「子どもの気持ちが分かるためには、大人のほうに訓練が必要である。
いつまでも動かないでいると、生き物たちのほうからやってくるのがわかる。
それは、葉裏についたクモの糸の輝きであったり、シオマネキの白い爪であったりする。」
(島泰三、「孫の力」より)
海に行きたくなってしまいました。
「子どもの気持ちが分かるためには、大人のほうに訓練が必要である。
「なんでもすると決めた。
それは自分のリミッターをはずすということ。
未曾有の事態には未曾有の自分になるしかない。」
(西條剛央、NHK番組「東北Z」での発言)
“I decided to do everything.
西條さんは、「構成構造主義」を体系化した哲学者・心理学者。
絵本作家としても知られている(らしい)。
その西條さんが今回の震災にあたって、「ふんばろう東日本」
その次第がNHKで取り上げられたのを、たまたま観ました。
番組を観ていての最初の印象-
「いい男だなー」
「誰これ?」
「西條剛央―Who?]
「いい顔してる」(吉川晃司を知的にした感じ)
そして上の発言。
ガツンとやられてしまいました。
さっそく、WEBで検索。
なになに・・・、1974年生まれ?
35歳か・・・。
恐れ入りました。
指にリングがあったから妻帯者なのでしょう。
残念。
ウチノムコニホシカッタノニ・・
「『おじいちゃん、理恵子がおねーちゃんになったら死んでしまうの?
死なんといてね
理恵子がおねえさんになっても死なんといてね』
祖父は正月に集まった親戚一同の前で、この話を披露する。
それも毎年。
とうとう、理恵子はそれがはずかしい年齢になった。
『おじいちゃん、もう何回も言いゆうでやめてえや』
『何回でも言いたいわいや、言わしてくれ』
とどなりかえされてしまった」
(西原理恵子、「こどもの時間」より)
島泰三さんの「孫の力」引用されていたエピソードです。
西原理恵子さんは「毎日かーさん」を書いている漫画家です。
島さん自身も同じ経験をもっているそうです。
こうあります。
「ちなみに、わたしも7歳になった孫娘に、
『ジイジ、死んじゃいや。
あいちゃんが死ぬまで死んじゃいや』
といわれたことがあります。
こっちも、なんどでも言うな、これは」
ですって。
キリスト教の二大概念が実はまだ本当には日本語化されていない、というのは興味深いことだと思います。
「人は生まれつきの芸術家であって、それは河馬が生まれつき河馬であるのと同じである。」
(ラスキン、「絵画の諸要素」より)
河馬が自分が河馬であることを知っているその自明性の程度と同じほどに、人が自分が芸術家であることを自明のこととして信じることができれば、人はそのまま既に芸術家である、ということでしょう。
ラスキンはこうも言っています。
「私の努力の目的は、大工を芸術家にすることではなく、彼を大工のまま、幸福にすることである。」
「かみさま、
ぼくはあなたがだいすきです。
とってもしんせつなんだもん。
ぼくもあなたみたいにいいこにします。
ばくはみんなにしんせつです。
あかあさんにも、おとうさんにも、ふたりのいもうとにも。
かみさまっておもしろいでしょうね。
みんなにすきになってもらえて。」
(「神様への手紙」より)
Dear God,
I love you because you are so good,
I try to be good like you.
I am good to all people.
My mother and father.
And my two sisters.
It must be fun to be God and have everybody love you.
谷川俊太郎訳では「しんせつ」、「いいこ」となっているのは元はどちらもGoodです。
英文脈では、Good →Goodness=善という言葉、意味は、
「おもしろい」の部分は、fun=「楽しい」です。
こうも訳せますね。
「かみさまでいるのってたのしいでしょうね。
だって、みんながあなたのことだいすきなんだもの」
「だいすきなかみさまへ
あなたはきりんをつくったときあのようにつくったんですか?
それともああなっちゃったんですか?」
(「神様への手紙」より)
Dear God
Did you mean for giraffe to look that
or was it an accident?
