月別アーカイブ: 2014年1月

グローバルリテラシー研修に出講

昨日は日立SBさんに研修で出講。
同社での4回目の「グローバルリテラシーセミナー」です。

Globalization(現象)とGlobalism(イデオロギー)との違いというところから説き起こして、我々はGlobalist(主義者)ではなくてもGlobalizationには対応しなければならないという認識を立ち上げる。
ちょうど、攘夷論者が倒幕の果てに開国して日本の近代化をリードしたように。
資本<主義者>ではない、我々が資本制生産体制の下で企業活動をしているように。

問題は、Globalistでない者がGlobalizationに関してGlobalistである者と競い合って互角以上の戦いをするためはある種のアクロバシーを必要とする、ということ。
それはどのようなものか?
どのようなものではないか?
といったことを一緒に考えました。

英語力の不足といったことに問題を矮小化することなく、母語による思考力を鍛えて磨き上げ、母語によるコミュニケーション力の次元を上げる。
日本でしか役に立たないことは日本でも役に立たなくなる。
ちょうど、「ある会社でしか役に立たないようなことは、実はその会社でも役に立ってはない」のと同じように。

だからこそ、本当に日本で役に立つ人材になれれば、それは即グローバル人材でもある、とも言える。
「ある会社で本当に役に立っている人は、どの会社に行っても役に立つ」というのと同じように。

白熱の議論ができとても楽しかったです!

「情報社会の情念」

「情報社会の情念」(黒瀬陽平著)を読了。

著者が友人の縁者で、「面白いから読んでみて」的に回ってきた本です。
で、読んでみたら・・・、「面白い!!」。

アート、それもオタク系のそれを主戦場にした事柄についての書かれたものなので、フィールドとしてはOut of 興味な分野のものなのですが、そこに伏流する問題意識の深さ、関連付けられている事象の幅広さに目を見張りました。

創造者=神を主語とする文脈で用いられてきた、英語のCreateという動詞が、Creativeという形容詞を派生させ、Creativity(=創造性)という抽象名詞として定着するのは、な・な・なんと20世紀になってからである、といった指摘(知らなかった!)。

携帯やスマホ上のソーシャルゲームにおいては、ユーザーが朝の通勤電車のの車中で「これ面倒だな」と感じたステージが、昼休みには改善されている。
それは、ユーザーにゲームを始めてもらうことよりも、続けてもらう=止めさせないための「離脱率抑制」の仕組みこそが、今のゲームの存亡を分ける鍵であるから。
それこそが「運営の思想」であり、コンテンツに対するプラットフォーム=環境の優位であり、そこにコンテンツクリエーターの新たな疎外が存在するといったこと(全く、知らなかった!)。
ゲーム論そのものには関心がないんですが、「運営の思想」、プラットフォームの優位といったワーディングの切れ味には感嘆しました。

この本がいう、「クリエイティブの条件」とは、ビッグデータ時代におけるデジタルコンテンツのクリエータがクリエイティブであるための条件といったものではない。
アート一般にさえ留まらず、ビジネスにけるCreativityの条件一般、人生におけるCreativity全般に通じる「条件」について書こうとしている、ということが伝わってきます。
若い著者のそうした野心、志に感動しました。

成果というコンテンツを生み出さねばならない産業人にとって、会社というプラットフォーム、さらに大きくは資本主義社会といったプラットフォームの優位性と、その下で生じている新しい疎外、そしてそれとの闘い。
Manegimentという名の「運営の思想」。

私の仕事が、そうした情況の中で、Creativityの条件を育む方向のものでありますように。

Let it be so!

頭からぶっつかって行く

「相撲」というスポーツの特殊性について、内田さんの本にあったことを読んで、思い出したことがあります。
次の場所、休場が決まった日馬富士が横綱になったとき、TVであるインタビューアが貴乃花親方にこう質問しました。

「日馬富士は入門時にはあんなに小さかったのに、なんであそこまで大きくなれたんですか?」

それに答えて、貴乃花親方曰く、
「相撲というのは、唯一、頭と頭をぶつけ合ってする競技です。
頭と頭をぶつけ合うといったことを毎日の稽古で行っていると、身体の方が『もっと大きく、強くならなければいけない』とわかって、『大きくなろう、大きくなろう』とするんです。
だからあんなに大きくなる。」

