グローバル研修

昨日今日と二日連続で横浜の日立SBさんの「グローバル研修」に出講。
メインメッセージは次のようなものでした。

特定の企業でだけ役に立つような人材は実はその企業でも役に立っていない。
同じように、日本でしか役に立たないような能力は実は日本でも役に立たない。
さらに、仕事でしか役に立たないような能力は実は仕事でも役に立たない。
結局、人生の役に立つような能力だけが仕事にも役に立ち、世界で役に立つような能力だけが日本でも役に立つ。
そして、世界で役に立つ能力とは英語力なんかのことではなく、母国語による思考力と母国語によるコミュニケーション力のことである。
だから、Think & communicate in japanese!

受け止めて下さった受講者の皆さんも偉いけれど、なによりこういう研修をさせてくださる日立SBさんが偉い!!

<個人が勝手にやる公共事業>

「小商いのはじめかた」(伊藤洋志著)を読了。
伊藤さんの本はこれで3冊目。
「ナリワイをつくる」=「人生を盗まれない働き方」
「フルサトをつくる」=「帰れば困らない場所を持つ暮らし方」
そしてこの「小商いのはじめかた」には次のような副題がついています。
「身の丈にあった小さな商いを自分ではじめるための本」
「日本劣化論」における笠井さんの次の結論を思い起こしました。
<独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助する>
笠井さんの言葉を真に受けたときに立ち上がってくる問い=「ではどこから、どのようにはじまるか?」、に対する一つの答えがここにあります。
笠井さんの本で問いが立ち上がり、伊藤さんの本で答えにめぐりあう。
そういうセレンディピティが嬉しい。
エピローグの中で伊藤さんが言っている次の言葉。
グッときてしまいました。
<小商いは『個人が勝手にやる公共事業』だ!>
大きくても小さくても自分の仕事を「勝手にやる公共事業」と言い切れるなんて、「そうこなくっちゃ!」という感じです。
アッパレ!

<独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助する>

「日本劣化論」(笠井潔×白井聡の対談本)を読了。

今年、2014年は第一次世界大戦の開始(1914年)から100年という年でもあります。
さまざまなところで、第一次大戦の意味を改めて問い、総括しようとする試みがおこなわれているようです。
そして1914年の国際情勢が不気味に現在の国際情勢に似ているという指摘も聞こえてきます。

というわけで、私も今、その類の本を並行して三冊読んでいます。

1:「日本劣化論」(笠井潔×白井聡)
2:「『反日』中国の文明史」(平野聡)
3:「第一世界大戦」(木村靖二)

白井さんは、近著「永続敗戦論」も評判になっています。
「永続敗戦論」は第二次大戦の「戦後」論。
私の読んできた本に限って言えば、次のような系譜に属するもののようです。

岸田秀「唯幻論」
→加藤典洋「敗戦後論」
→内田樹「ためらいの倫理学」、「日本辺境論」
→白井聡「永続敗戦論」

「日本劣化論」においては第一次大戦に遡った議論が行われています。
第一次大戦100年への興味から、「永続敗戦論」よりも先に「日本劣化論」を手にとりました。

前半をリードする白井さんのキレキレ具合にも感嘆しましたが、後半の笠井さんの近代全体を見渡すフレームワークのすばらしさに驚嘆。
白井さんは「反知性主義」が優勢になっている現在の趨勢を「劣化」と呼び、笠井さんは「倫理主義の観念的倒錯」を別種の「劣化」の例とする。

フランス革命が絶対王政を打倒しつつもその負の遺産たる「国家主権」からの解放をもたらさなかったこと。
「主権国家」が対等に決闘しあう権利としての「交戦権」が第一次大戦の反省から事実上否定され(パリ不戦条約)、以後戦争は「犯罪」になったこと。
しかし、その「犯罪」を無効化する(取り締まる)メタレベルの権威が存在しなかったために第二次大戦が起こったこと。
つまり第二次大戦はそのメタレベルの世界的権威=世界国家を造りだすための戦争でもあったこと。
しかし、戦後処理の中で半世界国家が二つ(米・ソ)ができてしまったこと。
国連もまた両国の拒否権のゆえに世界政府性を発揮できなかったこと。
冷戦の終結によって、アメリカが世界政府的役割を担おうとして国際警察行動に出たこと。
そのアメリカの衰退によって現在、<世界内戦>とでもいうべき事態が進捗しつつあること。

