「目の見えない人は世界をどうみているのか」

「目の見えない人は世界をどうみているのか」(伊藤亜紗著)を読了。

目の見えない人もある意味で「見ている」。
例えば、彼らが「点字」を使って読むとき、そのときに使われている能力は「触覚」ではなくて、「読む」能力であって、それは「見る」ことに近い。
実際、脳科学的にも、点字の処理は「見るための場所」で行われている。
そのことから逆に見える人にとっての「見る」ことの意味が明らかになる。
つまり、見える人もまた「見る」ことにより、「読む」ことをして見ている。
「見る」とは「視覚」の機能ではなくて、「読む」という身体全体が行っている「仕事」に対する名前なのだ。

見える人に見えてているものが見えない人には見えていない。
つまり、見えていない人には「情報」レベルでの欠損が存在する。
見える人はそう考える。
そして、その欠損を補うこと、そのために見える人が見えない人に対して与えるもの、それが「福祉」の名で呼ばれているものです。

そうした「福祉」の重要性を認めつつも、著者は「情報レベル」の非対称性の克服といった「福祉」のアプローチとは別の、「意味レベル」の差異に注目します。
そして、見える人と見えない人の間の「意味」の訪れの差異を理解するために、見えないとい人の経験に対する「健全な好奇」(面白がること)を勧める。
そのためには、見えない人の身体に「変身」することを推奨している。
この本はその「変身」のレッスンのための本だとも言える。
だから著者はこの本を「身体論」の本だと位置づけているのです。

見えない人と著者が大岡山駅で待ち合わせ、著者の研究室がある東工大のキャンパスまで一緒に歩いていたときのこと。
見えない人=木下さんはこういう。
「大岡山はやっぱり『山』なんですね。」
このとき、著者はこう気付きます。

「私にとってそれは、大岡山駅という『出発点』と、西9号館という『目的地』をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばもう忘れられてしまうような、空間的にも他の空間や道から分節化された『部分』でしかなかった。
それに対して木山さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で全体をとらえるイメージでした。
(中略)
見える人にとって、そのような俯瞰的で3次元的なイメージを持つことは極めて難しいことです。
(中略)
目に飛び込んでくるさまざまな情報が、見える人の意識を奪っていくのです。
(中略)
私たちはまさに『通行人』なのだとそのとき思いました。
『通るべき場所』として定められ、方向性を持つ『道』に、いわばベルトコンベアのように運ばれていく存在。
それに比べて、まるでスキープレーヤーのように広い平面の上で線を引く木下さんのイメージはより開放的なものに思えます。」

このような他我の経験の差異に対して開かれた構えをもつこと、それはとても素晴らしいことだと思います。
そうした構えは見えない人と見える人の間にだけ必要なのでも有効なのでもない。
もっと普遍的な力をもった構えだと思います。

すべての人がそれぞれに自分自身の<環世界>を生きている。
つまりそれぞれ別の「意味的世界」を生きている。
その差異に想像力を働かせる。
相手の身体に「変身」し、「他者の身体を生きてみる」といったほどに想像力を働かせる。
そうするときに初めて私たちはそれぞれ「他者に出会う」ことが出来る。

それってつまり<愛>ってことですよね。

Love & Work!

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>