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「働き方における<良さ>-<良く>働くということ」

プノンペンはここのところ大変涼しくて、朝晩などは「ちょっと寒い」と感じるほどです。とはいえ、日中は30度を超えるわけですから、日本的には真 夏日ですが・・・。おかげで、蚊がこれまで以上に発生して、元気に飛び回っています。暑い時期には蚊さえもが萎びているということなんでしょう。

先回、日本に帰った時に、しこしこと映画を見まくりました。あまりぱっとしたものにはめぐりあえませんでしたが、「フラガール」はA++だったと思 います。*1)常磐ハワイアンセンター設立にまつわる実話をベースにした物語です。お勧めです。 *1)「フラガール」においてではないのですが、別の映画(これはあまりぱっとしませんでした)の中で、ヒロインが口にした警句が気になって、帰ってから インターネットで検索してみました。*2)こういうものです。
Don’t be afraid your life will end; be afraid that it will never begin.
人生が終わってしまうことを恐れてはいけません。人生がいつまでも始まらないことが怖いのです
- Grace Hansen(グレース・ハンセン)

別のサイトでは同じ英文が 「あなたの人生がいずれ終わることを恐れてはいけない。二度と始まらないことを恐れなさい」というふうに訳されていました。いずれ終わることへの恐れと、 二度と始まらないことへの恐れはほぼ同義であって、それでは何を言っているのか分かりません。さらに、「二度と始まらない」、では人生は一度始まっている ことになります。しかし、ハンセンは「実は生まれただけでは人生は始まっていない」ということを言わんとしています。そして、そのことに気づかないでいる と、一生、生き始めないで死んでしまうことになるぞ、といっているわけです。だから、正しくは、「人生がいつまでも始まらないことが怖い」なのです。 うーーん、確かにそれは怖い!

似たような警句は他にもたくさんありますが、その一つを紹介しましょう。「生きるとはこの世でもっとも稀なことである。たいていの人間は存在しているに過ぎない。」これはオスカー・ワイルドの言葉です。

プラトンは、良いりんご、良い馬、良い父親といった場合の「良さ」(=Goodness)一般の定義を求めました。そして「良さ」のイデアがあるに 違いないと考えた。そのイデア論の背後の意図は「良さ」一般(=「良さ」のイデア)の理解を通じて、「生き方における良さ」、つまり「良い生き方」を探る ことにあったように思います。

先の二つ警句は、プラトンの「良い生き方」という問いが、現代では「本当に生きるとは」というふうに変奏されているということをよく表しています。 「良い生き方」と「悪い生き方」があるのではなくて、「本当に生きている」ことと「存在しているだけ」があるのだというわけです。でも、その問いは、さら に「本当に存在していること」と「存在していないこと」との差異へと転調されることになるでしょう。ハイデガーなどはその口ですね(「存在と時間」)。

どう変奏され、どう転調されても、結局は同じことが問われているのだとすれば、ここは問いをオリジナルな形に戻して、「生き方における良さ」=「良い生き方」とは何かを率直に問う方が優れているように思います。

さて、では「良い生き方」とは何か?それに正面から、全面的に答える力はありませんが、少なくともこういうことはいえるのではないでしょうか?ま ず、「生き方」とは「生きる仕方」のことですが、「生きる」とは「時間を生きる」(その個人について時間が止まると死んでしまいます)ことですから、「生 き方」とはつまり「時間の使い方」のことだ、ということになります。

人生において「時間」は多くのものによって充たされていきますが、たいていの場合その中核にあるのは「仕事」です。ですから、「良い人生には良い仕事が必須」だということになります。では、「良い人生」に必須の「良い仕事」とは何でしょうか?

まあ、それを考えることが私のライフワークであり、飯の種でもあるわけですが、最近、「仕事」にまつわる言葉に続けざまに二つめぐりあい、心惹かれました。

「職業というのは本来、愛の行為であるべきなんです。便宜的な結婚みたいなものじゃなく」

これは村上春樹(ノーベル賞、惜しかったですね-でも、きっととりますよ)の「東京奇譚集」に入っている「日々移動する腎臓のかたちをした石」という短編の中で、主人公のガールフレンドが述べる言葉です。

なんだか、Love & Work の宣伝をしてもらっているみたいでうれしいんですが、でも、この台詞の背後にはある、ある種の「天職主義」的な仕事観には賛成しかねます。実際、この台詞 の直前で、春樹さんはその彼女に、自分の「高い所に上る」という職業について、それが「私の天職です。それ以外の職業が頭に浮かびません」と語らせていま す。

「天職主義」において「良い仕事」とは、その人に合った何か=Whatです。そのWhatを見出した人は「良い仕事」を見出した人であり、そのWhatにかかわることを中核とした時間=人生は「良い人生」だということになります。しかし、そうでしょうか?

「衝動のようにさえ行はれる
すべての農業労働を
冷たく透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ」

これは、宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩の一節です。*3)「衝動のようにさえ行はれるすべての(農業)労働」を「舞踏の範囲まで高め」る こと。ここで、問題にされているのは、「仕事におけるWhat」(=何を仕事にしているか) ではなくて、仕事におけるHow(=どのようにそうしているか)です。私はそこに強く惹かれます。何をしているかにかかわらず、つまりWhatによらず、 どのようにそうしているか、つまりHowの力によって、仕事を「良い仕事」にしていく。「良い働き方」をすることで「働くことおける良さ (Goodness)」に出会い、その出会いによってその仕事がそのままその人にとって「良い仕事」となる。そしてそれが「人生における良さ」=「良い人 生」の発見へと繋がる。

仕事に関してそのような道筋をつけるためには「冷たく透明な解析」が必要だと賢治はうたっています。インサイトの思索と実践を、その必要とされる「冷たく透明な解析」の「範囲にまで高め」なければなりません。

ソウイウカイシャニヘイシャハナリタイ!

Love & Work !!

*1) http://www.hula-girl.jp/index2.html

*2) http://kuroneko22.cool.ne.jp/E&J.htm

*3) この賢治の詩には保坂和志の「途方に暮れて、人生論」の中で出会いました。この本もとてもいい本です。彼へのリスペクトをこめて宣伝しちゃいます。是非、ご一読ください。
http://web.soshisha.com/archives/life/index.php