そうしたパースペクティブを提示した上で笠井さんは最後にそれへの対抗策として読者個々人にこう訴えます。

<とりあえずはグローバリズムと世界内戦の21世紀を、我々は生き延びていかねばならない。
そのためには、市場にダイレクトにアクセスできる独立生産者として自立することが必要になるでしょう。
20世紀後半に完成した福祉国家の時代のように、政府も会社も個人を守ろうとはしません。
国家や資本に身柄を預けるのはリスクが高すぎます。
それより独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助することを考えた方がいい。>

アナキスト系の思想家の面目躍如たる結論です。
うっとりしてしまう。

<独立生産者として自立し、自由に連合して相互扶助する>

指南力のある先達にまた出会ってしまった!
笠井さん、感謝!

「日本の身体」

「日本の身体」(内田樹著)を読了。内田さんが茶道家、能楽師、文楽人形遣い、合気道家、女流義太夫、尺八奏者、雅楽演奏家、力士、マタギといった人たちとの日本的身体運用について対談本です。

雅楽演奏家の安倍季昌さんが紹介する「秘曲」と呼ばれる演奏。
20年に一度、伊勢神宮の式年遷宮のときだけ演奏されるもの。
大神相手に音を立てずに演奏する。

「時々、「はあっ」という息遣いは聞こえるし、笛や篳篥(ひちりき)でもひゅうっという音が一瞬鳴ったり、普段はざあらんと鳴らす和琴がちゃらちゃら、くらいだったり、その程度の音は出ますので、まったくの無音ではありません」

そうか、そういう世界があるのか・・・、という感じ。
早川義夫の歌いだし直前の、また歌っている間のブレスの時に一瞬生じる沈黙の中の息遣いを思い出しました。
そこには、 歌っている間(あいだ)よりも歌っている、歌と歌の間(ま)に在る音の不在が在ります。

「秘曲」は、その不在だけで成り立っている歌、そうものなのでしょう。
決して「間延び」しない「間だけの間」。
安倍さんは、「神を感じるひと時」だったと述懐しています。

尺八奏者の中村明一さんが伝える「密息」という呼吸法も面白かった。
胸式呼吸より複式呼吸の方が深いとされていますが、その複式でも尺八には十分ではない。
尺八という「世界で最も効率の悪い管楽器」に対して、「静穏なまま大量の呼気を瞬時にオペレートする」ためには複式呼吸では足りない。
尺八には「一本の筒と化した身体の柔らかな深部を呼吸が往還する」が如き呼吸法が必要であり、それが「密息」。

やりかたも書いてあって、その通りすると、これが案外簡単に「ああこんな感じか」というところまでいける。
これも私の身体もやはり「日本の身体」である証拠なのかも知れません。
ただ内田さんの真骨頂は、こうした日本的身体運用を「世界に冠たる優れたもの」としていないところにあります。
昔、内田さんは「日本辺境論」でこう書いていました。

「アメリカ人はアメリカ人に固有の仕方で病んでいる。
日本人は日本人に固有の仕方で病んでいる。」

ここでも内田さんはオイディプス神話を解説してこう言います。

「身体運用は集団的な仕方で制度化されている。
(中略)
私たちの一挙手一投足は制度的に規定されている。
(中略)
人間の本質は合理的な生き方よりも、自由な生き方を選ぶ点に存する。
単一の正しい生き方よりも、正解の無い多様な生き方を選ぶ点に存する。
(中略)
変な歩き方をするもの、それが人間だ。
神話はそう語って、人間の身体運用の自由と多様性を祝福したのである。」

身体運用の仕方においても「日本人は日本人に固有の仕方で病んでいる」ことを内田さんはちゃんと認めている。
自分もまた、「武道と能楽という『変な歩き方』を日々稽古している」一症例であることを認める。
その文脈では、対談相手の各界の名人達こそ、ある意味、その「固有の病み方」における最たる症例だということになる。

