月別アーカイブ: 2005年10月

「自発性と当事者性」、または「他律から自律へ」

相変わらず、バンコクからの発信なんですが、これ以上「マイペンライ」精神に脳みそをやられないように、ちょっと硬めのトピックを選んでみました。お付き合いください。

コンサルタントに対する質問で一番多いのは、「コンサルタントって、なにするの?」というものです。次に多いのは、「どうやってコンサルタントに なったの?」という質問。「なんで、コンサルタントになったの?」と聞いてくる人はまずいません。でも、私自身にとって一番大切なのは、この最後の質問。 だれも尋ねてくれないけど、勝手に答えちゃいましょう。

学校を卒業して、いざ就職だとなったとき、私にはこれといった職業的展望はありませんでした。恥ずかしいことです。でも(だから、かな?)どこかの 企業に入って、成り行きでなんとなく何かの専門家になるのはいやだった。それで、はっきりと「したいことを持っている人」をサポートする仕事をしたいと 思った。それが、コンサルタント(まあ、一直線でそうなったわけではありませんが)。

コンサルタントというのは、まあ、相談に乗る人という意味ですから、相談に来る人より当然、当事者性は低い、というより、はっきり言って第三者で す。でも、私には、当事者じゃないのに、自分の中に当事者性を捏造する能力(?)があった。自分自身が本当の生の当事者性を感じる対象がないから、人(他 人)が我が事と思っていることに肩入れして、それに燃える。この捏造された当事者性が、本来当事者であるべき人々に伝播していく。「あの第三者があんなに 一生懸命になってるんなら、自分たちも、もうちょっと真剣に考えてみるか」というように。これが私の基本的コンサルティング・スタイルです。

よく、社長さんが社員に対して、「物事に自発的に取り組め」といった類のことをおっしゃることがありますが、あれはちょっとおかしいですね。そもそ も、組織の中の仕事というのは、大なり小なり(たいていの場合は、大なり大なり)与えられたものです。それに自発的に取り組めというのは、形容矛盾みたい なもんです。

与えられた仕事、割当てられた務めに対して発揮すべきは、当事者性でしょう。自発性は、物事の起源を問題にしますが、当事者性はその後の取り組み方 を問題にします。同じようなものだと思わないでください。こういう微妙な差異に敏感な人が他の人を動かせる人になれるのです。

「自発性から当事者性へ」というお題目に加えて、しばしば、「他律を自律へ」ということも言ってきました。他律的な仕事とは「やらされ仕事」のこ と。自律的な仕事とは「やる仕事」のことです。で、「他律から自律へ」でなくて、「他律を自律へ」と言っているところが味噌なんですが、お分かりでしょう か?

自発性/当事者性の議論と同じことですが、もともと組織の中の仕事は、業務命令によって「他律的」に与えられたものです。だから「他律性」を否定し て「自律性」への移行(他律から自律へ)を志しても、それは現実を否定するに等しい。そうではなくて、「他律的」であるもの<を>、「自律的」なものに変 容していく。「他律的」な器はそのままに、そこに「自律性」を盛っていくという感じです。

それは「人生」そのものの構造とよく似ています。私たちは誰一人、「自発的」に生まれてきたわけではなく、「他律的」に生まれてきた(「生んでくれ と頼んだわけではない」という永遠の真理)。でも、生きるって、その<生>に「当事者性」を覚えて、「自律的」に生きることでしょ。だからこそ(構造が同 じだから)、人は「仕事を通して人生を鍛えることができる」わけです。

これは具体的はどういうことでしょうか。外から与えられたミッション、目標、商材などを自分自身のものとする。もともと「心から」のものではないからこそ、「心をこめる」。

人はまだまだ案外、心で生きています。心のこもった仕事が、まず自分を動かし、同僚や上司に波及し、最終的に顧客に通じる。ブレイクした商品からは、「当事者性」と「自律性」が、つまり係わった人の喜びが、オーラとなってでているように感じませんか。

そういう「ちゃんとした」、「きちんとした」、「いい仕事」がしたいですね。

Love & Work !!

