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自分の碁を一旦壊してみる

棋士の今村俊也プロの話です。
彼がスランプに陥った時に、藤沢秀行先生にこう言われた。
実は、彼が言われたんじゃなくて、秀行先生が別の弟子に言っていたことを聞いただけだったらしいんですが。

<自分の碁を一旦壊してみなさい>

例えば、囲碁の最初の一手のことを<アタリ>と言います。
今村さんはこう思った。

「自分はアタリを知っているから習慣的にそこに打っているが、もしアタリを知らなかったとしたら、自分はいったいどこに打つか?―そこからを考え直してみなければいけない。」

そうした模索の結果、彼はスランプを脱し、その後、<世界一厚い碁>と言われる<棋風>を確立しました。
いい話です。
とはいえ、そのためには、<一旦壊してみる>なにかを持っている必要があります。

でも、ひるんでいるわけにはいきませんね。

「ニーチェの馬」

DVDで「ニーチェの馬」を観ました。

立ち往生した馬が御夫にしたたかに打たれるのを目撃したニーチェは馬に駆け寄り、馬を抱き、昏倒する。
目覚めて、語った言葉が、「母さん、私は愚かでした」。
そして、そのまま発狂。
10年の介護生活の後に死去。

その有名なエピソードに出てくる<馬の後日談>を描いた映画です。
これは一種のホラーだと思いました。
そして、人類の歴史そのものがある種のホラーなのだということが、タル・ベーラ監督の言いたかったことなのではないかとも。

ニーチェはキリスト教と闘いました。
ということは、キリスト教が悪と闘う、その闘い方と闘った、ということです。
つまり、彼はそのようにして悪と闘った。

永井均さんがどこかでこう言っていました。
「ニーチェがなぜ発狂したかと問うてはならない。
彼はただ狂ったのだ。」

「ある男」

「ある男」(木内昇著)を読みました。
 7つの短編に、7人の「ある男」が登場します。
もちろん、その周囲には「ある女」たちも。

「短編」ですから、物語はそれぞれの「ある男」が、屈託を抱えたまま、あるいは「不吉な予感」のうちに終わります。
自分だったら、その後の「男」の人生をどう生きるか?

そういう問いを無理やり孕まされるような読後感が残りました。

お勧めです。

「仕事の充実はどこから来るのだろうか?」

「仕事の充実はどこから来るのだろうか?
立身出世したり名を知られたりすることよりも大切なのは、一緒に働く人を大事にすることではないか。
『この人とこういう仕事が出来た』と納得できる経験を積み重ねた先に、働くことの喜びがあると私は思う。
仕事とは『自分らしさ』を際立たせるという考えがあるが、それは違う。
自分とは外からの反響音で確かめるものだからだ。
現実には誰もが仕事人として大成できるわけではない。
既成の評価に一喜一憂するのは寂しい。
たとえどんなに他人に評価されても、自分の中で手を抜いていい加減な仕事をすればそれはゼロだ。
自分を評価する視点は自分の中に持つしかない。
自分が設定したラインを超えようともがくとき、人は初めて己の仕事に誇りを持てる。
自分の中に目標を設け、スポーツのように必要な準備を一つ一つこなしながらそこに向かっていく。
毎回超えられなくてもいい。
だが、超えたいという意志を持ち続けたい。
そんなふうに仕事に臨みたいと思う。
私は丁稚に行った先で面白いことを見つけ、工夫し、いい仕事をしたような人に魅力を感じる。
小説に書いてみたいのも、そんな人物だ。」
(木内昇、日経2012・10・31夕刊、インタビュー記事より)

木内さんは時代小説の書き手。
新作の「ある男」が出たばかりです。

読んでみたいと思います。