しかし、同時に内田さんはその「固有に変な」身体運用の仕方を日本人が選んできた背景に日本に独特の「自然に対する心性」があるとし、そこに日本の未来の希望の根拠を見出します。
そのロジックもたいへん周到です。

まず、「文明崩壊」のジャレッド・ダイヤモンドに、江戸時代の日本だけが例外的に、森林再生の制度化に成功し、定常社会を成立させたと語らせ、かつダイヤモンドの次の言葉を引きます。

「江戸時代中・後期の日本の成功を解釈するに際にありがちな答えー日本人らしい自然への愛、仏教徒としての生命の尊重、あるいは儒教的な価値観ーは早々に、退けていいだろう。
これらの単純な言葉は、日本人の意識に内在する複雑な現実を正確に表していないうえに、江戸時代初期の日本が国の資源を枯渇させるのを防いではくれなかったし、現代の日本が海洋および他国の資源を枯渇させつつあるのを防いでもくれないのだ。」

この辛らつな表現を逆説的に踏まえて、内田さんは、ダイヤモンドが指摘する日本に過去あった例外的な「強み」が、まだ「負けしろ」として現代の日本にも残っていると言います。
そしてその「負けしろ」が残っており間に、新しい「定常社会」(=非成長社会)を再建すべきだと言います。

そのためには、自然に対する「日本的心性」の再建が先行しなければならないでしょう。
それについては、鈴木大拙の「日本的霊性」を引いて論じます。

「大拙によれば、『古代の日本人には、本当に言う宗教はなかった』。
古代人にももちろん素朴な宗教性はあった。
だが、それは万葉集の歌が教えるように『山を愛し水を愛し、別れを悲しみ、戦いに勇み、男は女を女は男を恋い、慕い、死者を悼み、君を敬い、神々を畏れるなど、すべて自然人の心待ちが歌われている。
生まれながらの人間の情緒そのままで、まだひとたびも試練を通過していない。
全く嬰がい性を脱却していぬといってよい。』
(中略)
『物質に恵まれ、政治権力に近づき得られる貴族で固めた文化財の中からは、宗教は生まれぬ。
霊性は湧き出さない。
美しい女の子が生まれないで、尊貴の身辺に近づけぬ悩み、位が上がらないので威張れぬ悩み、文芸の才が無く男振りが良くないので異性にもてはやされぬ悩みーそんな悩みくらいでは宗教は生まれぬ。』
そして、鎌倉時代に至り、自然と直接向き合って生きる人間たちが登場して、霊的嬰児や柔弱な貴族に代わって精神生活の主人公になったときに、日本的霊性はついに発動する。
『人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。
人間はその力を大地に加えて農作物の収穫に努める。
大地は人間の力に応じてこれを助ける。
人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。
誠が深ければ深いだけ大地はこれを助ける。
大地は偽らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。』
(中略)
『大地に足が着いて』はじめて人は霊性の湧出を経験する。
それが大拙の仮説である。
『それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間ーすなわち農民の中から出るときに、最も真実性をもつ。』
(中略)
鎌倉武士が平安貴族に代わって支配者になった理由を大拙は歴史家に抗って『武家に武力という物理的・勢力的なおのがあったためではない」と言い切る。
『彼らの脚こんが、深く地中に食い込んでいたからである。
歴史家は、これを経済力と物質力というかも知れぬ。
しかし、自分は大地の霊という。』
(中略)
なぜ長々と大拙を引いたかというと、私たちが現在「日本の伝統的な身体文化」と呼んでいるものは、その核心部分は、鎌倉期発祥のように私には思われるからである。
武道がそうである。
能楽がそうである。
禅と念仏がそうである。
いずれも人知を超えた圧倒的な自然力、超越的な力を身体を通じて発動させる。
身体を『大地の霊』に供物として捧げる。
その任に堪えるものへと身体を整えること、それが『修行』である。」

