「見えるものはみな過去のものだ」
(長友信人)
What is visible is belong to the past.
長友さんというのは宇宙科学研究所で「ミューロケット」
の設計などに携わった科学者です。
サッカー選手ではありません。
長友さんは「小惑星イトカワ」で有名な糸川さんの直系の弟子です。
長友さんのそのまた弟子には去年有名になった「探査機はやぶさ」のプロジェクトマネージャー川口淳一郎さんがいます。
上記の言葉は、その川口さんが、日経のインタビュー記事の中で引用しておられた言葉です(日経、2011/3/11夕刊、「学びのふるさと」)。
糸川さんも長友さんも川口さんも科学者です。
「見えるものは過去のもの」という彼らの言葉は「過去の模倣に甘んじない」という彼らの科学者としての覚悟を語ったものです。
しかし、私はちょっと違うことをこの言葉から読み取りたいと思っています。
自分が震災後、三陸の津波の跡の瓦礫の山の前に立ったとしたら、「見える」瓦礫の山に圧倒されずに、それが片付けられ、新たなものが構築され、新しい生活が再開されるその姿(=まだ見えないもの)を見て、それに向けて、目の前の泥や瓦礫をひとつづつ片付けていくことができるか。
そういう力があるか。
そういうことを考えます。
人には人生の中で、いつか必ずそういう力が試される時が来る。
私の場合、それはいつなのか?
今回の3.11震災は地震→津波→津波火災→原発事故というふうに推移してきました。
これがそのまま、わたしにとっての「それ」にならない保証はまだありません。
仮にそれがそうならないとしても、それはいつか来るのです。
そのときに「見えないものを予め見て行動する」、そういう力を身につけておきたい。
そのために急がねばならない。
そう感じました。