「遊動論」

「遊動論」(柄谷行人著)を読了。

ここのところ、飛行機だの列車だのバスだのに乗っている時間がずいぶんあったので、ツンドク本の消化がだいぶ進みました。
備忘もかねてメモします。

で、まずは「遊動論」。
柄谷さんが日本のポストモダンを牽引していたころからのファンです。
今、思想界は「ポスト柄谷」の時代へと移行しているようにも見えますが、なんのなんの柄谷さんの疾走ぶりは衰えていない。
やっぱりこの人は本物だ!

「遊動論」は柳田国男を論じたもの。
柳田国男が受容され、かつ批判され、かつ過去の人になろうとしていること、その全体についての強烈な批判となっています。
読んでいて、柳田国男が柄谷さんにかぶってきます。
ああ、柄谷さんは「自分のこと」を書いているんだなー、という感じ。

柳田国男の<山人>についての次の言葉。
「(自分が)無闇に山の中が好きであったり、同じ日本人の中にも見ただけで震える程嫌な人があったりするのを考えると、唯神のみぞ知しめす、どの筋からか山人の血を遺伝しているのかも知れぬ」(→あ、私と一緒だ!)

柳田国男が<山人>への言及から離れて<島人>をテーマにするようになってからの次の言葉。
「ゆえに今もし沖縄の学者たちが、ひとたびこの大小孤島の比較に徹底して、一方には目下自分たちの知友親族等の悩み患うるところのものは、以前久しく微少なる諸族島が、痛烈に味わっていたところの不幸と同じものであったことを知り、さらに他の一方にはそれがまた、この日本という島帝国全体の、行く行くまさに陥らんとするところの惨状を探り治術の要点を見出すことに率先したならば、彼らの学問の光は一朝にして国の光となり、ついには人間界の最も大いなる希望も、これに伴って成長するに違いない」(「青年と学問」)

「青年と学問」は昔、学生時代に読んだんだけど、内容は全く覚えていない。
柳田はここで、<世界の中での日本>と<日本の中での沖縄>と<沖縄の中での諸孤島>との関係が相似形であると言っています。

そして、そこにある苦悩を<世界苦>に対して<孤島苦>と呼び、こう言います。
「諸君の所謂世界苦は、よく注意してみたまえ、半分は孤島苦だ」。

自分の苦悩が<孤島苦>であることを理解したうえで、その<孤島苦>の療術を<世界苦>の療術へと繋げていくこと。
それが出来なければ、「我々は、公平を談ずる資格が無い」(ジュネーブの思い出」)。

柄谷さんは「互酬的贈与関係」、「互酬的交換形式」からの離陸、「純粋贈与」への離陸がなった社会を希求している。
そのような社会の社会構造を生成し条件付ける交換様式、交換形態、つまり「世界宗教が神の名で命じる」<愛>のその唯物的形式を希求している。

それがなぜ必要なのかということ、それを一貫して求めた先駆者として柳田がいたこと、それを次ぐ志を柄谷さんが持っていること(協同組合運動へのコミット)、そこまでは分かった!
で、そこから先。

柄谷さん、柳田さん、分かりました。
私もひとつの<孤島苦>を抱く者として、<孤島苦>の療術を<世界苦>のそれに繋げるべく、生きていきたいと思います。
そして、早く「公正を談じる」資格を有する者となって、「贈与」の「互酬」性の「呪い」から解脱し、<愛>の一つの唯物的表現形式となっていきたいと思います。

柄谷さん、柳田さん、Thanks!

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