あ~、やっと「身体論」に戻ってきた。
長かったな~・・。

内田さんは、身体論を介して日本人論に進み、鈴木大拙を引いて「日本的霊性」に遡行する。
柄谷さんは、柳田国男の「固有信仰」を介して本居宣長の「古の道」に遡行する。
流儀の異なる二人が、しかし、その遡行の目的と長さと方向性において響きあうことを語っているように私には思えます。

柄谷さんの「遊動論」と内田さんの「日本の身体」を前後して読むことができたこのセレンディピティを自ら寿ぎたいと思います。

「遊動論」

「遊動論」(柄谷行人著)を読了。

ここのところ、飛行機だの列車だのバスだのに乗っている時間がずいぶんあったので、ツンドク本の消化がだいぶ進みました。
備忘もかねてメモします。

で、まずは「遊動論」。
柄谷さんが日本のポストモダンを牽引していたころからのファンです。
今、思想界は「ポスト柄谷」の時代へと移行しているようにも見えますが、なんのなんの柄谷さんの疾走ぶりは衰えていない。
やっぱりこの人は本物だ!

「遊動論」は柳田国男を論じたもの。
柳田国男が受容され、かつ批判され、かつ過去の人になろうとしていること、その全体についての強烈な批判となっています。
読んでいて、柳田国男が柄谷さんにかぶってきます。
ああ、柄谷さんは「自分のこと」を書いているんだなー、という感じ。

柳田国男の<山人>についての次の言葉。
「(自分が)無闇に山の中が好きであったり、同じ日本人の中にも見ただけで震える程嫌な人があったりするのを考えると、唯神のみぞ知しめす、どの筋からか山人の血を遺伝しているのかも知れぬ」(→あ、私と一緒だ!)

柳田国男が<山人>への言及から離れて<島人>をテーマにするようになってからの次の言葉。
「ゆえに今もし沖縄の学者たちが、ひとたびこの大小孤島の比較に徹底して、一方には目下自分たちの知友親族等の悩み患うるところのものは、以前久しく微少なる諸族島が、痛烈に味わっていたところの不幸と同じものであったことを知り、さらに他の一方にはそれがまた、この日本という島帝国全体の、行く行くまさに陥らんとするところの惨状を探り治術の要点を見出すことに率先したならば、彼らの学問の光は一朝にして国の光となり、ついには人間界の最も大いなる希望も、これに伴って成長するに違いない」(「青年と学問」)

「青年と学問」は昔、学生時代に読んだんだけど、内容は全く覚えていない。
柳田はここで、<世界の中での日本>と<日本の中での沖縄>と<沖縄の中での諸孤島>との関係が相似形であると言っています。

そして、そこにある苦悩を<世界苦>に対して<孤島苦>と呼び、こう言います。
「諸君の所謂世界苦は、よく注意してみたまえ、半分は孤島苦だ」。

自分の苦悩が<孤島苦>であることを理解したうえで、その<孤島苦>の療術を<世界苦>の療術へと繋げていくこと。
それが出来なければ、「我々は、公平を談ずる資格が無い」(ジュネーブの思い出」)。

柄谷さんは「互酬的贈与関係」、「互酬的交換形式」からの離陸、「純粋贈与」への離陸がなった社会を希求している。
そのような社会の社会構造を生成し条件付ける交換様式、交換形態、つまり「世界宗教が神の名で命じる」<愛>のその唯物的形式を希求している。

それがなぜ必要なのかということ、それを一貫して求めた先駆者として柳田がいたこと、それを次ぐ志を柄谷さんが持っていること(協同組合運動へのコミット)、そこまでは分かった!
で、そこから先。

柄谷さん、柳田さん、分かりました。
私もひとつの<孤島苦>を抱く者として、<孤島苦>の療術を<世界苦>のそれに繋げるべく、生きていきたいと思います。
そして、早く「公正を談じる」資格を有する者となって、「贈与」の「互酬」性の「呪い」から解脱し、<愛>の一つの唯物的表現形式となっていきたいと思います。

柄谷さん、柳田さん、Thanks!

