月別アーカイブ: 2013年3月

<分からないを方法化する>

「人は分からないから考え、想像し、工夫し、成長するのだ。
自分の仕事の本質をなんとか見定めようと目を凝らすのだ。
小説とは何か、新聞とは何か、芸能とは、工芸とは、電気機器とは、車とは、建築とは・・・・ということを。
それはきっと『すぐに分かる』ような薄っぺらない場所ではなく、奥行きのある場所に自分が身を置いている証なのだと思う。
そうして、なかなか分からないものに、いつまでも面白がって係わっていけるとしたら、それこそが仕事をする上で至高のぜいたくであり、幸せなのではないか、近頃思い始めている。」
(木内昇、日経新聞2013/3/31、文化欄「分からないから面白い」より)
木内さんの仕事論を取り上げるのはこれで二度目です。
ね、なかなかいいでしょ。
エセーのタイトルは「分からないから面白い」というケレン味のない(=あまり面白くない)ものですが、彼女が言いたいことはもっと「面白い」ことだと思います。
橋本治は一歩進めて、「分からないを方法化する」ということを言ってます。
分からないから考えない
   ↓
分からないけど考える
   ↓
分からないから考える
同じ「分からない」が、同じ「から」によって結ばれて、「考えない」に至ったり、「考える」に至ったりする。
この差異はいったいどこから生じるのでしょうか?
それは「分かりたい」という欲望からだと思います。
分からなかったことが分かるようになる。
理解できなかったことが理解できるようになる。
そういうことより嬉しいどんなことが他にあるでしょうか?
だからこそ、知らないこと=怖いこと、に挑む。
挑むからこそ、上手くいかなくても、挑む前より一目盛りだけ強くなってる。
そうやって、できなかったことが少しづつできるようになっていく。
それが「成長」だと、木内さんは言っているんだろうと思います。
異議ナ~シ!

<桜は散らない>

東京の桜が昨日がピークだったんだそうですね。
今日からは徐々に「花吹雪モード」になっていくんでしょう。
それもまた一興ですね。

さて、この時期になるといつも思い出すことがあります。
実は<桜は散らない>ということです。
<桜は散らない>、雨にも風にも負けない(宮沢賢治みたいだ)。

桜は、桜花は、それを愛でる私たちの都合で咲いているのではありません。
桜は桜の都合で桜花を咲かせているのです。
桜が桜花を咲かせる都合とは、それによって虫を集めて受粉を手伝わせる、というものです。

では、めでたく受粉が済んだら、桜はどうするか?
そのとき桜は桜花を<落とす>のです。
桜は<散る>のではない、桜はその用を終えたときに花びらを自ら<落とす>。

両親が住む実家の庭に落葉広葉樹が生えています。
落葉広葉樹ですから、秋になると紅葉し、そして冬になると落葉します。
庭には落ち葉のじゅうたんが敷かれ、枝は裸になって天を指します。

ある年に、その樹の枝が一本、秋口の台風で折れて落ちてしまいました。
いまだ紅葉していない青い葉をつけたままにです。

その枝の葉は、地面に落ちて、時がたっても紅葉しない。
枝から離れて散ることもない。
それは枝についたまま、緑のままに色あせて、ただ朽ちていった。

落葉広葉樹の紅葉と落葉もまた、「散る」プロセスではなく、樹が自ら「落とす」プロセスだ分かりました。
「散る」プロセスは「死ぬプロセス」です。
「落とす」プロセスは「生きる」プロセスです。

桜に戻せばこういうことでしょう。
桜は<潔く散っている>のではない、計画的に、意図的に花を落とすことによって<しぶとく行き続けている>のだ。

人が生きるということも、企業が生きるということも同じだと思います。
ドラッカーはこう言っていましたね。

「イノベーション戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。

イノベーションを行う組織は、昨日を守るために時間と資源を使わない。
昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる。」
(P・ドラッカー、「マネジメント」より)

再見!

Modern Meeting

「次の会議までに読んでおくように!」(アル・ピタンパリ著)を読了!