わたしの高校(今はなき伝説の自由学校、神奈川県立外語短大付属高校)は女子の比率が高くて、わたしたちは女子高男子部なんて言われてました。
その「イチゴ絵本」には、「アンパンマン」のオリジナル版が掲載されていてましたが、お気に入りは「かみさまへのてがみ」でした。
アメリカの子供たちが実際に書いた「かみさまへのてがみ」を谷川俊太郎が訳し、当時まだ無名だった葉祥明が絵をつけていました。
最近、これが一冊の絵本になっているということを知り、早速アマゾンで調達。
覚えていた一番のおきにいりを探してみました。
どうも訳が違うみたい。
本にはこうあります。
「かみさま
あなたはきりんをほんとうにあんなふうにつくりたかったの?
それともなにかのまちがえですか?」
うん、やっぱりなんか違う。
わたしの記憶では上のようになってたんです。
どっちがいいですか?
「アメリカに四年半ばかり住んでいる間に、僕はひとつの自己矛盾に突き当たるようになりました。
“When I was living in the US for about four and half years, I came to encounter a self-contradiction.
This is because, up till then, I used to live for a purpose, that is to be independent as an individual.
When I was in Japan, it was a very significant work for me.
In other words, establishing an individual that stands against the social systems.
However, in the US and Europe, it is quite obvious that a person becomes independent as an individual.
Consequently, after leaving Japan and coming over to the US, it became unnecessary for me to pursue independence as an individual.
So the next question came up: ‘Then what should I do as the individual?’
Being an individual is not a purpose of life.
That is something I clearly realized while living in the US.
What can I do as an individual?
That became an important proposition for me.”
「夢の中から責任ははじまる」というタイトル、いいですねー。
これは、春樹さんのインタビュー集、「夢見るために僕は毎朝目覚めるのです」所収のものです。
一気に読んでしまうのがもったいなくて、間欠的に、少しづつ、いとおしむように読みました。
たいていは、ちょっと飲みながら、そのウィスキーの残量と見比べるようにして。
彼がいかに「まじめに」(=serious)に生きているか、そうしたseriousさがいかに豊かで、楽しいものか(=serious fun)、を感じさせてくれます。
さて、上の文章自体には解説の必要はないでしょう。
日本人であることの「隘路」がよく語られています。
どうしたらそのような隘路から抜け出ることができるか。
それをわたしは常々、「日本人を解脱する」と表現してきました。
わたしは、タイとカンボジアに3年いて、春樹さんと同じように考えるようになりました。
ということは、「日本人である」ことの特異性は、アジア人であることや、先進性/後進性といった範疇から生じたものではないということです。
だからこそ、それは「自己矛盾」なのであり、「隘路」なのであり、「解脱の対象」なのです。
闇は深い。
しかし、我々はそこから出て行こうとしなければなりません。
「道徳的人間とは、
何が公正であるかという原則を理解し、
積極的にそれを実践していく能力と実力をもち、
何が自己の人生の目標であるかを考え、
必要とあらば訂正し、
合理的にそれを追及していく存在のことである。」
(ジョン・ロールズ、「正義論」より)
The moral person is the one who understands principles on what justice is,
has an ability and power to actively put them into practice,
thinks what his goal in life is,
correct it if necessary,
and pursuit it in a reasonable manner.
ロールズは、「生来の才能の分配や社会環境の偶然性は正義にもとる」という過激な正義論の持ち主です。
「正義」論と「道徳」論の間の関係は必ずしも自明ではありません。
「人が道徳的であることが正義に貢献する」といえるためには、「世界が道徳的な場としてできている」ということについての信頼が必要となるからです。
人の正義観、道徳観の中身について完全には理解→同意できないとしても、それでもその正義「論」、道徳「論」がときに読者の心を打つのは、その呼びかけに伏流するそうした「前提」的な世界観に励みを受けるからでしょう。
ですから、人との連帯ということにおいてさえ、「正義」や「道徳」についての定義を共有しているかどうかよりももっと重要なのは、「正義」や「道徳」が自分にとってどれくらい重要か、ということです。
「敏感に驚くことのできる人は、何事によっても驚かされない」
Nothing can surprise a person who can get surprised sensitively.
もしくは、
If you can surprise yourself sensitively, you would not be surprised by anything.
驚くことと、驚かされることの違い。
surpriseという英語が他動詞で、再帰代名詞を目的語にとってsurprise oneselfとするのと、受動態でbe surprisedとするのとで同じ意味になる、と中学で習いましたが、そのニュアンスはやはりちょっと違うんだなと気づきました。
今年はいろいろなことに驚かされてしまいました。
来年はもっと自ら予め驚いておくことで、驚かされないようにしたいと思います。