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老いは病いではない

 最近、腹の立つことがありました。私より年長のある方と会話していいた時のことです。体調がすぐれないことがあって病院にいらして、医師にあれこれ不調を訴えたことろ、「歳ですから」と言われたというのです。しかもその方自身がそれをなんだか嬉しそうにおっしゃる。そこで、私はその方にこう申しあげました。

 「そんな医者は怒鳴り飛ばしてやらなければいけない。-私の年齢はあなたに言われなくとも私がよく知っている。私はここに病気を治しに来た。もし、診断ができないなら、そして治せないなら、『すみません、私には治せません』と言え。私の歳のせいにするな!-と。」

 ご理解いただけると思いますが、私が腹を立てたのは実は医師に対してではありません。彼の「もう歳だから」という言葉を聞いて、嬉しそうにしているそのご本人に対してです。その方はなぜそのような無礼な言葉をありがたく承ってしまったのでしょうか。年齢のせいだと言ってもらうことで、自分の衰えについて医師からのお墨付きを得ることができます。「自分がこうなったのは自分のせいではなくて歳のせいだ。したがって、自分は晴れて克服や回復のための努力から解放されていいのだ」と考えることについての正当性が付与された。その方のどこか嬉しそうな顔はそうしたことを語っているような気がしました。それに腹が立ったのです。

 長い人類史を通じ、たいがいの文明において年長者は当然に敬われてきました。長く生きられるということはそれだけでその人が何か卓越したものを持っていることの証拠だったからです。もちろん、AさんとBさんがいてAさんの方がBさんより長生きした場合、だからAさんの方がBさんよりも優れているということにはなりません。それは今も昔も変わらないでしょう。しかし、一昔前まではAさんがただなんとなく、偶然に長生きするというようなことはまず生じませんでした。Aさんの長生きはAさんを長生きにさせる何かをAさんが有していたということの生きた証拠でした。そして周囲の「若い者」もそうした現実味(リアリティ)を分け持っていたのです。

 しかし、現代になって、一昔前には考えられなかったような長命を、多くの人が普通に得ることができるようになりました。平均寿命の著しい上昇にそれはよく現れています。ここではそれを「長寿の大衆化」と呼びましょう。そして、その「長寿の大衆化」が最も進んだ国が日本であり、「大衆化された長寿」を享受しているのが我々、日本人です。そこでは長寿はそれ自体では尊敬の源泉とはなりえません。

 もちろん、特別に恵まれた環境に生まれ育ったわけではない者にそうした長寿の可能性が開けたというのはよいこと、寿ぐべきことです。しかし、たまたま長寿を受け取ってしまった大衆を周囲の「若い者」がそのことだけのゆえに尊敬するということは生じにくいでしょう。そして長じた者自身もその長寿を自ら寿ぐ理由・方法を理解していないように見えます。むしろ、当の本人たちにとっても、歳を重ねることは衰えることに等しいとみなされています。社会の高齢化もまた衰退という文脈でしが語られません。

 すでに長老や年長者が絶滅危惧種になって久しい。長寿は長命でしかなく、たまたま長命を享受している人は長老ではなくて老人であり、年長者ではなくて年配者に過ぎないからです。年配者は大衆化された医療サービスの受給者として前期高齢者、後期高齢者という仕方で区分されています。「後期高齢者」という言葉は大衆化された高齢者の最後の誇りを解体しました。当初存在したその単語(ワーディング)に対する反発は、今では「自分は後期高齢者だから・・・」といった自嘲的な会話のなかで一種の皮肉(アイロニー)として機能し始めてさえいます。

 加齢を衰えと同一視することは、老いを病いと同一視することです。しかし、本来、老いと病いは別物です。たしかに老いが招きよせる病いもあるでしょう。しかし、それでも老いと病いは同じものではない。ブッダは人が遭遇する三つの苦しみを「老・病・死」としました。老=病であり、病=死であるなら、それは三苦ではなくて、一苦になってしまいます。それらは別のものだから区別されて三苦なのです。

 これは単なる言葉の問題ではありません。老いと病いを区別することには実践的な意味があります。老いに対処することと病いに対処することとは別のことだからです。それはちょうど若くして病いを得、障害を負った人にとってその障害に対処することが老いや死に対処することとは全く別物であるのと同じです。病いに関しては治癒が目指されるべきです。しかし、老いに関してはまた別のことが目指されねばなりません。それはちょうど人が死に取り組もうとするときに、死なないことを目指すわけではないのに似ています。

 では、老いを病いと区別したうえで、いったい老いとどのように取り組むべきでしょうか。病いと区別された老い、加齢、長命、長寿に関して目指されるべきはなんでしょうか。そしてどうしたらそれに迫っていくことができるでしょうか。

 私は今、54歳の若輩です。自分が今後「大衆化された長寿」を享受できるか否かは分かりません。しかし、もしそうなったら、単なる年配者ではなくて尊敬される年長者(エルダー)になっていたいと思いますし、今からそのために最善を尽くしたいと思います。「人生五十年」と言われた時代であれば私もすでに「後期高齢者」なのですから。

もう一度繰り返します。

<老いは病いではない!!!>