二つの罠

早川です。

仕事を通じて幸福になるために仕事を通じて成長する=大人になる。
産業人として大人になるためにはちゃんとした「勤労観」が必要。
そこまできました。

「勤労観」をもつこと、もとうとすることには二つの罠が存在すると思います。
そのひとつは、答えが出るまで「働くことに手をつけない」、もしくは答えが出ないから「働くことをやめる」というもの。
もうひとつは、問いを持たずに、もしくは持つことを否定して「つべこべ言わずに働く」だけに終始するというもの。

社会全体が貧しいうちは大半の勤労者は後者に属し、社会に一定の財が行き渡り、あくせく働く必要がなくなると前者が増えます。
しかし、世の中が不景気になって食えなくなるとまた後者が増す。
こうした循環が長期循環、中期循環、短期循環の中で繰り返されているように見えます。
日本に例をとれば、近年のリテンション問題(新人の1/3が3年以内に会社を辞める)は前者の傾向がもたらしたものであり、08年末以来のリセッションは後者のトレンドを昂進させるでしょう。

しかし、仕事を通して成長し、大人になろうとする者にとってはどちらも罠になります。
「自分はなぜ働くのか?」という問いは「人はなぜ働くのか?」というメタレベルの問いを掘り下げるための補助線としては有効です。
前者の問いによって後者の問いは具体性と切実性を増すでしょう。
しかし、「自分はなぜ働くのか?」という問いが「自分は何かしたいのか?」、「自分にあった仕事は何か?」という自己実現系の問いに回収されてしまったら、問いが窒息してしまう。

幸いにもその問いに答えが見出せたとしましょう。
その場合でもその到達点は単なる自己実現でしかありません。
あなたが自己実現してもそれはあなたにとっての自己実現に過ぎない。
そしてそれだけでは人は幸福にはなれないようにできている。

不幸にもその問いに答えが見出せない場合はどうでしょう。
その結果もプロセスも「問いの深まりが成長そのものである」というようなリアリティをあなたにもたらすことはない。
つまりあなたは幸福になれない。
自己実現をGoalにしようとする思考は概してこういう隘路に私たちを誘導し、そして不活性化させてしまいます。

一方、「つべこべ言わずに働く」だけでも人は仕事を通して成長し、幸せになるという道筋から離れてしまいます。
人間はどうしても「つべこべ言う」。
それが封じられているだけでも不幸です。
仕事をすること、勤労、労働に関する悩みや葛藤を、自分自身の利害(自己実現を含む)を超えたパブリックな問いへと高めていく。
それが「働き方」という実践によってさらに鍛えられ行く過程、そこに仕事を通して成長し、幸福になるための契機が潜んでいる。

それに情況論的言っても、つべこべいわずにできる、単なる機械的勤勉さが必要とされるような内容の労働は、機械化されるか、労賃の低い海外に持っていかれるか、国内でもそのつど時価調達されるものになってしまっているのではありませんか。
労働市場のありようもまた、次なる葛藤へと我々を導いているのです。

Love & Work!

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