月別アーカイブ: 2011年9月

理解できないままよからぬ現実を知る

「大人になるという過程は興味深いものです。
我々は理解できないままよからぬ現実を知るのです。
我々は「死」を理解できないまま、死を知ることになる。
世界にはびこる悪について理解できるようになる前に悪を知るようになる。

人は物事を理解していない状態でそれを学んでいる。
しかし、心の底からは理解していない。
大人になるとは(そのような)自分の(ありよう)の至らなさを認め、(それでも、その)自分(のそうしたありよう)を赦すことだ。
現実には人生は困難だが、それでも(そのように)折り合いをつけることを学ばねばならない。」
(カズオイシグロ、「NHKの特集番組でのインタビュー」より)

上の分の(カッコ内)のところはわたしの挿入です。
昨日の福岡さんの言に対する彼の応答がこれです。

似たことを、内田樹はこう表現しています。
「人は人生に遅れてやってくる」

人が生まれたとき、世界は先に存在していて、ゲームはすでに始まっており、ゲームのルールも先行して決まっています。
ルールも知らないままに人は世界にいきなり投げ込まれる。
そして、ゲームのルールを学びながらそのゲームを生きなければならない。

彼はこれを「人生の遅延」と呼んでいます。

イシグロも福岡さんもこうした遅延に対する対応として「折り合い」という言葉を使っている。
でも、私は人生には「折り合いをつける」以上の成熟がありうると思っています。
 とはいえ、一旦、「折り合う」しかないというような静謐な諦観を経験することは重要です。
 その先には、そこから行かねばなりません。

大人になること

「人々は大人になることをこう捉えています。
ある種の成長、進化、蓄積、達成であると。
しかし、あなたの小説は全く違うことを語っています。
それはある種の衰えであり、退化であると。
あるいはつらい記憶に向き合い過去と折り合いをつけることであると。」
(福岡伸一、「カズオイシグロ」を特集したTV番組の中でのイシグロとの対談において)

福岡さんは分子生物学者ですが、人は細胞内の物質レベルではつねに更新されていているのにどうして同じ人でありうるのか=同一性を保てるのか、という文科系の課題と取り組んでいます。

確かに大人になることの先に死があるわけですから、大人になることは「ある種の衰え」なのかもしれません。
それでも我々が「成長」や「成熟」について語るとすれば、その語りはそのことを所与として踏まえたうえでのものでなければならないでしょう。

「過去の記憶と折り合いをつけること」というフレーズもなぜか美しい。
こういうネガティブなモノイイが時に慰めとなり、救いとなるのはなぜなんでしょう。

 
福岡さんのこの言に対するイシグロ氏の応答がまた泣かせます。
それについてはまた明日。

「労働を舞踏の範囲にまで高める」

「衝動のようにさえ行はれる
すべての農業労働を
冷たく透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ」
(宮沢賢治)

By means of cold and clear analysis,
heighten all the agricultural labor,
which seems to be carried out by impulse,
along with its indigo blue shadow,
to the category of dancing.

「労働を舞踏の範囲にまで高める」
なんとすばらしい志でしょうか!
そのためには、「冷たく透明な解析」もまた必要となる。
全くです。

Love & Work!

『法隆寺は焼けてけっこう』

「『法隆寺は焼けてけっこう』―――嘆いたって、はじまらないのです。
今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

自分が法隆寺になればよいのです。」
(岡本太郎、「日本の伝統」より)

There is no use crying over the burnt Horyuji temple.
There should be more urgent and essential issues than crying over now the fact that it was burned and that people don’t cry over it.
You can be the Horyuji.

岡本太郎の再評価が進んでいるようです。
大変結構!

上の言葉は、1949年、法隆寺金堂の修理解体中に火災 が発生し、金堂内部の柱と壁画が焼けたことを受けてのもの。
「芸術は爆発だ!」に次いで、「人口に膾炙」しつづける彼の決め台詞の一つとなりました。

山下裕二さんは「太陽の塔を国宝に!」という運動をしている方です。
上の言葉を受けてこんなことを言っていました。

「岡本太郎が死んだことを嘆いたってはじまらない。
今さら死んでしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
自分が岡本太郎になればよいのです。」
(山下裕二「岡本太郎宣言」より)

この覚悟やよし!

Feeling lonely?

「寂しさなんてのはなぁ、
歩いてるうちに
風が吹き飛ばしてくれらぁ。」
(車寅次郎、「男はつらいよ 寅次郎の告白」より)

Feeling lonely?
Just walk, and the wind will blow it off.

寂しさは風が吹き飛ばしてくれる。
「風に吹き飛ばし」てもらうためにはそれでも「歩く」ということが必要です。

歩いて風と出会わなければなりません。
だから寅さんも歩いたのです。

さあ、今日も歩くぞ!