タイ人にとっての「お仕事」(その3)褒めるということ

タイ人は、計画することと反省することが苦手だ、という話をよく聞きます。多くの実証事例を知っているわけではないんですが、「ジェーン」の場合 (タイ人にとっての「お仕事」(その1)参照)を見ても、なるほどそうだなーと思ってしまいます。なにせ、仕事を辞めてから、次の仕事を探し、それを決め て、資本を投下してから、外国に行こうとしているのですから。

文化人類学者のエンブレーはタイ人の行動に規則性・規律性・組織性が欠如しているとして、タイ社会を「しまりのない社会」(loosely structured society)と呼んだそうです*1)。「しまりがない」という訳はあんまりだという気もしますが、「loosely」だというのはよくわかります。 ワット・ポーという有名なお寺があって(マッサージの総本山としても有名です)、そこに体長46メートルの巨大な黄金の仏像があるんですが、それが寝姿な んですね。右の手に頭を乗せて、ゆったりと昼寝をしている(?)ような図。その姿がなんともloosely!ちっともまじめくさっていない(感動しまし た)。さすが、マイペンライとサバイサバイの国だと納得。

例えば、タイには日本の暴力団に相当する組織がないんだそうです。だって、あれにも「規則性・規律性・組織性」が必要でしょ。それがないから、やくざ社会を組織できない。いいことです。

しかし、私がもっとも注目しているタイ人の資質は、「叱られ弱い」ということ。現地企業で、日本人の上長が人前でタイ人の部下を叱ったりしたら、決 して言うことを聞かない。それどころか、恨まれて、何かの時に「刺される」ことがある。「刺される」とはいろいろな意味を含みますが、文字通りであること もあります。

タイ人はいつもはニコニコしている(微笑みの国と言われます)が、一旦切れると結構怖い。実際、タイの新聞には毎日、殺人事件の現場写真がでかでか と掲載されています。日本だったら、とても印刷できない写真です。でも、記事を読むとたいていはつまらないことに端を発した「怨恨」が原因である場合が多 い。

だから、部下になにか改善点を指摘したかったら、二人きりの場所で、切々と、しかも忍耐強く、何度もそうしなければならい。タイでは「叱咤激励はただのいじめ」、「愛の鞭はただの鞭」と覚えておきましょう。

実際、私自身こういうことを経験しました。バンコクのあるセブンイレブンでレジ待ちをしていたときのことです。タイ人はあまり「並ぶ」ということを しません。案の定、そのレジの周りにも、はっきりとした列はなかったんですが、私が人の流れをうまいこと作って、そこにめずらしくも「列」ができました。 そこに、新しい客が来て、またその列以外のところに立ち、エントロピーを増大させようとする。そこで、私は当然のごとく彼に向かって“Keep the line!” と(そんなに怖い感じでなく)、言いました。その時、店中が一瞬にして<Freeze>!!!

特にその相手に睨まれたとか、そういうことではないんです。でも、ともかく私の発言がその場にとって、「不適切」だったことをその空気は一瞬にして 私に納得させました。「しまった!」、と思いましたが、レジの人が「まあまあまあ・・・」という感じで上手くその場の空気を流してくれたので、事なきを得 ました。繁華街のセブンイレブンの店内、なんて場所でしたから、その場限りのことになりましたが、職場で同じことが起きたら、ちょっと大変です。

こんな経験もあります。町で道を聞きます。「**はどう行ったらいいの?」タイの人は親切に教えてくれます。まったく知らなくても、とうとうと「あ あ行け、こう行け」と教えてくれます。決して「知らない、分からない」とは言いません。誇り高いので、「知らない、分からない」と言えないんです。それほ ど、誇り高い人たちに、人前で恥をかかせたりしたら・・・・。

バンコクの交通渋滞はとても有名ですが、とっても面白いのは、クラクションの音をついぞ聞かないということです。道には、バス、タクシー、自家用 車、シーロー(業務用の小型トラックにベンチを置いて、人を乗せることができるようにしたもの-幌付です)、バイタク(バイク・タクシー)、トゥクトゥク (ゴルフ場のカートみたいなやつ)、原動機付荷車、自転車で引く荷車、手押しの屋台・・・・、が遅い車優先で一緒になって走っています。どんなに混んで も、だれもクラクションを鳴らしません。結構荒い運転するタクシーもありますが、それでも追い越そうとか、割り込もうとしているのではなく、ただ運転が荒 いだけ(?)。

少なくとも割り込むために、クラクションを鳴らしたり、割り込んでくる車にクラクションを鳴らしたりしない。運転しながら、結構いらいらしてたりもするんですが、それでもクラクションはならさない。

