「リーダー研修」

某クライアントでの研修に出講。
タイトルは「新リーダー研修」。
今回はちょっとスキル寄りの内容にして、「PDCA」と「HRS」(報連相)を取り上げました。
どちらもなくてはならないものだと考えられているのに、うまく機能させている人がほとんどいないという不思議なメソドです。
で、そもそもそれは何で(What)、なぜ大切で(Why)、どうしたら機能させることができるか(How)を明らかにしていくという展開。
新リーダーへの最終的なメッセージは次のようなものです。
『「チーム」は初期値においてはグループに過ぎない。… グループをチームにすることによって「チーム」は<チーム>になる』
『「リーダー」がリードするのではない。 リードする人が<リーダー>なのである』
『グループを<チーム>にするための唯一の方法、それは「リーダー」が<リーダー>になることである』
しっかり受け止めていただけました。 ヨカッタ!

舌トレーニング

山下久明さんの「背すじは伸ばすな」が新書化されたので再読。

とってもいい本なので、最近クライアントに贈呈しています。

そのクライアント(某上場企業社長)からお礼のメールを頂いたので、それに対して再度返信しました。

以下はそのメールのコピペです。

******

お忙しい中、メールをいただき、ありがとうございました。
舌トレーニングがお役にたつことを希望いたしております。
まずは顔の形が変わっていくことをご実感いただければその後のトレーニングのなによりの励みになると思います。

活き活きの「活」は<サンズイ(=水)に舌>と書きます。
これは「唾液が十分にでて、舌が、つまり口腔が十分に潤っている様」を表しているようです。
唾液を十分に出すためには、舌が口腔の上側に張り付いていなければなりません。

逆に、「乱」は「舌が垂れ下がっている様」を表します。
舌を口腔内の下にたれ下げると、よろずのものが「乱れる」ということでしょう。
漢字という文字は本当に良くできています。

特に、食事の際には十分に咀嚼して食物を液体化し、それを唾液と十分に混ぜてから嚥下することが大切だと感じております。
舌トレーニングはそうした正しい嚥下を実行するためのものでもあります。

山下さんは「舌=口腔こそが消化器官であり、胃腸は吸収器官である」とまで言っています。
そして昨今では「胃腸は第二の頭脳である」ともいわれるようになりました。
であればこそ、胃腸に本来の脳としての機能を十全に果たしてもらうためにも、山下さんがいうように舌に消化器としての昨日を十全に果たしてもらわねばなりません。

普段からの口腔内の置ける下の位置、食事の時の咀嚼~嚥下の方法、そうした基本的なことが実は何もわかっていなかった。
そういう想いにあの本を通して私は導かれました。
とはいえ、それは逆、そうしたことがちゃんと分かって実践できれば、私の身体はまだまだ伸びシロを持っているということでもあるはずです。

社長が常日頃おっしゃっておられる「正しいことをする」ことが、企業の「成長の源泉そのもの」であるということとそれは同じことだと思います。
それを自分の身体で証明すること、それもまたコンサルタントとしての私の使命であると確信いたしております。

単に「若さを保とう」とするのではなく、「いっそう健康になろう」とする。
身体論と経営論にまたがる、私のそうした願いとそのための実践の成果をまたお見せできる機会があるように念願いたしております。

グローバルリテラシー研修に出講

昨日は日立SBさんに研修で出講。
同社での4回目の「グローバルリテラシーセミナー」です。

Globalization(現象)とGlobalism(イデオロギー)との違いというところから説き起こして、我々はGlobalist(主義者)ではなくてもGlobalizationには対応しなければならないという認識を立ち上げる。
ちょうど、攘夷論者が倒幕の果てに開国して日本の近代化をリードしたように。
資本<主義者>ではない、我々が資本制生産体制の下で企業活動をしているように。

問題は、Globalistでない者がGlobalizationに関してGlobalistである者と競い合って互角以上の戦いをするためはある種のアクロバシーを必要とする、ということ。
それはどのようなものか?
どのようなものではないか?
といったことを一緒に考えました。

英語力の不足といったことに問題を矮小化することなく、母語による思考力を鍛えて磨き上げ、母語によるコミュニケーション力の次元を上げる。
日本でしか役に立たないことは日本でも役に立たなくなる。
ちょうど、「ある会社でしか役に立たないようなことは、実はその会社でも役に立ってはない」のと同じように。

だからこそ、本当に日本で役に立つ人材になれれば、それは即グローバル人材でもある、とも言える。
「ある会社で本当に役に立っている人は、どの会社に行っても役に立つ」というのと同じように。

白熱の議論ができとても楽しかったです!

