月別アーカイブ: 2011年8月

安藤忠雄

「空き地を見つけると、勝手に空想の建築をデザインした。
所有者が分かればこういうものを建てないかと提案に行った。
もちろん、『頼みもしないものを』と追い返される。」
(安藤忠雄、日経「私の履歴書」より)

安藤忠雄さんは世界的な建築家。
学歴は中卒で、元プロボクサー、で今は東大教授、という!!満載の異例のキャリアの持ち主です。
中学卒業後、独学で建築を勉強し、建築士の資格もないうちからあれこれ設計を手がけ、その後建築士試験を受けて、2級も1級も一発合格。

そういう彼ですから、依頼主=施主がいなくったって、空き地があれば勝手に設計して、所有者に提案に出向く。
今で言う、プロダクトアウトというかプッシュ型というか提案型営業というか・・・。
アッパレです。

現代音楽の作曲家、武満徹さんの修行時代のエピソードにもこういうのがありました。
作曲家を志すも、家にピアノがない。
板に釘を打ちつけ、そこにピアノ線をはって音階が出るようにし、それで作曲した。
道を歩いていて、ピアノの音が聞こえると、いきなりその家を訪ねていって、「ピアノを弾かせてください」と頼み込む。
不思議なことにたいていの家の人は迎え入れ、弾かせてくれた、とのこと。
最後の部分は、安藤さんとは違いますね。

「未来の記憶をつくれ」

「未来の記憶をつくれ」
(苫米地英人「まずは親を超えなさい」より)

苫米地さんはちょっと怪しげな「脳機能学者」。
ルー・タイスのコーチングメソドなども教えています。
「まずは親を・・・」もケレン味満載の本ですが、中身は意外と健全でまっとうです。

脳科学的にいうと「思考とは記憶の参照」です。
ということは「思考とは過去の参照」であるということになります。
だから、思考は常に過去の経験に引きづられてしまう。

そこから脱するためには、「未来」に属する自分のゴールを明瞭にイメージすることが肝心だと彼は言います。
そのゴール(=「未来」)を「過去の記憶」以上に鮮明する。
「未来のイメージ」を「過去の記憶」を凌駕する程までにビビッドにする。
そうすると、過去(の記憶)に引きづられていた思考が、未来(のイメージ)に引きづられるようになる。
現在が過去に引きづられるのではなく、未来に先導されるようになる。

苫米地さんはそうした一連の議論を「未来の記憶をつくる」と総称しているわけです。
なかなかいいフレーズです。

自分だったら、大震災の後の瓦礫の山の前にして、どんな「未来の記憶をつくる」ことができるか?
どんなゴールを構想することができるか?
それほどまでに自分は十分タフだろうか?

学生時代に諳(そら)んじてしばしば暗誦した岸上大作の次のような現代短歌を思い出しました。

「両側の腕に支えられ繰り返す
若者よ、体を鍛えておけ」

「見えるものはみな過去のものだ」

「見えるものはみな過去のものだ」
(長友信人)

What is visible is belong to the past.

長友さんというのは宇宙科学研究所で「ミューロケット」

の設計などに携わった科学者です。
サッカー選手ではありません。

長友さんは「小惑星イトカワ」で有名な糸川さんの直系の弟子です。
長友さんのそのまた弟子には去年有名になった「探査機はやぶさ」のプロジェクトマネージャー川口淳一郎さんがいます。
上記の言葉は、その川口さんが、日経のインタビュー記事の中で引用しておられた言葉です(日経、2011/3/11夕刊、「学びのふるさと」)。

糸川さんも長友さんも川口さんも科学者です。
「見えるものは過去のもの」という彼らの言葉は「過去の模倣に甘んじない」という彼らの科学者としての覚悟を語ったものです。
しかし、私はちょっと違うことをこの言葉から読み取りたいと思っています。

自分が震災後、三陸の津波の跡の瓦礫の山の前に立ったとしたら、「見える」瓦礫の山に圧倒されずに、それが片付けられ、新たなものが構築され、新しい生活が再開されるその姿(=まだ見えないもの)を見て、それに向けて、目の前の泥や瓦礫をひとつづつ片付けていくことができるか。
そういう力があるか。
そういうことを考えます。

人には人生の中で、いつか必ずそういう力が試される時が来る。
私の場合、それはいつなのか?