元々大きい人が、たくさん食べるから、さらに大きくなって、ああなる、というんじゃない。
「大きくなって、強靭になって、自分の身体で自分を守れるようにならないと生きていけない」と、身体が、身体で分かる程に、身体に教える、そういう稽古をしているんだ、ということなんでしょう。

内田さんが言う、「たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについても、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム」というのはそういう稽古のことなんだと思います。

私も、<頭からぶっつかっていく>ことを毎日の習慣としたい。
自分の身体が「生きるとはそういうことだ」と憶えてしまうまで。

「青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたようにはげまして行け」
(宮沢賢治、「春と修羅」より)

「街場の憂国論」

「街場の憂国論」(内田樹著)を読了。

ツンドク本の山は高くなる一方なのに、内田さんの本はどうしても優先的に読んでしまう。
困ったものです。

引用したいフレーズがテンコ盛りなので、それにも困らされますが、今回はここの部分にしておきます。

「人間たちが集団的に生き延びていくためにほんとうに重要な社会制度は『誰でもできるように』設計されている。
そうでなければ困る。
例外的に卓越した資質を持っている人間にしか社会制度の枢要な機能を担い得ないという方針で社会制度が設計されていたら、とっくの昔に人類は滅んでいただろう。
以前大相撲の力士をしていた方から不思議な話を伺ったことがある。
彼は、『相撲取りというのは、ある程度身体が大きければ、誰でもプロになれるのです』という驚くべき事実を教えてくれた。
『サッカーや野球であれば、生得的に高い運動能力を持っていなければプロにはなれません。
でも、相撲は違う。
生得的資質が凡庸であっても、プロになれる。
とてつもなく強くなれる。
そうなれるように相撲の身体技法は合理的にプログラムされているのです」
私は驚き、その後深く納得した。
(中略)
相撲において最優先するのは『たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについても、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム』を次世代に継承することである。
(中略)
『決して失われてはならぬ制度については「その気になれば、誰でも十分にそれを担う資格がある」ように構造化されていなければならない』という人類学的知見には深く同意する。」

私の仕事は企業の人材育成のお手伝いです。
その際にいつも言ってきたのはこういうことです。

「私は天才と病人は助けない。
天才は助ける必要がないし、病人を助けるのは医者の仕事であるから。
私が助けたいのは<普通の人>である。
<普通の人の普通であることの閾値を高めること>、私はそれを使命と考えている」

「たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについても、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム」が必要なのは力士だけではないでしょう。
すべての産業人のためにもそれは必要です。
たとえ生得的な資質において凡庸な者でも、プロになれて、ポテンシャルを爆発させることができるという仕方で構造化されている必要がある分野とは、<仕事>という分野そのものであるからです。

Fight, 自分!

「借金人間製造工場」

「借金人間製造工場」(マウリツィオ・ラッツアラート著)を読了。

国家の負債(財政問題)が薄気味の悪いしかたで積みあがっています。
国家にしても、企業にしても、そして個人にしても、借金を返すことが存続条件であり、そのためには新たな借金をすることが存続条件であり、その存続条件がいつしか、存在理由そのものであるような状態がいつのまにか生じてしまいました。

<人は何ゆえに働くのか?>
という貴重な問いへのリアルな答えが、
<借金を返すためである>
ということになってしまっている、としたらそれはとっても残念なことです。

「新自由主義の行動は、経済と主体性、『労働』と『自らに働きかける労働』といったものに同時に―しかし無差別的に―かかわるのだが、とりわけ自分を自分の経営者になるように仕向ける。
つまり、企業や国家が社会のなかに外部化するコストやリスクを『自分自身の身に引き受ける」ようにすることだ。
『自らに働きかける労働』が、解放的な『労働』として、喜びや自己実現、社会的認知、生の新しい形態の実験、可動性といったものをもたらすという約束は、それと引き換えに企業や国家が引き受けようとしないリスクやコストをわが身に引き受ける、という至上命題とセットになっている。」

久々に、レフトウィングからすごい球が飛んできたなー、という感じ。
私の仕事も広義の「労働倫理」の再構築を目指すものです。
だから、自分の言説の隠れたイデオロギー性については鈍感であってはならない、ということを思い起こさせられました。