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葛藤と勤労観

早川です。

産業人として大人になるためには「勤労観」をもつことが必要だと言いました。
資本主義の生成期において、人々がどのように近代的「勤労観」を練り上げて行ったかということについては、マクス・ウェバーの「プロテスタンチズムと資本主義の精神」が参考になります。

とはいえ、あれを読んでプロテスタンチズムがどのように資本主義の精神をもたらしたかということがピンとくる日本人は少ないのではないでしょうか?
プロテスタンチズムというイズム(イデオロギー)が資本主義というイズム(イデオロギー)をどのように用意したか、前者が後者をどのようにもたらしたか、それが書いてあると思ってあれを読むとなんだか分かったような分からないようなという気分になります。

キリスト教、特にプロテスタンチズムには勤労精神と順手の関係にある勤勉さという性格もあるが、同時にそれとは逆手の関係にある禁欲主義的傾向(反物質主義的傾向)も含まれていました。
後者との関係では、勤勉に働くことは善として奨励されたというより、罪悪として抑圧されてもいました。
資本主義の黎明期にあって、勤労はそうした抑圧との間でコンフリクトを生じる行為だったわけです。

そうしたコンフリクト、葛藤が人々の資本主義的「勤労観」を練り上げていく。
だから彼らにとってそれはひとつの選ばれた「主義」であり、イデオロギーなのです。

実際、経済学はその黎明期において、倫理学の一分野でしたし、アダムスミスも倫理学の学者であり、今日的な言い方をすれば応用倫理学を論じる書物として「国富論」を書いたのです。

しかし、日本人にとって勤労ははじめから善でした。
少なくとも、キリスト教徒のようなコンフリクトをもつことはなかった。
日本では資本主義は「主義」ではなく、ひとつの「制度」に過ぎない。

この事情は中国でも同じです。
だから「資本主義」を採用した中国共産党はそれを「一国二<制度>」と呼ぶのです。

勤労がはじめから善であり、そこにコンフリクト、倫理的葛藤がなかった。
そこに日本人の「勤労観」が浅いひとつの理由があると思います。
マクス・ウェバーはヨーロッパ人が社会の世俗化によって「精神のない専門家」になることを危惧しましたが、日本人ははじめからそれを目標にした。
その差が今日に至るまで横たわっている。

しかし、今、働くことに関するコンフリクト、葛藤は日本に溢れています。
これを自らの「勤労観」を練り上げる契機とできないか。
それがなれば日本の産業社会は新たな成熟を遂げることができる。
そう思うわけです。

Love & Work!