チュムリアップ・スオ!
お元気ですか?プノンペンは酷暑の4月を抜けて、雨季に差し掛かっているところです。もちろん、それでも暑いですけど。毎日稲光が走り、雷が鳴りま す。バンコク雷鳴は近所が爆撃されているかのような轟音でしたが、プノンペンの雷は今のところそれほどのものではありません。
先回は、バンコク、ヤンゴン、プノンペンの映画事情をお伝えして三つの都市、三つの国を比べてみました。今回は、街並みの差に注目してみたいと思います。題して、「三都物語(その2)街並み編」です。
道路網の作りという観点からしますと、バンコクVSヤンゴン+プノンペンというグルーピングになります。前者は魚の背骨のような幹線道路の左右に小 骨のような脇道(ソイといいます)が走っているという形状。ソイはたいてい行き止まりで、ソイとソイは繋がっていません。幹線道路には中央分離帯があっ て、Uターンできる場所が限られているために東に行くのに大きく西に迂回せねばならず、いったん曲がる場所を間違えたら、軌道修正は大変。世界に名だたる バンコクの交通渋滞も最大の原因はこうした道路網の形状にあります。
で、そういうバンコクの道路に慣れている身でヤンゴンに行くと、びっくり!ヤンゴンの道路網は、碁盤の目状になっていて、間違ったところで曲がって も、そのブロックを周回すれば、ちゃんと元の所に戻れます。幹線道路だけでなく、脇道の幅員も充分で、両側にびっしり駐車していても、通行に支障なし。や るじゃん、ミャンマー!という感じでした。
プノンペンはいいますと、道路の形状はヤンゴンに似ています。ちゃんと碁盤の目になってる。幅員はヤンゴンほどではないですが、その点はまずまずで す。バンコクみたいに、「こうなっちゃっいました」というふうではなくて、「こんなふうに作ってみました」という感じになってます。
この違いの背後にあるものは、植民地経験の有無でしょう。タイはまがりなりにも独立を維持し、植民地化を免れたので、外国勢力が都市計画を押し付け ることがなかった。その点、ミャンマーはイギリスが、プノンペンはフランスが統治していましたから、彼らの手による都市計画に基づいて、首都は整備された わけです。そう考えると、東京の道路網が複雑なのも、植民地化を免れたことの遺産なのかもしません。
歩道についてはどうでしょうか?バンコクの歩道は、「ウウーン、あることはある」といった感じ。歩道と車道の段差が大きく、まず、歩道に上がるのが 一苦労。車道と比べて歩道の舗装はいいかげんで、穴が開いていたり、ブロックが浮いていたり、それを踏んだら水が噴出してきたり・・・。なぜか、公衆電話 や配電盤が歩道を途中で完全に塞ぎ、通せんぼ。犬の糞はあるし、犬が死んだように寝てるし、屋台の鍋では油がぐつぐつ煮えてるし・・・・、とってもワイル ド。歩道橋の階段なんて、最初の一段が60センチくらいあって、その上、各段の高さがまちまち、なんてことも。もうほとんど嫌がらせの世界。
日本ではバリアフリーの住宅がはやりですが、バンコクは街中がフルバリアです。お年よりはどうしてるんだろうなどと心配しましたが、バンコクは若い 人が稼ぐために住むところで、そもそもお年よりは住んでいない。彼らは田舎に住んで、バンコクで働く息子・娘からの仕送りを糧にして暮らしてるんです。
その点ヤンゴンの歩道はちゃんと歩道でした。下を向いてではなくて、前を見て歩いても大丈夫。歩道の幅員もしっかりあって、歩きやすい。バンコクの 歩道は、どこもかしこも屋台だらけ。銀行の前だって、ホテルの前だって、領事館が入っているようなビルの前だって、屋台、屋台、屋台。が、ヤンゴンの歩道 にはほとんど屋台はありません。その代わり、人がなんとなくたたずんでる。散歩ならぬ、散立?
プノンペンの歩道は幅員もあって、ちゃんとしてるんですが、残念ながら車やバイクの駐車場と化していて歩道としては機能していません。まあ、暑いからあまり歩いてる人がいないので、困らないのかもしれません。私は困ってますけど。
三つの都市を比べてなんといっても印象的なのは、清潔さ・衛生度の違いです。バンコクは決して清潔な街とはいえません。臭い・汚い・うるさいの三拍子揃った街です。でも、その猥雑さの背後には陽性な活気、熱気があります。
猥雑その点、ヤンゴンは清潔できれいな街です。軍事政権下で怖い感じがありましたが、首都に関する限り、住み易さは三都の中で一番でしょう。もし、 江戸時代の日本が、黒船を押し返して開国しないでいたら、その後の日本はこんな感じだったのかなー、などと考えたりもしました。徳川幕府というのも一種の 軍事政権だったわけですから・・・・。スー・チーさんが軟禁されている家も見てきましたが、藤沢周平の時代小説に出てくる「蟄居謹慎中の武士の家」という 感じで、懐かしさを覚えました。
プノンペンはというと、三都の中ではダントツに汚い。人々は道になんでも捨てる。道だけでなく、自分の家の周りや集合住宅の階段にだってゴミがた まっている。夜になると、家々や商店から出たゴミが街の角々に集められる。それを人々がひっくり返して、換金性のあるものを探す。そのあとはゴミの山なら ぬ、ゴミの海。
私はちょっとショックを受けて、「どうして、自分の家の周りさえ、ゴミためにして気にならないんだろう?」と考え込んでしまいました。現時点での私の仮説はこういうものです。
プノンペンの市街は元々はポルポト時代に街を追い出された人々のものだった。そこに、内戦のドサクサで多くの人が流入し、不法占拠して住み着いた。 それがそのまま今日まで続いている。だから、現住民にとっては、そこに暮らすこと自体がある種のひけ目を感じさせることであって、彼らにとって、自分の 家、街は大切にして愛すべき家、街ではない。そういうひとりひとりの心のありようが、街並みのありように反映している。
となると、プノンペンをきちんとした街にするためには二つの方法があることになります。その一つは、そういうひとりひとりの心のありようを整えるこ とを通して、街のありようを整える、という方法。教育路線ですね。もう一つは、そういう「穢れて」しまった街を捨てて、新市街を作り、旧市街を下町として 行くという方法。開発路線ですね。
先日、大使館でお会いした若者(女性)はカンボジア在住5ヶ月。香川県に本拠をもつ教育関連のNGOの方。こちらでの仕事にやりがいを感じているらしく、とてもきらきらしてました。これが前者の路線の一つの展開。
後者、開発路線であれこれ考えている人や企業からも早速アプローチを受けました。メコン川にある中州(島)と本土とを橋で繋ぎ、中州の地価、付加価値を本土並みにして新都心を造りたいというような話。日本の建設会社を紹介してほしいとのこと。
戦後の日本でも同じようなことがありました。東京大空襲で焼け野原になった土地の多くが不法占拠にあい、旧地権者は追い出された。そういう土地の再 開発ではなく、郊外のケチのついていない土地を新たに開発し、市街化し、また新都心化するといった形で東京は復興していった。バブル期の地上げは、後回し された旧市街の再開発への再チャレンジといった側面もあったわけです。そして、その失敗は、時間の経過(代替わり)とお金の力(バブル景気)をもってして も、流し去ることのできない、蒸し返されてしまう人々の心の闇の存在を指し示しているのかもしれません。
次回は、三都に住む人々の、身繕いや表情に注目してみたいと思います。
チュムリアップ・リア!
Love & Work !!