今回の3.11震災は地震→津波→津波火災→原発事故というふうに推移してきました。
これがそのまま、わたしにとっての「それ」にならない保証はまだありません。

仮にそれがそうならないとしても、それはいつか来るのです。
そのときに「見えないものを予め見て行動する」、そういう力を身につけておきたい。
そのために急がねばならない。
そう感じました。

人間の中でしか赤ちゃんは立たない

「人間の中でしか赤ちゃんは立ちません。
垂体一致している人たちと関わり、囲まれていることによって、赤ちゃんは立つのです。」

(高岡英夫「体の軸、心の軸、生き方の軸」より)

高岡さんは、有名な「ゆる体操」の創始者。
彼の本もずいぶん読みました。
「究極の身体」なんかもお勧めです。

初めて自分の子が立ち上がるのを目撃するというのは、人生最大のイベントの一つかもしれません。
それくらい感動する。
私は経験ないですけど。

でも、自分の子でなくたって、赤ちゃんが立ち上がるのを見ることにはある種の興奮が伴います。
それはなぜか?
その理由のひとつを今日の言葉は解明していると思います。

人間の赤ちゃんは単なる本能で立ち上がるのではなく、立つということを学習して立ち上がる。
彼にとっての学習現場は周囲の大人たち、たいていの場合は親ですね。
親たち、大人たちは、彼の学習とそれが彼にもたらした感動に立ち会ったことに感動を覚える。

続く部分にはこうあります。

「子供が立ちそうになると、親は手を添えたり、脇を支えたりして、立つ格好をさせます。
あれは擬似たっちですが、あれをすると、子供は感動でブルブル震えるような、天にも昇るような喜びを表しますが、あれが垂体一致軸の通ったときの姿なのです。
(中略)
自分の体軸をどうしても垂軸に合わせたくなるという身体意志の衝動が起きる。
なんとかして垂軸と体軸を一致させたいという根深い衝動によって、子供は立とうとする。
合いそうで合わないものを合わせたくなるという衝動が基本的にあります。
うまく合わずに転んでしまうと、それが許せないのです。
そして、一瞬でもピタッと垂軸と体軸が一致し、スパッと通ると、まるで超快適な電撃や光を通すような爽快感が走るのです。
だから、子供はそれを求めてまた立とうとする。」

人が<立つ>、それもまたひとつの奇跡なのです。

立ち居

「人間は立っているときには横になっている時よりも7%多くのエレルギーを消費しているにすぎない。

一方、犬は四足で立つ時は、寝た姿勢の時よりも70%ほど多くのエネルギーを消費している」
(ジョン・R・スコイルズ)

Our upright stance is very energy efficient,
for it demands little muscle action to sustain the vertical alignment of our body.
In fact, we use only 7% more energy when standing than when lying down.
A dog uses about 70% more energy when standing (on all four) than when lying down.

確かに、犬は「何かをしているとき」しか立ってませんね。
あとは終始寝ている。
猫なんかもっとそうです。

その点、人間は眠ているときしか寝ない。
うん、たしかにそうだ。

とはいえ、この7%という数字はかな理想的な数字だと思います。
つまり、人が理想的な立ち姿で立った場合のことでしょう。
ということはこういうことです。

人は理想的な立ち姿で立つように設計されている。
しかし、人は必ずしも理想的な姿で立っているわけではない。
人は理想的な立ち方を学習し、習得しなければならない。

ちゃんと立てる。
ちゃんと座れる。
ちゃんと歩ける。

こういうのを古来日本人は、「立ち居」と呼んで来ました。
それが単なる、自然=本能ではなくて、文化でもあることを意識してきたわけです。

ちゃんと立てて、ちゃんと座れて、ちゃんと歩ける―
ソウイウヒトニワタシハナリタイ

模倣とは、集団と同化することによって、大きな損失を回避しようとする行為である

「模倣とは、集団と同化することによって、大きな損失を回避しようとする行為である」

(増川純一、「投資家行動と経済物理学/協調のリスク」より)

Imitation is an act of assimilation into a crowd in an attempt to avoid a great risk.