先日、ベトナムのハノイに行ったときはまったく逆でした。彼の地では、ともかく、何百台(何千台?)というバイクが大通りを車道いっぱいに広がって 走り回ります。そのバイクの海をタクシーや他の車がかき分けかき分け進みます。その間、ずーーーーっと、クラクションを鳴らしっぱなし。「はいはいはい、 どいてどいて、車が来てるよーーー、どいてどいて、あぶないよー・・・」(無限ループ)みたいな感じです。ほとんどのバイクにはバックミラーがついていま せん。クラクションだけが頼り(?)です。怖いよーーー!だから、クラクションを鳴らさないというのは東南アジア全般の傾向ではないようです。

タイでは、歩行者が歩行者を追い越すということもほとんどない。歩いていて、背後に視線を感じて後ろを見ると、自分の後ろに人の列ができていた、なんてこともありました。まあ、暑いから、早く歩けないということもありますけど。

それもこれもみな、他の人にプレッシャーをかけない、他の人を抑圧しない、というタイ人の気質の表れだと思います。彼らは決して「静寂好き」でクラ クションを鳴らさないのではありません。実際、交通整理をしている警察官やガードマンなどを見ていると、実に嬉々として、ずーーーっと、笛を吹いてる。 「ピピピピーーー、ピーピピピピーーーー、ピピーー・・・・・・・・」(隙間なし、延々)。うるさくってしょうがない。でも、よく見ると、「止まれ!」を 指示するために笛を鳴らしているんではないいですね。背中と左手のヒラで、後方からの車を抑止して、右手を忙しく振りながら、右手側の車に、「こいこい、 早く来い、俺が止めといてやるから、大丈夫だから、早く来い、そうそうそうそう・・・・・、はい次の車も来てー・・・・・、まだまだ大丈夫、こいこい、早 く来い・・・・、」(隙間なし、延々)、笛の音も実際にそう聞こえる。ネ、抑圧的じゃないでしょ。

このように彼らは、「人前で叱られること」を嫌い、「抑圧」することもされることも回避する。これはタイ人の民族的気質に根ざした文化だともいえま すが、一方ではもっとプリミティブな、だからこそある意味で普遍的な、「人間性」そのものなのではないかという気もします。これって「タイボケ」でしょう か?

日本人だって、「人前で叱られることを」好み、「抑圧」することもされることが大好き、というわけではないはずです。だったら、こうしたタイ人気質 に関する知見は、タイに進出しようと考える企業がタイ人を使いこなすために必要だというより、日本の企業の中で働く日本人が「働くことを通してどのように 幸福になるか」ということを考える際にこそ、役に立つのではないか。

企業のコンピテンシー・リストの中に「褒める力」が挙げられることが多くなりました。いいことだと思います。実際、われわれは本来的に「叱られ弱 く」、壊れやすい、フラジル(fragile)な存在なのです。でも、「褒める」ことが奨励されて、部下に向かって上長がフリーズしてしまうといった図が 各所で見られます。ちゃんと褒めること、それは結構難しい。長らく使わないでいた筋肉を、リハビリして動くようにする、そういう痛みの伴う努力が必要なの でしょう。そのプロセスまで「マイペンライ」というわけにはいかない。でも、成功の暁には、大きな「サバーイ」が待ってるかもしれない。

朝日新聞の2005年7月10日版に早川義夫氏*2)の次のような「書評コラム」が載っていました。「『りんごは赤じゃない』*3)はある公立中学 校の美術教育の記録だ。その先生はとにかく生徒をほめる。早く教室に来るだけで「よく来たね!偉いねー、なんていい子なんでしょう!」と握手する。忘れ物 をした生徒がいても「今度から忘れないようにします」と答えれば、「よく言えたね」、「すばらしい」、「最高よ」とほめる。(中略)全員をほめる。些細な ことでもいい。「字がとてもきれい」ってほめる。頼みごとをしてくたら「ありがとう!本当にいい子ね」と感謝を表す。(中略)たったそれだけなのに、生徒 は見違えるようにやる気をだす。教育の第一歩はほめることだったのだ。考えれば、大人だってほめられたい。認められたい。」

そう、「考えれば、大人だってほめられたい」。タイ人だけじゃなくて、日本人だって。

Love & Work !!

*1)「海外派遣者派遣者ハンドブック ベトナム・タイ労働事情編」社団法人 日本在外企業協会 P.69

*2)早川義夫
http://www15.ocn.ne.jp/~h440/index.html
2005年4月18日の朝日新聞に載った「高田渡さんを悼む」は本当にいい文章でした(と、褒める!)。下記のサイトに載っています。
http://www15.ocn.ne.jp/~h440/essay5.html

*3)「りんごは赤じゃない-正しいプライドの育て方」山本美芽著、新潮社刊