「情報社会の情念」

「情報社会の情念」(黒瀬陽平著)を読了。

著者が友人の縁者で、「面白いから読んでみて」的に回ってきた本です。
で、読んでみたら・・・、「面白い!!」。

アート、それもオタク系のそれを主戦場にした事柄についての書かれたものなので、フィールドとしてはOut of 興味な分野のものなのですが、そこに伏流する問題意識の深さ、関連付けられている事象の幅広さに目を見張りました。

創造者=神を主語とする文脈で用いられてきた、英語のCreateという動詞が、Creativeという形容詞を派生させ、Creativity(=創造性)という抽象名詞として定着するのは、な・な・なんと20世紀になってからである、といった指摘(知らなかった!)。

携帯やスマホ上のソーシャルゲームにおいては、ユーザーが朝の通勤電車のの車中で「これ面倒だな」と感じたステージが、昼休みには改善されている。
それは、ユーザーにゲームを始めてもらうことよりも、続けてもらう=止めさせないための「離脱率抑制」の仕組みこそが、今のゲームの存亡を分ける鍵であるから。
それこそが「運営の思想」であり、コンテンツに対するプラットフォーム=環境の優位であり、そこにコンテンツクリエーターの新たな疎外が存在するといったこと(全く、知らなかった!)。
ゲーム論そのものには関心がないんですが、「運営の思想」、プラットフォームの優位といったワーディングの切れ味には感嘆しました。

この本がいう、「クリエイティブの条件」とは、ビッグデータ時代におけるデジタルコンテンツのクリエータがクリエイティブであるための条件といったものではない。
アート一般にさえ留まらず、ビジネスにけるCreativityの条件一般、人生におけるCreativity全般に通じる「条件」について書こうとしている、ということが伝わってきます。
若い著者のそうした野心、志に感動しました。

成果というコンテンツを生み出さねばならない産業人にとって、会社というプラットフォーム、さらに大きくは資本主義社会といったプラットフォームの優位性と、その下で生じている新しい疎外、そしてそれとの闘い。
Manegimentという名の「運営の思想」。

私の仕事が、そうした情況の中で、Creativityの条件を育む方向のものでありますように。

Let it be so!

頭からぶっつかって行く

「相撲」というスポーツの特殊性について、内田さんの本にあったことを読んで、思い出したことがあります。
次の場所、休場が決まった日馬富士が横綱になったとき、TVであるインタビューアが貴乃花親方にこう質問しました。

「日馬富士は入門時にはあんなに小さかったのに、なんであそこまで大きくなれたんですか?」

それに答えて、貴乃花親方曰く、
「相撲というのは、唯一、頭と頭をぶつけ合ってする競技です。
頭と頭をぶつけ合うといったことを毎日の稽古で行っていると、身体の方が『もっと大きく、強くならなければいけない』とわかって、『大きくなろう、大きくなろう』とするんです。
だからあんなに大きくなる。」

元々大きい人が、たくさん食べるから、さらに大きくなって、ああなる、というんじゃない。
「大きくなって、強靭になって、自分の身体で自分を守れるようにならないと生きていけない」と、身体が、身体で分かる程に、身体に教える、そういう稽古をしているんだ、ということなんでしょう。

内田さんが言う、「たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについても、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム」というのはそういう稽古のことなんだと思います。

私も、<頭からぶっつかっていく>ことを毎日の習慣としたい。
自分の身体が「生きるとはそういうことだ」と憶えてしまうまで。

「青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたようにはげまして行け」
(宮沢賢治、「春と修羅」より)