私も仕事で<会議コンサル>をします。
だからピタンパリさんは同業者ということになります。

次の台詞が一番気に入りました。
 「会議は、フットボール中継を永久に中断させるように思えるTVコマーシャルではなく、むしろ、デイトナ500のときの、自動車レースのピットのようでなければならない。」

日本のホワイトカラーは自分のタスクに対するオーナーシップを持っていません。
オーナーシップないタスクについてピタンパリさんのいうモダン・ミーティングを主宰することは原理的に不可能です。
ですから、ここに書かれていることを日本の企業に制度的に導入することは極めて困難だと思います。
とはいえ、「自分が主宰する会議」をローカルにモダン・ニーティングに変えていくことは可能でしょう。
そういう志のある人には有効な提案に富んでいます。

私が<会議コンサル>をするとき、いつも言うことは次のことです。

「会議っていう日本語を英語になおすとMeeting.
このMeetって動詞には<出会う>という意味もあるんだ。
会議をするなら、<出会い>を創造するような会議にしなくっちゃね!」

「機械との競争」


「機会との競争」(エリック・ビリニョルフリン、アンドリュー・マカフィー著)を読了。

テクノロジーが雇用を奪うという現象は今に始まったことではありません。
両者は常に「競争」してきた。
ラッダイト運動(イギリスで19世紀初頭に起きた、機械破壊運動)は有名ですね。

とはいえ、結果的には両者は常にある種の均衡点に達した。
しかし、コンピュータライゼーションはあまりに「早すぎ」て、破壊を「創造的破壊」に転じることが今までになく難しくなっている。
そのことをとても分かりやすく論じています。

ではどうすればいいか?
Plan1:コンピュータが苦手なことが得意な人材になる
コンピュータが苦手なのは、創造的であることと肉体労働(ここで「肉体労働」が出てきたところにキョを突かれました)。
逆にコンピュータが得意なのは「規則に従うこと」。
だから「規則」=手順の学習に長けている人は「機械との競争」に決して勝てない(なるほど!)。

Plan2:コンピュータと「共闘」すること。
「機械と競争」しないで、それを使って一緒に闘う。
コンピュータがチェスで名人を破ったということはよく知られています。
しかし、その後、チェスで一番強いのは、人間でもコンピュータでもなく、コンピュータを使ってプレイする人間。
つまり人間とコンピュータのチームが一番強い。
今ではそうなっていることはあまり知られていない(ウン、知らなかった)。

私にとっては、「覇者の未来」(デビッド・C・モシュラ著、1997年)がテクノロジーを文明論レベルで読み解く際の出発点となった本でした。
「覇者の未来」が「未来」と呼んでいたのは、「2010年までの未来」でした。
まさしく、♪あの頃の未来に僕らは住んでいる♪わけです。

そろそろ自分が生きている時代についてのパースペクティブを更新する時期が来ているのかもしれません。
いい刺激になりました。

エリック&アンドリュー、Thank you!

「SEの持つべき思想」

「SEの持つべき思想」(秋月昭彦・爪生聖著)を読了。

先日断捨離をやって本棚を整理したら出てきた本です。
ツンドク状態が10年、やっと読めました。

この春、久々にSIの会社の新人研修に出講するので、「お勉強」の一貫で読みました。
10年前の本ですが、ぜんぜん古くなっていない。
つまり、SEが抱える問題はいっこうに解決されていないということですね。

アジャイル開発関する記述にもびっくり。
業界的には最近やっと一般的になってきた手法です。
しかも説明が根源的で、単なる開発手法としてだけでなく、コミュニケーション論としても読める。

最終章は普遍的な意味での「成長論」としても秀逸です。
もっと早く読んでおけばよかった。

「これだけPDCA!」


「これだけ!PDCA」(川原慎也著)を読みました。

今年も新人研修を受注したので、最近売れているこの分野の本のチェックをしておこうとおもって・・・。
これがなかなかいい!

なぜPDCAは回らないのか、という問いに、川原さんは「そもそもP(=計画)が計画になっていないからだ」と言います。
多くの計画が「偽の計画」になってしまっている。
「本物の計画」とはその上位に、目標があり、そのまた上位に目的がある。
目的と目標と計画の区別のないところに、本当の計画はない。
そういう類のことを言っておられます。
全くその通りでしょうね。

私は、常々こう言っていきました。
「欲望とゴールと計画と実践を垂直統合しなければならない」
ちょっと似ている(ちょっと違うけど)。

私の場合は、欲望→ゴール→計画→実践。
川原さんは、目的→目標→計画→PDCA。
合体させればこうなります。

<欲望→目的→ゴール→計画→PDCA>

PDCAに終わりはない。
それは成長に終わりがないから。
組織の成長のためには組織の基礎力の向上が必要。
基礎力とは「当たり前にできることのレベル」のこと。
その「当たり前にできることのレベル」が上がっていくことこそが<成長>である。
といったことが結論。
これも全くその通りですね。

お勧めです。