月別アーカイブ: 2012年3月

変人

「斬新なアイディアを思いつく者は、それが成功するまでは変人である」

(ビエルサ)

ビエルサさんというのは、スペインのサッカーチーム、ビルバオの監督。
昨日の日経の夕刊にあった、北條聡さんのコラムからの孫引きです。

彼の率いるチームが「斬新なアイディア」で先日の欧州リーグで、イングランドのマンチェスター・ユナイデットを破った。
史上最強とされるバルセロナを破るのは彼なのではないか・・。
そういう記事。
で、そこに彼自身の上の言葉が引用されていたわけです。

「変革に必要なのは、よそ者と、ばか者と、若者である」
という言葉もあります。
ちょっと似てる?

「采配」

先日、クライアントの社長から、落合博満氏の「采配」という本についてお話を伺いました。
早速、取り寄せて読んでみました。
すばらしい本でした。
巻頭付近にはこうあります。

「ビジネスマンもプロ野球選手も、仕事を『戦い』や『闘い』にたとえれば、自分のスキルを成熟させながら3つの段階の戦いに直面することになる。
それは、自分、相手、数字だ。
学業を終えて社会に出たら、まずは業種ごとに仕事を覚え、戦力になっていかねばならない。
教わるべきことは教わり、自分で考えるべきことは考え、早く仕事を任せられるだけの力をつけようとしている段階は、<自分との戦い>だ。
(中略)
半人前、一人前になれば、営業職なら外回りをして契約を取る。
それまでに教えられたこと、経験したことを元に成果を上げようとする段階では、どうすれば相手を納得させられるか、信頼を勝ち取れるかなど、<相手のある戦い>に身を置く。
プロ野球選手なら、どれだけ相手に嫌がられる選手になれるかを考えるのだ。
そして、営業成績でトップを取れるような実力をつけたり、職場には欠かせないと思われる存在になれたら、自分自身の中に「もっと効率のいいやり方はないか」、「もっと業績を上げられないか」という欲が生まれる。
現状のままでは評価されなくなるという切迫感、これで力を出し切ったと思われたくないというプライド、さらなる高みを見てみたいという向上心とも向き合いながら、最終段階として<数字と戦う>。」

3つという数字、3つの内容、そして3つの順番、どれをとっても秀逸な論の運び方です。
特にその順番に感じ入りました。

まずは、<自分>と戦う→そして<相手>と戦う→最後に<数字>と戦う。
<自分>と戦ったことがない、戦うつもりのない人(営業マン)が、<相手>(顧客・市場)と向き合うことなどできるわけがない。
<自分>と戦って、<相手>と向き合うことなしに、ただ<数字>(=ノルマ)だけを追いかけている人がそうした数字を達成することはまれだし、仮にたまたま<数字>が作れたとしても、その経験がその人に真の成長をもたらすことはない。
そういうことでしょう。

書名の「采配」が何を意味するか、「誰が何を采配する」ことについて落合さんが語りたかったのかが 巻末付近で明らかにされます。
そのあたりもグッときます。
なによりも、落合さんがプロ野球選手やアスリートだけでなく、一般の産業人、市井の勤め人に深い敬意をもって語りかけ、エールを送っているのだと感じられて。

お勧めです。

プレイという仕事の次元

「産業革命がレイバーの職を奪った後、

産業や経済社会の変化があって、ワークの仕事は徐々に拡大していったのである。
それを我々は経済成長と呼んだのだ。
大切なのは、機械や情報システムに置き換わってしまうようなワークではなく、人間にしかできない質の高いプレイヤーとしての仕事が増えていくように努力することである。」
(伊藤元重、日経「経済教室」より)

今日の日経にあった言葉です。
伊藤さんは「仕事」を3つのタイプに分けて論じます。
「レーバー」、「ワーク」、そして「プレイ」です。

産業革命以前の仕事は押しなべて「レイバー」。
だから、当時の労働者は産業革命=機械化に怒って、「打ち壊し運動」をした。

そして、時代は回り、今、ワークの仕事が情報化、グローバル化によって侵食されている。
その結果、「もう成長は無理だという諦めと、無理して成長しても幸せにはなれないという開き直りが混在」した情況が時代を覆っている、と伊藤さんは言います。
しかし、「レーバー」→「ワーク」という仕事の質の変化=高度化が「成長」をもたらしたように、「ワーク」→「プレイ」という変化が次なる成長をもたらしうる、と論じます。

伊藤さんはこう論考を結んでいます。
「次世代の人材を育てない限りプレイヤーは増えないだろうし、プレイヤーが増えない限り日本の成長もない。
(中略)
人材投資がプレイヤーを増やす鍵となる。」

ゴモットモ!
Love & Work!

ひとりっ子政策

「人口抑制策を担当する政府の計画出産弁公室は政策の見直しに反対している。

政策に携わる約650万人の雇用と、2人以上生んだ両親から得られる罰金のためだ。」
(日経、ゼニナール「転機を迎えた中国経済」(12)より)

この記事は中国のひとりっ子政策が中国経済にもたらした功罪を論じています。
ひとりっ子政策による人口抑制が、中国にいわゆる「人口ボーナス」(全人口において労働人口が占める比率が高い状態から社会全体が恩恵を受ける状態)をもたらしそれが経済発展に寄与したことはよく知られています。
しかし、その結果生じた年齢別人口構成のゆがみは今後「人口オーナス」となって負の方向に働いて行く。
当たり前のことです。
ただ、そのタイミングは存外に早い。
2015年(3年後!)にも始まろうとしているとする論者もいるほどです。
彼の国も「高齢化」社会に突入するというわけです。

そうした分析はもう常識化しているのに、なぜ中国政府は手を打たないのか。
それを論じたのが上の文章です。

これがそのまま真であるかどうか、私には分かりません。
ただ、ぞっとするのは、こうしたこと(=既得権維持のための思考停止)が姿を変えて、自分の身の回りでも起きていると感じることです。
日本(=日本政府)のことだけを言っているのではありません。
それは私自身のことでもあるのです。

そうした「利己的なご都合主義→既得権維持のための思考停止」から解放されるためにこそ、まずは「自己否定の契機」を自分自身にきっちりとビルドインしなければなりません。
そのために思考の足腰をちゃんときなえなければ!!