「働く幸せ」

「働く幸せ」(大山泰弘著)を読了。

著者は日本化学工業という会社の経営者。
本社は東京都大田区、基幹工場は神奈川県の川崎市にあるチョークメーカーです。
障害者、それも知的障害者を多く雇い入れて成功していることで有名。

川崎工場:47人の社員33人が知的障害者、内22人が重度。
健常者の大半が事務職で、工場で働く健常者は3人だけ。

障害者を一定割合雇用して手続きをすると「最低賃金」の指定解除を受けることができる。
でも、あくまでも「指定解除」を受けずに、「最低賃金」以上の報酬を払いたい。
そのための工夫がかえって工程改善や付加価値の高い商品の開発に繋がっていく。

なにより、障害者が体中で表す「働く幸せ」が、健常者や大山さん自身に伝わってきて、会社中が「働く幸せ」で充ちていく、そのプロセスに泣かされました。

入社したての障害者が、暴れて机をひっくり返し、出来たばかりの製品を壊してしまう。
入社時の約束どおり、社長は本人を家に帰す。
でも、親御さんには「待っている」と伝える。
大山さんはこう言います。

「私たちは待つことに意味があると考えています。
例えば、毎週のように行動障害を起こていた社員が2週間に1回、3週間に1回というふうに、少しづつでも変化しているようであれば、本人が成長したととらえるのです。
(中略)
そして、待ち続けることで、確実に彼らは成長していくのです。
(中略)
何度家に帰されても、会社に戻ってくるKさんの『思い』を大事にしたかった。
私は張り切って仕事をしているKさんの姿を知っています。
実にいい目をしているのです。
(中略)
『息子が、もうしませんから、母さん、社長さんに電話してと泣いて頼んでいます。
なんとかもう一度受け入れていただくわけにはまいりませんでしょうか。』
(中略)
『一緒に頑張っていきましょう。
明日、楽しみにお待ちしています』
(中略)
以前は、誰かが制止するまで暴れ続けていましたが、あるときから、暴れている途中に気づいて、自分の力で止めることが出来るようになりました。
そして、『また、やっちゃった・・・・、ああ、また帰らないといけない・・・』とつぶやくのです。
(中略)
私は、彼の内面の葛藤を想像しました。
自分ではどうにもならない衝動と、働きたいという思い、彼はその両者の間で必死に戦っていたのです。
(中略)
こんな状態が、5~6年ほども続いたでしょうか。
Kさんは次第に落ち着いて仕事に取り組めるようになっていきました。
ついには鎮静剤も不要になりました。
『働きたい』という思いが勝って、彼に『忍耐力』がついていったのでしょう。
自分の抱えているハンディキャップを乗り越えたのです。
(中略)
今も、Kさんは働き続けています。
あんな暴れて、何十回も帰された人とは思えないくらい、表情はとても和やかです。
それどころか、新入社員のめんどうをとても親切にみてあげるほどに成長しました。
あんなに人にやさしく出来るのは、自分が苦しみを潜り抜けてきたからではないかと思います。
周りの社員との関係も親密です。
”嵐”をともに乗り越えたからでしょう。」

Kさん、偉い!
大山さんも偉い!
社員の皆さんも偉い!

私もKさんのように、自分の中の”嵐”と闘って、その「苦しみを潜り抜け」て、「あんなにやさしく」できる人になりたいです。

Love & Work!

「私は私になっていく」

「私は私になっていく」(クリスティーン・ブライデン著)を読了。

著者は46歳でアルツハイマーの診断を受け、3年後に前頭側頭型認知症と再診断を受けた方。
診断当時彼女はオーストラリア政府内で要職に着き、かつ9歳から20歳までの3人の娘のシングルマザーだった。
診断後(!)、大学に入りなおし、結婚し、認知症支援ネットワークを結成し、二冊の著書を執筆し・・・・(凄い!)。

最初の著書のタイトルが「私は誰になっていくの?」。
そして、二冊目のタイトルが「私は私になっていく」。

このタイトルに「ガツン」とやられてしまいました。
還暦を前にした私の目標も「私になる」というものです。
まさに「同志」を見つけた!という感じ。
しかも、その同志が認知症をもっておられるなんて!