「街場の憂国論」

「街場の憂国論」(内田樹著)を読了。

ツンドク本の山は高くなる一方なのに、内田さんの本はどうしても優先的に読んでしまう。
困ったものです。

引用したいフレーズがテンコ盛りなので、それにも困らされますが、今回はここの部分にしておきます。

「人間たちが集団的に生き延びていくためにほんとうに重要な社会制度は『誰でもできるように』設計されている。
そうでなければ困る。
例外的に卓越した資質を持っている人間にしか社会制度の枢要な機能を担い得ないという方針で社会制度が設計されていたら、とっくの昔に人類は滅んでいただろう。
以前大相撲の力士をしていた方から不思議な話を伺ったことがある。
彼は、『相撲取りというのは、ある程度身体が大きければ、誰でもプロになれるのです』という驚くべき事実を教えてくれた。
『サッカーや野球であれば、生得的に高い運動能力を持っていなければプロにはなれません。
でも、相撲は違う。
生得的資質が凡庸であっても、プロになれる。
とてつもなく強くなれる。
そうなれるように相撲の身体技法は合理的にプログラムされているのです」
私は驚き、その後深く納得した。
(中略)
相撲において最優先するのは『たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについても、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム』を次世代に継承することである。
(中略)
『決して失われてはならぬ制度については「その気になれば、誰でも十分にそれを担う資格がある」ように構造化されていなければならない』という人類学的知見には深く同意する。」

私の仕事は企業の人材育成のお手伝いです。
その際にいつも言ってきたのはこういうことです。

「私は天才と病人は助けない。
天才は助ける必要がないし、病人を助けるのは医者の仕事であるから。
私が助けたいのは<普通の人>である。
<普通の人の普通であることの閾値を高めること>、私はそれを使命と考えている」

「たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについても、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム」が必要なのは力士だけではないでしょう。
すべての産業人のためにもそれは必要です。
たとえ生得的な資質において凡庸な者でも、プロになれて、ポテンシャルを爆発させることができるという仕方で構造化されている必要がある分野とは、<仕事>という分野そのものであるからです。

Fight, 自分!

「借金人間製造工場」

「借金人間製造工場」(マウリツィオ・ラッツアラート著)を読了。

国家の負債(財政問題)が薄気味の悪いしかたで積みあがっています。
国家にしても、企業にしても、そして個人にしても、借金を返すことが存続条件であり、そのためには新たな借金をすることが存続条件であり、その存続条件がいつしか、存在理由そのものであるような状態がいつのまにか生じてしまいました。

<人は何ゆえに働くのか?>
という貴重な問いへのリアルな答えが、
<借金を返すためである>
ということになってしまっている、としたらそれはとっても残念なことです。

「新自由主義の行動は、経済と主体性、『労働』と『自らに働きかける労働』といったものに同時に―しかし無差別的に―かかわるのだが、とりわけ自分を自分の経営者になるように仕向ける。
つまり、企業や国家が社会のなかに外部化するコストやリスクを『自分自身の身に引き受ける」ようにすることだ。
『自らに働きかける労働』が、解放的な『労働』として、喜びや自己実現、社会的認知、生の新しい形態の実験、可動性といったものをもたらすという約束は、それと引き換えに企業や国家が引き受けようとしないリスクやコストをわが身に引き受ける、という至上命題とセットになっている。」

久々に、レフトウィングからすごい球が飛んできたなー、という感じ。
私の仕事も広義の「労働倫理」の再構築を目指すものです。
だから、自分の言説の隠れたイデオロギー性については鈍感であってはならない、ということを思い起こさせられました。

「外部にいる者に何を語りうるか」

「ゆかいな仏教」(大澤真幸×橋爪大三郎)を読了。

同じ<大澤さん×橋爪さん>の対談本、「ふしぎなキリスト教」もたいへん面白かったですが、この「ゆかいな仏教」もとっても楽しみました。
いい本だ!

