「体の知性を取り戻す」

「体の知性を取り戻す」(ユン・ウンデ著)を読了。

身体論系の本は大好物でいろいろ読んで来ました。
野口晴哉さん、竹内敏晴さん、甲野善紀さん、高岡英夫さん、内田樹さん。

こうした実践者、書き手は皆、私より年長の方たちでした。
甲野さんの弟子筋にあたるユンさんのこの著作を読んで、初めて自分よりも若い世代から身体論的な啓発を受けることができました。
とっても愉快!

ユンさんは「概念」という言葉を「しなければならないこと」と訳します。
そしてその「しなければならないこと」と現実との差異を否定的に自覚することを「実感」とし、それを梃子にしてあれこれ工夫する、そういった努力や進歩の筋を丸ごと否定します。

例えば、<立つ>とはただ立つことであり、<手を挙げる>とはただ手を挙げるということであるのですが、<ただ立つ>、<ただ手を挙げる>といったことが如何に難しいか。
<立つ>ことがいつのまにか、というかはじめから、「立つ」といった概念をなぞるような営みになってしまっている。
<手を挙げる>ということがいつのまにか、いやはじめから「手を挙げる」といった概念をなぞる所作になってしまっている。

原初の日本語が独自の文字と概念を生み出す前に、日本語は中国文明(の文字と概念)に触れてしまい、それゆえに日本語の体系において概念的思考は常に外国語(当初は中国語、後に欧米語)を借りて行うことになってしまいました。
日本語の独自の概念は「わび」とか「さび」とかいうような美学用語に僅かに存在するだけで、他の分野の概念は皆、外来語です。
私はそのことに日本語で思考する者としてある種のコンプレックスを持っていました。

しかし、ユンさんの指摘を経て、「概念」化された思考とは別の「体の知性」を使った「体の思考」というようなものがあるのかもしれないと考えるようにりました。
もしそうなら、日本語を思考言語としてもっているということには稀有なアドバンテージが潜んでいるのかもしれない。
<心で欲望し、頭で理解し、体で動く>ということ、つまり統合的に(魂として)生きるということの端緒に改めてつけた思いです。

いやはや、60年生きてきて、生きることの最も基本のツール(体と言葉)について若い世代からこんなにも根本的な啓発と問いを投げかえられるとは。
次の言葉を吐くにはまだちょっと早いのですが、これからもずっとこういう感慨を重ねて行きたいものだと思います。

<長生きはしてみるもんだ>

ユンさん、感謝!

http://nonsavoir.com/book20140918.html

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