『痴呆老人』は何を見ているか?

「コミュニケーションという名詞には、コミュニケートという英語の動詞が対応しており、ラテン語のコミュニカレに由来します。

これには情報を共有する、という現代人が理解する意味と同時に、「共に楽しむ」という古義があり、「楽しい」という情動を共有するという含意があります。」
(大井玄、「『痴呆老人』は何を見ているか」より)

週末に同著を読みました。
最近の認知科学の成果や哲学、仏教(唯識論)などを総動員して、非認知症の人と認知症の人の間の<連続性>について論じています。

痴呆(大井さんは認知症という言葉をあえて使いません)には、アルツハイマーのような「脳組織変性」のものと、脳溢血の後遺症のような「脳血管性」のものとがある。
認知能力の低下という「主症状」と、うつ状態や妄想・幻覚・夜間せん妄などの「周辺症状」とは区別されなければならない。
そうしたことが、よく整理されていて納得感が高かったです。

そして周辺症状のない「純粋痴呆」は、老いの過程であって<病ではない>(老いは病ではない!)こと、周辺症状は周囲とのコミュニケーションによって緩和、縮減、無化されうるものであることが説明されています。
そこで、上のようなコミュニケーション論が展開されます。

だからこそ、介護に当たる周囲の者が「痴呆老人が世界をどう見ているのか」を知らねばなりません。
そして、それは非認知症の普通の人々が、自らが世界をどう認知しているかを知ることに繋がっていきます。
そこにある種の「連続性」が発見できたときに、両者の間にコミュニケーションが立ち上がる。
そしてそれが認知症患者に「周辺症状」の緩和をもたらす。

大井さんはこうも言います。
「痴呆状態にある人と心を通わすとは、記憶、見当職などの認知能力の低下によって彼らに生じる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、心穏やかな、できれば楽しい気分を共有することです。
そのためには、細かい行動学的観察に基づく個別化された接近方法が必要ですが、しかしまず、自分は彼らと連続した存在であり、彼らは実は『私』であるということを確信しなくてはなりません。」

この「彼らは実は『私』であるということを確信」するために、単なる思いやりや愛といった道義が説かれるではなく、主には認知科学が動員されています。
認知症でない我々も、いかに不完全な認知能力をやりくりして現実(世界)と折り合いをつけて生きているか、そのことがよく分かるような仕方で。

後半の「私とは何か」という章も読ませます。
「私はもう私ではないが私である」という「自己の現象学」。

①の私は、過去から現在までの経験を閲覧し、それによって変化し、過去現在を総括し、しかも未来という時間性にある私。
②の私は、大病を患う以前の健康に恵まれた私―健康に担保される諸能力は多分に利己的な目的に用いられる。
③の私は、病によって常識的な意味での健康と利己的な意味での能力を失ったが、それでも他者や社会に対し、本来の繋がりがあることを主張する私―そこには社会的有用性の自覚があるが、もはや利己的意図を削り取り、面目を一新した能力的装いがある。
と大井さんは説明します。

ところどころ、嫌米的で、日本賛美的な議論に流れるところが疵ですが、それもまた著者の「認知」の正直な発露なんでしょう。

両親にも、弟妹たちにも読ませたい本です。
皆様にもお勧めします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>