月別アーカイブ: 2014年5月

「私は私になっていく」

「私は私になっていく」(クリスティーン・ブライデン著)を読了。

著者は46歳でアルツハイマーの診断を受け、3年後に前頭側頭型認知症と再診断を受けた方。
診断当時彼女はオーストラリア政府内で要職に着き、かつ9歳から20歳までの3人の娘のシングルマザーだった。
診断後(!)、大学に入りなおし、結婚し、認知症支援ネットワークを結成し、二冊の著書を執筆し・・・・(凄い!)。

最初の著書のタイトルが「私は誰になっていくの?」。
そして、二冊目のタイトルが「私は私になっていく」。

このタイトルに「ガツン」とやられてしまいました。
還暦を前にした私の目標も「私になる」というものです。
まさに「同志」を見つけた!という感じ。
しかも、その同志が認知症をもっておられるなんて!

認知症予防の本、認知症介護の本はいろいろ読んできました。
それらの本から学んだことは「我々人間は程度の差こそあれ皆、認知症だ」ということです。
だって、完全な認知力を持っている人などいないのですから。
この本は著者が認知症を患っている本人であるというところが私にとって新しかったのですが、「我々はみんな認知症」という感じは、確信に変わりました。

著者はこう言います。
「私たちは必死で話そうとしているのだけれど、文法も語法もめちゃくちゃな、支離滅裂な話になることが多い。
どうか、私たちが伝えようとしているその思いを汲み取ってほしい。
話を聞いてくれている、わかってくれているという感覚を得ることで、私たちは自分が尊重されている、あなたと繋がっていると感じるのである。
これが、脈略のない考えやバラバラになった自己と向き合っている私たちに必要なことだ。
(中略)
うまく言えないからといって、私たちには言いたいことが何もないわけではない。
私たちの考えや言葉はもつれ、こんがらかっているので、あなたは言語以外のヒントに注意して、聞き上手にならなくてはいけない。
(中略)
私たちが適切な言葉や文章を見つけようと苦心している時、それをすぐに言ってしまわずに、私たちが教えてほしいと思っているかどうかを確かめてほしい。
間違いを指摘せず、ただ私たちが何を言おうとしているかを理解しようと努めたほしい。
私たちが考ええているときは邪魔をせずに待ってほしいが、私たちが何かを思いついた時に、あなたの話をさえぎって喋ることをどうか許してほしい。
待っている間に自分の思いついたことが消えてしまうからだ。」

これは第3章「私たちがしてほしいこと 認知症とのダンスを踊るパートナーへ」の一節。
妻に読んで聴かせたら、「これは私の言いたいことそのものだ」と言われました。
そうじゃないかと思ったんだ。
それ以降、夫婦のコミュニケーションの次元が一段上がったように思います。
Thank you Chrisine!

認知症と診断されるとその瞬間から「認知症患者」になってしまい、ケアの「対象」になってしまう。
彼女はそのことと闘い、「自分は認知症患者ではなく、認知症を持つ一人の人間で」であり、ケアの「対象」ではなく、ケアする人のパートナーである。
自分は「認知症患者」ではなく、「認知症とダンスを踊る」者である。
だから、ケアする人には「共にダンスを踊るパートナー」になってもらいたい。
彼女はそう言います。

認知症そのものとの闘いに加えて、彼女が「認知症業界」とでもいうものと闘わねばならなかった。
しかし、その闘いが彼女を鍛え、結局それが彼女の新しい「使命」となっていく。
そして、その「使命」を介して、認知症よって「自分が壊れていく」のではなく、「自分になる」ことができるのだということを発見する。

2104年もまだ半分たっていませんが、この本は私にとっての今年の「Best1」間違いなしです。
今は妻が読んでます。
80歳を越え、認知症の影におびえる実家の両親にも読んでもらおうと思っています。