認知症予防の本、認知症介護の本はいろいろ読んできました。
それらの本から学んだことは「我々人間は程度の差こそあれ皆、認知症だ」ということです。
だって、完全な認知力を持っている人などいないのですから。
この本は著者が認知症を患っている本人であるというところが私にとって新しかったのですが、「我々はみんな認知症」という感じは、確信に変わりました。

著者はこう言います。
「私たちは必死で話そうとしているのだけれど、文法も語法もめちゃくちゃな、支離滅裂な話になることが多い。
どうか、私たちが伝えようとしているその思いを汲み取ってほしい。
話を聞いてくれている、わかってくれているという感覚を得ることで、私たちは自分が尊重されている、あなたと繋がっていると感じるのである。
これが、脈略のない考えやバラバラになった自己と向き合っている私たちに必要なことだ。
(中略)
うまく言えないからといって、私たちには言いたいことが何もないわけではない。
私たちの考えや言葉はもつれ、こんがらかっているので、あなたは言語以外のヒントに注意して、聞き上手にならなくてはいけない。
(中略)
私たちが適切な言葉や文章を見つけようと苦心している時、それをすぐに言ってしまわずに、私たちが教えてほしいと思っているかどうかを確かめてほしい。
間違いを指摘せず、ただ私たちが何を言おうとしているかを理解しようと努めたほしい。
私たちが考ええているときは邪魔をせずに待ってほしいが、私たちが何かを思いついた時に、あなたの話をさえぎって喋ることをどうか許してほしい。
待っている間に自分の思いついたことが消えてしまうからだ。」

これは第3章「私たちがしてほしいこと 認知症とのダンスを踊るパートナーへ」の一節。
妻に読んで聴かせたら、「これは私の言いたいことそのものだ」と言われました。
そうじゃないかと思ったんだ。
それ以降、夫婦のコミュニケーションの次元が一段上がったように思います。
Thank you Chrisine!

認知症と診断されるとその瞬間から「認知症患者」になってしまい、ケアの「対象」になってしまう。
彼女はそのことと闘い、「自分は認知症患者ではなく、認知症を持つ一人の人間で」であり、ケアの「対象」ではなく、ケアする人のパートナーである。
自分は「認知症患者」ではなく、「認知症とダンスを踊る」者である。
だから、ケアする人には「共にダンスを踊るパートナー」になってもらいたい。
彼女はそう言います。

認知症そのものとの闘いに加えて、彼女が「認知症業界」とでもいうものと闘わねばならなかった。
しかし、その闘いが彼女を鍛え、結局それが彼女の新しい「使命」となっていく。
そして、その「使命」を介して、認知症よって「自分が壊れていく」のではなく、「自分になる」ことができるのだということを発見する。

2104年もまだ半分たっていませんが、この本は私にとっての今年の「Best1」間違いなしです。
今は妻が読んでます。
80歳を越え、認知症の影におびえる実家の両親にも読んでもらおうと思っています。

「働く。なぜ?」

「働く。なぜ?」(中澤二朗著)を読了。
まもなく、6月。
クライアント企業の新人研修も最後の1月になるところが多い。
6月末の〆のタイミングで総括のための研修に出講することになっています。
レジュメは完成しているのですが、受講者に読ませたい推奨図書を物色していてこれに遭遇しました。
日本型経営~人材育成についてオプティミックに過ぎる印象はありますが、立論は鋭いというよりも深く、なによりもテーマに対する著者本人の真摯な問題意識が伝わってくるところがいい。
つまりは、「働く。なぜ?」という問い、その?は著者自身の?でもあるということでしょう.
著者は見田宗介、小池和夫両先生の弟子筋にあたる方らしい。
私も両先生のファンです。
これも一種の「引き寄せ」でしょうか?
見田さんの戦後の日本社会についての有名な分析。
<理想の時代→夢の時代→虚構の時代>を論じて、著者は新たな時代が始まっているとします。
<理想の時代→夢の時代→虚構の時代→使命の時代>
これからは<使命の時代>だ、と。
「今、世界で最も熱い『現場』」(関満博)である東日本大震災の被災地を有する日本はその全体がまるごと「課題先進国」という名の最先端=フロンティアである。
だから、「今の、目の前の課題」に取り組むこと自体が未来を切り開くことになる。
それににまっすぐに取り組むために必要なのは「仕事観の成熟」→「使命の引き受け」である。
成熟した仕事観を持っていないのは決して「今時の若者」だけではない。
だから、「働く」者すべてが、「働く。なぜ?」という問いから始めて自らの「仕事観」を成熟させなばならない。
そういうメッセージを受け取りました。
あれっ?、それって6月の新人研修の〆で私が発しようとしたメッセージそのものじゃないか!?