キリスト教について、大澤さんはこう言います。
「日本だけは、ずっと、そしておそらく現在も、キリスト教にとって、圧倒的な周縁に留まってきたわけです。
日本人は、世界で一番、キリスト教を知らない国民だといっても過言ではない。」

とはいえ、キリスト教が「ふしぎ」なのは日本人がキリスト教を「知らない」からではありません。
その一方で、「近代社会を成り立たせている制度や文化が前提にしている多くのことが、当事者も意識することなく、キリスト教的な感性や前提を世俗化して活用している」からです。
民主主義しかり、主権という概念しかり、人権思想しかり、近代法のあり方しかり、契約の思想しかり・・・。
だから事実上我々日本人は「キリスト教の<利用技術>」についてはずいぶんのことを知っており、それなしでは生きていけないという状況を生きている。
しかしその<利用技術>の背後にある<原理原則>については実は何も知らない。
つまり、日本人はキリスト教のことを「知らないままそれに依っている」。
「知らしむべからず、依らしむべし」というコンセプトの下で統治されてきた江戸時代の日本人と同じしかたで生きている、ということなんでしょう。

では「仏教」については何が言えるか?
「キリスト教の場合とは、状況は逆である」と大澤さんは言います。

仏教については、キリスト教と違って、日本人はある程度知っている。
かなりのイメージをもっている。
「しかし同時に、日本人の大半は、仏教について、最も肝心なことを知らない。
仏教とは、いったい何を目指すムーブメントなのか?
仏教は世界をどうとらえているのか?
仏教を信じるとは、どんな生き方を意味しているのか?
そうしたことについては、ほとんど何もわかっていない。
『お経』という語が、『わけのわからないこと』、『ちんぷんかんぷん』の代名詞にな使われているくらいだ。」

「多くの困難に直面している日本人に対して、仏教は、何か決定的なヒントや洞察を提供してきただろうか?
たとえば、3・11の津波と原発事故によって言葉を失った日本人に、仏教は、困難を乗り越えるための手がかりになることを示唆してきただろうか?
残念ながら、そうとは言いがたい。
仏教はほとんど関心がないかのようにふるまっている(ように見える)。
なぜだろうか?
どうして仏教はなんの反応も示さないのか?」

「仏教の方が自分たちに語りかけてこないのであれば、私たちの方から仏教に訊ねてみよう。
仏教よ、お前は何者なのか?
お前はどんなふうに考えてきたのか?
仏教よ、お前には世界がどんなふうに見えているのか?
仏教よ、お前はどんな実践を提案するのか?
・・・・・・そういうことを、こちらから尋ねてみよう。
むこうからすすんで語りかけてこないならば、こちらから、仏教に応答を迫ってみよう。
答えさせてみよう。」

「仏教の外部にいるものとして仏教に語りかける」ことの重要性について大澤さんはこうも言っています。
そのフレーズに一番、グッときました。

「普遍宗教の価値は、すでにその宗教に帰依している者にたいして護教論的に語る内容によって決まるのではなく、その宗教の外部にいる者にたいして何を語りうるかによって決まるからである。」

より少なく働き、よりよく働き、よりよく生きる

「身体を引き締める食べ方」(石川三知著)を読了。

石川さんはフィギャースケートの高橋大輔さんの食事のコーチをしている方。

石川さんの提唱する食べ方とは、主食:主菜、副菜類を重さの比で1:1:2で食べるというもの。

有名な「食事革命」が提唱する、炭水化物:たんぱく質:脂質をエネルギー比(カロリー費)で、4:3:3で食べるというのを思い出しました。
この4:4:3はエネルギーベースなので、これを実現するためには全部の食材についての栄養分析×カロリー計算が必要になります。
実際には毎日の食事になかなか使えない。

その点、石川さんの1:1:2は重さの比だし、主食:主菜、副菜類という大雑把な分類なので、とっつきやすいといえるでしょう。
こういうやりかたで、炭水化物:たんぱく質:ビタミン等のミネラルの摂取のバランスを、炭水化物↓、たんぱく質↑、ビタミン等↑へと誘導していこうという趣旨なんだろうと思います。
カロリー比より重量比の方が測りやすいのは当然ですが、とはいえ、重量比といっても食材の重量(調理前)なのか、料理の重量なのか(調理後)なのかといったあたりが曖昧だなーと思いながら読みました。
おそらくは調理後の重さなんだろうと思います。
つまりは「だいたいこんなふうに気をつけていると、まあまあこんなふうに調子がよくなる」といったアバウトな指南書になっている。