「働く。なぜ?」

「働く。なぜ?」(中澤二朗著)を読了。
まもなく、6月。
クライアント企業の新人研修も最後の1月になるところが多い。
6月末の〆のタイミングで総括のための研修に出講することになっています。
レジュメは完成しているのですが、受講者に読ませたい推奨図書を物色していてこれに遭遇しました。
日本型経営~人材育成についてオプティミックに過ぎる印象はありますが、立論は鋭いというよりも深く、なによりもテーマに対する著者本人の真摯な問題意識が伝わってくるところがいい。
つまりは、「働く。なぜ?」という問い、その?は著者自身の?でもあるということでしょう.
著者は見田宗介、小池和夫両先生の弟子筋にあたる方らしい。
私も両先生のファンです。
これも一種の「引き寄せ」でしょうか?
見田さんの戦後の日本社会についての有名な分析。
<理想の時代→夢の時代→虚構の時代>を論じて、著者は新たな時代が始まっているとします。
<理想の時代→夢の時代→虚構の時代→使命の時代>
これからは<使命の時代>だ、と。
「今、世界で最も熱い『現場』」(関満博)である東日本大震災の被災地を有する日本はその全体がまるごと「課題先進国」という名の最先端=フロンティアである。
だから、「今の、目の前の課題」に取り組むこと自体が未来を切り開くことになる。
それににまっすぐに取り組むために必要なのは「仕事観の成熟」→「使命の引き受け」である。
成熟した仕事観を持っていないのは決して「今時の若者」だけではない。
だから、「働く」者すべてが、「働く。なぜ?」という問いから始めて自らの「仕事観」を成熟させなばならない。
そういうメッセージを受け取りました。
あれっ?、それって6月の新人研修の〆で私が発しようとしたメッセージそのものじゃないか!?

「アンシンク」

「アンシンク」(エリック・ウォール著)を読了。
インナー・チャイルド(内なる子供)という言葉がありますが、著者はそれとインナー・アーティスト(内なるアーティスト)を区別し、ジェフリー・デイビスの言葉を引いて、こう言っています。
「郷愁に誘われて『失われた子ども』を取り戻そうとしたり、『内面の子どもを見つけようとてはいけない。
私たちは子供ではなく、大人として生きているだから。」
インナー・チャイルドとインナー・アーティストの違いはなにか?
一読してこう考えました。
前者は大人の中の子供性の残り火のようなもの。
一方、後者はむしろ子供の中に憧れとしてある大人性を大人になってから再発見して、本当の大人になること。
早川義夫が「ラブジェネレーション」の中で歌っている次の言葉と響きあっている。
♪大人っていうのは、もっとすてきなんだ 子供の中に 大人は生きてるんだ♪
だからこそ、内なるアーティスト性は、狭義のアート(職業としてのアート)だけではなくて、いわゆるビジネス一般にも発揮できる。
だって、ビジネスこそ、大人の仕事なのですから。
「仕事論」部分を一部抜きだしてみましょう。 こんな感じです。
「仕事に自分を乗っ取られてはならない」
「仕事は自分が理想の人間になるための手段だ」
「私たちは最初に生涯の仕事を見つけてから次に自己形成していく」
「仕事とは自分の心を豊にするのに最も影響を及ぼすもののひとつだ」
「画家がキャンバスに絵を描くとは、色を塗って絵の具を少しづつ減らしていくことだ。
絵がどのように見えるかは、チューブから絞った少量の絵の具の積み重ねで決定される。
毎日の仕事も絵画と同じで、着々と描かれていく。
問題はそれが、家族、友人、同僚の心の壁に掛けるにふさわしい特別な絵なのか、それとも一年に一万回も印刷されている安物の複製画か、ということだ。」
「どんな仕事にも骨折り仕事は含まれている。 問題は仕事に意味があるかないかだ」
結局、内なるアーティストを生きるとは「自分になる」ということなのでしょう。
自分とは、インナー・チャイルドを「探し」て「見つける」ものではなく、インナー・アーティストを発揮して「なる」ものである。
「自分を探す」のではなく、「自分になる」。
「あなたには、この地球にいるほかの人間にはないひとつの有利な点があります。 あなたという人間はあなたしかいないということです。 本当の目標とは仕事ではありません。 仕事を通してあなたの独自性を表現することです。」
Love & Work!