一羽のスズメから学ぶということ

「ある小さなスズメの記録」(クレア・キップス著)を読了。

クレアはある日、おそらく体の障がいのゆえに親によって巣から落とされてしまったスズメの雛を拾います。
まだ目の開いていなかった雛は最初に見たものとしてクレアに出会い、クラレンスと名付けられます。
それから12年と7週と4日の間、二人は戦中、戦後の苦楽を共にします。

たった一羽のスズメを育み、共に暮らし、彼から学ぶといっただけのことがクレアの人生にいかに豊穣なものをもたらしたか。
彼女の経験に気持ちのいい嫉妬を終始覚えながら読みました。

例えば、彼女がクラレンスの老いの姿から学んだことを語るこの部分。

「小鳥がこれほどまでに老衰と闘う姿は始めて見た、と、動物の軍医どのは、次から次へと続く驚きの連続の中で言った。
『カナリヤやセキセイインコなら、とっくに死んでますよ。』
しかし、不屈の意志をもったこの私の相棒は、決して降参しなかった。
屈する代わりに、ますます自由が利かなくなっていく状況に自分を適応させ、愚痴をこぼすことも(明らかに)なく、何か違うという思いをもつことも(おそらく)なく、味わえる限りの生の喜びを享受し、精一杯の活動を楽しんだ。
我々老いゆく者に対するなんという教えであろう。
若い人なら簡単にできるような、今まで日常的にやっていたはずの仕事をこなそうと延々と時間を費やして苦労するなんて、なんと馬鹿げたことであろうか。
そんなことをやっている間に、経験のある老人でなければできないような慰めや理解を、若者たちにあげることができるのに。」

こんな奇跡的な偶然が写真に撮られたこともあるといいます(写真は実際に本に掲載されています)。

「『日々の読書』と題した写真に関して、特筆すべきと思われる偶然の一致がある。
その写真は、『日々の光』という小さな礼拝用の古典の、あるページを、彼がまるで物思いにふけっているかのように、静かに見つめている姿を写したものだ。
『日々の光』という本は、ただそのサイズが適していたために選んだだけで、いろいろ積み上げてあった中から取り、そのときの勢いで無造作にページを開いたものなのだが、後に現像されてみると、彼の小さなくちばしのさしている文章が次のような箇所だったことが判明した。
『スズメ二羽はまとめて一銭で売っているほどのものである。
しかしそういうスズメの一羽ですら、主の許しなしでは、地に落ちることもかなわないではないか(マタイ10章29節)。』
(中略)
これはいわば、彼の短い説教であり、懐疑と不安に満ちた人類への別れのメッセージとも思われる。
そういうものとして、私はこれを記そう。
『しかるに怖るるな!
汝らは多くのスズメにもまして価値あるものである(マタイ10章31節)。』」

英語の原著を取り寄せて読んでみたくもなりました。
この邦訳版をプレゼントしたい友人たちの顔も何人か思い浮かびます。
そして、なにより鎌倉の実家の両親にこの本を「読み聞かせ」してあげたい。
そんな幸福な読後感をもたらした本でした。

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