とはいえ、ご飯150グラム:お肉150グラム:野菜300グラムを毎食摂るというのはそう簡単なことではないでしょう。
いくつかレシピも掲載されていますが、個別のレシピがいくらあってもそうは役に立つとは思えません。

結局はご飯を減らして、肉もちゃんと食べる、が全体としては野菜中心といった食事なります。
里山に住んで、自家菜園で季節の野菜が豊富に採れるといった環境でないと、なかなか継続的な実践は難しいなー、と思いました。

これまでも、食事のあり方についてはずいぶん模索を続けてきました。
丸元淑生さん→ナチュラルハイジーン→マクロビオテック→無糖質ダイエットといろいろ試してみました。
その全てが今の私の身体を形作っています。
感謝!

人類はその誕生以来、ずーーと「食べ」続けているのに、未だに「何をどう食べるか」といったことについて決定的な知識を欠いている。
それが不思議といえば不思議、面白いといえば面白い。

今時点で、食事に関して私が学んだ一番確かなこと。
それは<我々は食べ過ぎている>ということです。

<より少なく食べ、よりよく食べる>
これが私の理想の食べ方です。

あれ?どこかで聞いたことがあるなー。
そうだ、アンドレ・ゴルツの「労働のメタモルフォーズ」の中のあの台詞に似ているんだ。

<より少なく働き、よりよく生きる>

もちろん、<より少なく働く>ことが<よりよく生きる>ことに繋がるためには、<よりよく働く>といったことが実現されていなければなりません。
<よりよく働く>とは、では、どういうことか?
これはつまり<働くことの≪よさ≫とはなにか?>ということでもあります。

食と働、この二つが私のなかでこんなふうに問題領域としての重なり合いを有しているのだということがよく分かりました。


Love & Work!

ポスト「あまちゃん」

「地方にこもる若者たち」(阿部真大著)を読了。
 
大都市と田舎の中間の地方都市に若者にとっての「ほどほどパラダイス」が存在している、と著者は指摘します。
大型ショッピングモールの登場とモータリゼーションの完成がそれを実現させた、と。
阿部さんは岡山市での調査を元に論じていますが、私も都城に行ったときに同じ現象を垣間見たので、たいへん納得感が高かったです。
 
80年代にBOOWYが、「地元への同化を拒否」するために「反抗」を唄う。
そこでは「夢」は「見る」ものであり、叶わぬ夢を抱く「自分」が「母性による承認」によって救い上げられていく。
まあ、「ヤンキー文化」ですね。
 
90年代に入ると、「同化」を強要する「大人の世界」が安定性を失い、若者がわかりやすい「敵」を喪失してしまう。
そこで、B’zは「夢」を「見る」ものとしてではなく、「叶える」べきものとして再定義する。
そこでは「反抗」ではなく、「努力」=「自己変革」が称揚される。
まあ、「自己実現」のモードですね。
 
90年代の後半にはミスチルが現れ、今度は「関係性」のなかでの「自己肯定」を唄う。
しかし、ミスチルまでは、その「関係性」は男女=恋愛に閉じていた。
 
21世紀に入ると、ヒップホップやジャパニーズ・レゲエが男女に閉じない、さらに開かれた「関係性」(新しい「公共圏」)について唄う。
そうした現状が現在の「地元」ブームと響きあっている。
これが阿部さんの見通しのようです。
なるほど!
 
いわゆる、ダイバーシティ・マネジメント論におけるダイバーシティ・マネジメントの4段階=拒否・同化・分離・統合という4段階説を引いて、阿部さんはこう論じます。
「大人」たちは未だ「同化」の段階にいる。
「地方にこもる若者たち」の方が「分離」の段階に進んでいる。
つまり、「統合」へと進む準備において、「こもる若者」たちの方にアドバンテージがあるのだ、と。
 
あと二日で「あまちゃん」が終わってしまいます。
ポスト「あまちゃん」を考える上で、とてもいいヒントをいただきました。
 
阿部さん、サンキュ!!