「アンシンク」

「アンシンク」(エリック・ウォール著)を読了。
インナー・チャイルド(内なる子供)という言葉がありますが、著者はそれとインナー・アーティスト(内なるアーティスト)を区別し、ジェフリー・デイビスの言葉を引いて、こう言っています。
「郷愁に誘われて『失われた子ども』を取り戻そうとしたり、『内面の子どもを見つけようとてはいけない。
私たちは子供ではなく、大人として生きているだから。」
インナー・チャイルドとインナー・アーティストの違いはなにか?
一読してこう考えました。
前者は大人の中の子供性の残り火のようなもの。
一方、後者はむしろ子供の中に憧れとしてある大人性を大人になってから再発見して、本当の大人になること。
早川義夫が「ラブジェネレーション」の中で歌っている次の言葉と響きあっている。
♪大人っていうのは、もっとすてきなんだ 子供の中に 大人は生きてるんだ♪
だからこそ、内なるアーティスト性は、狭義のアート(職業としてのアート)だけではなくて、いわゆるビジネス一般にも発揮できる。
だって、ビジネスこそ、大人の仕事なのですから。
「仕事論」部分を一部抜きだしてみましょう。 こんな感じです。
「仕事に自分を乗っ取られてはならない」
「仕事は自分が理想の人間になるための手段だ」
「私たちは最初に生涯の仕事を見つけてから次に自己形成していく」
「仕事とは自分の心を豊にするのに最も影響を及ぼすもののひとつだ」
「画家がキャンバスに絵を描くとは、色を塗って絵の具を少しづつ減らしていくことだ。
絵がどのように見えるかは、チューブから絞った少量の絵の具の積み重ねで決定される。
毎日の仕事も絵画と同じで、着々と描かれていく。
問題はそれが、家族、友人、同僚の心の壁に掛けるにふさわしい特別な絵なのか、それとも一年に一万回も印刷されている安物の複製画か、ということだ。」
「どんな仕事にも骨折り仕事は含まれている。 問題は仕事に意味があるかないかだ」
結局、内なるアーティストを生きるとは「自分になる」ということなのでしょう。
自分とは、インナー・チャイルドを「探し」て「見つける」ものではなく、インナー・アーティストを発揮して「なる」ものである。
「自分を探す」のではなく、「自分になる」。
「あなたには、この地球にいるほかの人間にはないひとつの有利な点があります。 あなたという人間はあなたしかいないということです。 本当の目標とは仕事ではありません。 仕事を通してあなたの独自性を表現することです。」
Love & Work!

「マラソンは上半身が9割」

「マラソンは上半身が9割」(細野史晃著)を読了。
ランニングは物理学×解剖学だと細野さんは言います。
そして、走り方に係る物理学とは「重心」論であり、解剖学とは「姿勢」論です。
その両者を踏まえると、「下半身は動くもの」で「上半身は動かすもの」。
だから、「上半身が9割」。…
なかなか説得力のある議論で、すっかり感心してしまいました。
「姿勢が大事」ということは類書も等しく論じるところですが、この本は「走る姿勢」つまり「ランニングフォーム」のことだけではなくて、「人の姿勢」全般、立つ姿勢、歩く姿勢といった「走る姿勢」の手前の姿勢に遡及していて、かつそれを正す方法についても丁寧に論じています。
しかも、ランニング外での矯正方法とランニングそのものによる矯正方法とが両方とも説明されている点、類書にない特色だと思いました。 「姿勢論」の本としてもお勧めしたい本です。
また「学び方」や「教え方」といったメタレベルの記述にも教えられるところが多く、私にとっては、身体の修行と仕事の両方についてためになる本でした。
細野さん、Thanks!