が8000円と書いてある。夫は、ハトバスの一日観光コースの 行き先をメモに取り、電車や都電・都バスなどを使ってそこを回ります。

そして再び別れの時が来ます。そこから先は娘のときとまったく同じ。まるでデジャブーのよう。二人はそっけなく別れ、そしてそれぞれの場所で泣く。 肩を震わせて。まさに、「泣きながら生きて」です。夫は言います。「妻には本当に苦労をかけた。」妻は言います。「夫を疑って悪かった。歯があんなに悪く なってしまって、どんなに苦労したかが分かる。」

娘は無事卒業し、インターンとして働き始めます。夫・父は今度こそ、帰国する決意をします。しかし、その前に、是非とも見ておきたいところがあると 言う。それはあの阿寒の地でした。スーツを着て、自転車を漕いで、彼は彼の地を回ります。学び舎だった中学の、今は廃校となった校舎。宿舎だった元町営住 宅。それぞれに場所で、誰と会うでもなく、その地に対して、彼は深々と頭を下げる。そして、こう言います。「あの時は本当申し訳なかった。でも、どうしよ うもなかったんです。きっと大きな迷惑をかけたにちがいない。すみませんでした。」

日本の地を後にするときも彼は、機内から見える日本の地に対して手を合わせ、涙を流して言います。「日本には本当にお世話になった。ありがとうございました。」

次いで上海の妻のシーン。少し広くなった印象の、たぶん新しい家の中で、妻が料理を作っています。「あの人は歯が悪くなってしまったから、軟らかいものを作りました。」なべには粥が湯気をあげています。

最後にアメリカの娘のシーン。娘は再び言います。「親が子供のためにこれほどの犠牲を払うことは正しくない。今でも、私はそう思う。でも、その結果 こうして私は高い教育を受けることができた。その恩は言葉では言い表せない。だから、それを私は次の世代の子供たちに向かって返していく。」彼女は小児科 医になっていました。

ううーーん、「泣きながら生きて」というより、「泣きながら観て」という感じの2時間でした。後で友人たちに何度もこの番組の話をしました。その度に泣いてしまう。今、こうしてこれを書いていても泣けてしまってしょうがない。マイッタ!

プノンペンでも、ある中国人医師に言われました。「ここに住む中華系カンボジア人はどうしてここに住むようになったか知っているか?中国人は拝金主 義で、金儲けのために進出してきたんだと思っていないか?でも、それは違う。東南アジアに中国人が大量に流出したのは20世紀には2度あった。1929年 と39年。29年の時は、中国の内乱のあおりで難民化した人たちが南下してきた。39年の時は、日本との戦争で難民化した人たちが再び南下してきた。タ イ、マレーシア、カンボジアに今住む潮州人や福建人たちはそういう人たちだ。」

東京に滞在中しばしば通った築地の場外売り場の食堂でも中国人をよく見かけました。贔屓にしているホルモン煮の「きつねや」さんに近い、ラーメンの **さんでラーメンを食べていると、そのとなりの日本蕎麦屋に中国人のカップルがやってきて、片言の日本語で日本蕎麦を注文しています。どうも、天ぷら蕎 麦をひとつ頼んでそれを二人で食べようとしているらしい。天ぷらだけ二つ入れてほしいと交渉している様子。店のおばちゃんは、二人で一つというのが気に入 らなかったのか、メニューにない注文が煩わしかったのか、不愉快そうな対応。「注文は一つなんだから、箸(割り箸)は一つだけにしてね。二つ使っちゃだめ よ!」

隣の店の露天のカウンターから見ていて、思いました。「中国人がわざわざ日本に来て、築地を訪ね、日本蕎麦を試そうとしているんじゃないか。そんな ケチクサイこと言わないで気持ちよく食べさせてあげろよ。」思うだけでなくて、直接そう言って、抗議すればよかった。後でそう思いました。TVを観る前の 経験でしたが、もし、観た後だったらそうしていたと思います。

そんなふうに、日本における中国の濃度が上がっているのを感じ、そして私の心の中の中国の濃度も上がりつつあるのを感じています。中国語、もっとちゃんと勉強しなくちゃ!

再見!

Love & Work !!

*1) http://www.tbs.co.jp/sebare/diary20060705.html

*2) http://www.fujitv.co.jp/ichioshi06/061103nakinagara/index2.html