日経のコラムにあった文章です。
こう続きます。

「従って、市場参加者が市場に不安を感じている時には、彼らは模倣行動を強めるであろう。」
「個々の市場参加者の模倣傾向が強まると市場は臨界状態に達する。」
「市場の動揺は群れ行動に表れ、群れ行動は異なる銘柄間の値動きの類似性に表れる。
類似性の指標はいったん大きい値を取り始めるとそれが続く傾向がある。
その時は大きな下落が起きる可能性の高い時である。」
「大きな損失を回避しようとして行う個々の市場参加者の行為が、結果として市場に不安定性をもたらし、逆に損失を被る可能性を増大させるという皮肉な構図は教訓的である。」

うん、たしかに教訓的だなー。

重力と恩寵

「永遠よりの光によって、
生きる理由だとか働く理由だとかいったものではなく、
そうした理由を求めずにすませられるほどの充実が与えられますように」

(シモーヌ・ベーユ、「重力と恩寵」より)

シモーヌ・ベーユの「重力と恩寵」。
新聞の小さな記事で彼女の文章に触れ、あまりのかっこよさにグッと来て、本を求めました。
上の言葉は、その中の「労働の神秘」という章の一節。

全体もビシビシ来る内容で、以後、愛読書となりました。
折に触れて読み返す本をもつという経験は人生の喜びの最たるものの一つだと思います。

はっぴーえんど

「おとばなしのようにハッピーエンドならいいさ
社長さんのようにえらくなれたらいいさ
でも、幸せなんてどう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ
でも、幸せなんて何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ」
(はっぴいえんど、「はっぴいえんど」より)

I wish for a happy ending as in a fairy tale.
I wish I could be great like a company president.
But happiness isn’t how you end.
Rather it is how you start.
Yeah, happiness isn’t something you have,
but something you want.

日本語ロックの草分けのバンド、はっぴいえんどのデビューアルバム、「はっぴいえんど」の中の「ハッピーエンド」という曲の一節。

はっぴーえんどが「はっぴいえんど」の中の「はっぴいえんど」という曲でハッピーエンドを否定しているという凝った作りになっているわけです。
作曲は細野晴臣、作詞は松本隆。

松本隆は後に、松田聖子の曲などを手がけ、大物作詞家になりました。
ベースの細野晴臣はYMOでブレーク。
ボーカルの大滝詠一もアルバム「ロングバケーション」の大ヒットで巨匠の仲間入り。
ギターの鈴木茂だけはその後地味な展開ですが、スタジオ・ミュージシャンとしては大御所。
というわけで、彼ら自体は「おとぎばなしのように、社長さんのよう」なハッピーエンドを掴んだようにも見えます。

でも、「どう始めるか、何を欲しがるか」なんですよね。

他者の判断に追随する傾向

「いつか僕の身体が職人になっても、心の中は子どものような夢でいっぱいでいたい。
傷いっぱいつけてお嫁さんにいく。
傷いっぱいつけてお婿さんにいく。
床屋帰りのように、僕は悲しくったって元気いっぱいだ」
(早川義夫、「ラブゼネレーション」より)

「経済物理学」に関する記事を読んでいたら、こういう文章に遭遇しました。

「人間には、自分が下した判断による失敗で傷つくことを避けるために、他者の判断に追随する傾向がある」。

で、唐突に上記の言葉を思い出したわけです。
手元に本がないので、覚えで書きました。

「ラブゼネレーション」は私の青春のバイブル。
こういう台詞にキックされ、ドライブされて育った(自分を育てた)ために「他者の判断に追随する傾向」がうまく育たなかったみたいです。
成長というのは「傷いっぱいつけて」ナンボだ、とはなから思ってたんですから。

まず獣身をなして後に人身を養う

「まず獣身をなして後に人身を養う」
(福沢諭吉、「福翁自伝」より)

Raise your child as a beast first, and then as a human being.

福沢諭吉が自伝の中で「子育て」について書いた文章の一節です。
こう続きます。

「生まれて3歳-5歳まではいろはの字も見せず、7・8歳にもなれば手習いをさせたりさせなかったり、まだ読書はさせない。

それまではただあばれしだいにあばれさせて、ただよく衣食にはよく気をつけてやり、また、子どもながらも卑劣なことをしたり賤しい言葉をまねたりすればこれをとがめるのみ、 そのほかはいっさいなげやりにして自由自在にさせておくそのありさまは、犬猫の子を育てると変わるところはない。」

「まず獣身をなす」とは強烈な言葉です。
私は今頃になって「獣身をなそう」としてます。
順番、間違ったかなー?!