歳をとってみないと分からないこと

「歳をとってみないと分からないことがある。
それは、「歳をとっただけでは人間は成長しない」ということである。」

(内田樹、「老いの手柄」より)

私の場合は、そのことにはずいぶん早くから気づいていたような気がします。
「加齢と成熟」とは異なるということ。

それは一つには、自分の身内に納得いく「成熟」モデルがなかったことが大きい。
つまり、このまま自分が自分の身内の年齢になったときになれるであろう自分のレベルというものに、ずいぶん早くから失望していたということです。
同時に、「成熟」の可能性に対する確信とそれへの憧れも人一倍強かった。
それもあったと思います。

とはいえ、今やそうした早熟的認識のアドバンテージはもはや使い尽くされてしまった感あり。
困ったものです。
あらためて、「加齢と成熟」を隔てる壁を凝視し、それを乗り越えていかねばなりません。
現役の「アラカン」(アラウンド還暦)として。

事後的、回顧的、遡及的評価

「人は、誰も生きない、
このように生きたかったというふうには。
どう生きようと、このように生きた。
誰だろうと、そのようにしか言えないのだ。」
(長田弘、「世界は美しいと」より)

長田弘はMy favorite poetのひとりです。
高校生のころに「ネコに未来はない」にはまりました。
詩集「深呼吸の必要」もとってもよかった。
機会があったらぜひご覧ください。

「世界は美しいと」は彼の比較的新しい詩集です。
上の言葉はその一節。

内田樹さんは「肝心なことはは事後に、回顧的に、遡及的にしか評価できない」ということを手を換え、品を換え、繰り返し述べています。

例えば、何かを<学ぶ>ということ。
人は学ぶことの価値を事前に評価してその学びに入っていくことはできません。
学ぶ前には学ぶことの価値を知らない。
知らないことについて学ぶことが学ぶということだからです。

そして、それは「肝心なこと」一般、そして「人生」そのものについても言える。
それが、「生きる」ということが時間の中に組み込まれているその組み込まれ方(=生きるということの時間内構造)そのものだからです。
長田さんの詩はそのことをとってもうまく言い当てていると思います。

よい結婚、よい子育て、よい人生をすみずみまで設計し、計画通りにそれらを展開することはできない。
かりに計画通り展開できたとしても、計画通りだったこと=よいこと=価値ではない。

結婚における、子育てにおける、人生における<よい>とは何かを考えながら、結婚生活を、子育てを、人生を生きる。
そしてそのヨシアシは事後的に、回顧的に、遡及的にしか評価できない。

それは<よい>ことだったか?
ヨキニツテアシキニツケそれは本当に<自分の人生>だったか?

少なくとも<自分の人生>だったと自分でいえれば、それは<人生>足りえたことになる。
ウン、ソレデイイノダ!

♪ゼニのない奴ぁ 俺んとこへ来い♪

♪ゼニのない奴ぁ
俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ青い空白い雲
そのうちなんとかなるだろう♪
(植木等、「黙って俺について来い」より)

作詞は青島幸男、演奏は「ハナ肇とクレージーキャッツ」にクレジットされてますが、なんといっても「植木等」です。

映画の無責任シリーズはずいぶん観ました。
ちなみに彼の役名は「たいらひとし」(平均)です。
人を食った名前ですね。

実際の植木さんは「お坊さん」の子どもです。
僧侶だった父親は左翼の運動家でもあり、植木さん自身もたいへんストイックな人だったらしい。

♪俺んとこに来い!
・・俺もないけど心配すんな♪

いいですねー。
「引き受け」というものがある種の「軽み」を根拠にしているところがいい!

♪見ろよ青い空白い雲♪

ここのところで転調します。
そこも秀逸。
本当に青い空と白い雲が見えてくるようです。

いいなー・・!

「早え話」

「お前と俺とは別の人間なんだぞ。
早え話がだ、俺が芋食って、お前の尻からプッと屁が出るか!」
(車寅次郎、「男はつらいよ」第1作より)

You know, you and me are different individuals.
In short, if I ate broccoli, can it make you fart?

すばらしい喩えですね。
要点をずばり突いてる。
視覚、臭覚、聴覚だけでなく、

内臓感覚にまで訴えかけてくる喩えです。
私もこういうふうに「早え話」ができるようになりたいです。
いつも「話が長い」と言われてしまうので・・。

「絶望が足りない」

「絶望が足りない」
(吉本隆明)

What is insufficient is despair.

「希望」という日本語は大変面白いつくりをしています。
希望の<希>はマレ、カスカという意味。
つまり少ないということです。
薄い塩酸が希塩酸、薄い硫酸が希硫酸という場合の<希>ですね。

その<希>に<望>と書いて、<希望>。
つまり<希望>とは<望みが少ないこと>、<かすかな望み>だというわけです。

「浅いところで満足してしまう態度」のゆえに<望>が充ちている状態。
そういう「浅い態度」、「自己欺瞞」に対して、吉本は「絶望が足りない」と言ったのだと思います。

ベトナム戦争時に北ベトナムの捕虜となり、後に帰還したストックデールという人は、生き残った理由を尋ねられてこう言っています。
「自分と捕虜仲間に何が起きているかについて注意を怠らず、生き残るための戦略や作戦を日々更新し続けたこと」

逆に死んでいった人たちに共通だったこととしてこういう指摘をしています。
「クリスマスまでには出られるだろう、次はイースターまでには、次は夏が終わるまでには、そしてまたクリスマスまでには・・・・、と常に未来の希望にだけすがっていた人」

ムズカシイですねー。
そこが面白いんですけど。