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「すべての人に好機を!」

「よりよい社会を築くために我々に求められることは、成功者を決める幸運や気まぐれな優位点、

タイミングのいい誕生日や歴史の幸せな偶然の代わりに、
すべての人間に好機を与える社会を築くことだ。」
(マルコム・グラッドウェル、「天才!」より)

“To build a better world we need to replace the patchwork of lucky breaks and arbitrary advantages that today determine success
- the fortunate birth dates and the happy accidents of history
- with a society that provides opportunities for all. ”

彼は「天才!」の中で、成功者の成功の原因がいかに偶然に左右されていたかということを例証しています。
例えば、IT革命をリードした3人、B・ゲイツ(マイクロソフト)、S・ジョブス(アップル)、ビル・ジョイ(サンマイクロ)が、1954~1955年生まれであり、それが彼らの後の人生にいかに幸運に作用したかということ。
世界のプロスポーツリーグのスター選手やオリンピック選手の大半が、遅生まれであり、そうした偶然がアスリートになる必須の条件となっているということ、などなど。
ちなみに、わたしも1955年生まれで、しかも3月27日生まれという超早生まれです。

グラッドウェルはこう続けます。
「一年の後半生まれの子供を対象とする第二期アイスホッケーチームがカナダにあったら、現在の二倍のスター選手が生まれていただろう。
そのようにして花開いた才能を、あらゆる分野や職業に掛け算してみればいい。
世界は、いまよりずっと豊かだったかもしれない。」

なーるほど!という感じでしょ。
「すべての人に好機を!」という彼の主張は天才論としてだけでなく、正義論としても読めますね。

「彼は天才である必要がなかったのだ」

「カヴァーは天才ではなかったということなのか?
いや、彼は天才である必要がなかったのだ。」
(村上春樹、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より)

“Does it mean Carver was not a genius?

Well, he did not need to be a genius.”

カヴァーとはレイモンド・カヴァー(アメリカの短編小説家)のことです。

村上春樹さんはカヴァーの全集の翻訳者でもあります。

なぜ、カヴァーは天才である必要がなかったのか?
それについて、春樹さんはこう書いて文章を結んでいます。

「レイモンド・カヴァーにとっては、死に物狂いで自分の身を削ってものを書くというのは最低限のモラルだったんです。
だから、そういうモラルを実行していない人を目にするのは、彼には耐え難いことだった。
優しくて親切な人なんだけど、文章を書くことに手を抜いている人間に対して、あるいは手を抜いているとしか思えない人間に対して、自分はどうしても友達としての親愛の情をもつことができなかったと、あるエッセーの中で告白しています。
そういう場合、「あいつはいいやつなんだけど」というんじゃなくて、「いいやつ」という視点すらすっぽりと消えうせてしまうわけです。
そういう人が近くにいると、やっぱり身が引き締まりますよね。」

なぜ、カヴァーは天才である必要がなかったのか?
天才とはオートノミーだけで勝負できている人のことです(「モチベーション3.0」)。
カヴァーにはオートノミーは必要なかった。
彼にはそれに代わるもの=倫理的使命感があった。
春樹さんはそう言っているのでしょう。

それがあれば天才は要らない。
天才がいらないどころか、才能もスキル自体が二次的なものになるし、それがあれば必要な才能やスキルは必ず身につく。

<欲望に見合った分しか、スキルは身につかない>と私は常々言っています。
ここでいう<欲望>とは上の文脈における「倫理的使命感」と同じものです。

企業に「理念」が必要なのはそのためです。
社員がその「理念」を内面化する必要があるのもそのためなのです。

あなたは「天才」になりますか?
それとも、「理念を内面化」して「天才になる必要のない者」になりますか?

どちらでも選ぶことができますが、どちらかは選ばなければなりません。
それが<オキテ>です。

「真の脳の可塑性を要求すること」

「真の脳の可塑性を要求することは、結局脳が何に耐えられるかだけではなく、何をすることができるかを是非とも知ろうとすることである。」

(カトリーヌ・マラブー、「わたしたちの脳をどうするか」より)

何に耐えられるかということと、何ができるかということは違う。
何ができるかとは、何が創造できるかということです。

Think!

「過去を最適化することへの欲求」

「人間は時として、終わってしまった過去でさえも、もっと良くしたいと思う」
(小島寛之、「確率論的発想法」より)

“Humans sometimes wish to improve even the past which has gone.”

小島さんは経済学者で、数学エッセイストでもある方。
「確率論的発想法」は分量的には薄い本ながら、確率=数学を論じて経済(学)を語り、最後には「正義論」に及ぶという、内容的には壮大な本です。
上の言葉は、その「正義論」の一部。
社会学者の「大澤真幸氏の「責任論」からとられたものらしい。
つまり孫引きですね。
小島さんは続けて、こう書いています。
「不確実性下の意思決定では、『過去に可能性として存在していた事態』を結果の判断に加えなければ、選択行動を正しく描写できない。
『形而上の罪』に苦しむ人々は明らかに『そうであったかもしれない世界』に自分を置き、そこを変えることのできない苦しみを背負って生きている。
もしも、経済理論が想定するように、人々がいつでも未来だけを最適化するなら、このような人々の感性や善悪基準は不合理だということになる。
しかし、人々の内面には、過去を最適化することへの欲求が厳然と存在している。
あるいは存在することを認めざるをえない。
ならば、経済理論はそれを組み込んだ形に理論を修正すべき責務をもっているといわねばならない。」
 
すばらしい志だと思います。

「鳥が飛行機開発に果たした役割」

「鳥が飛行機開発に果たした重要な役割は、空を飛ぶことができるという存在証明となり、これによって飛行機ができるという確信を人に与えてくれたことである。」

(松本元、「愛は脳を活性化する」より)

“An important role played by birds in developing aircrafts is that it became an evidence of the ability to fly, which, in turn, gave men the confidence that they can make aircrafts.”

飛行機の開発において、鳥の飛び方の研究というのはあまり役に立たなかったらしい。
むしろ、鳥のように(=鳥と同じ方法で)飛ぶという発想を捨てたときに、飛ぶ(飛ばす)方法が分かったというような進み行きだったようです。

とはいえ、鳥が飛んでいるのを見ることで、人も飛べるはずだと思った、そのことの貢献は大きかった。
鳥が実際に飛んでいたから、人も飛べる=飛行機は作れると人は確信し、その確信があったから、本当に飛べるようになった、そう松本さんは言ってます。

こう続きます。
「空を飛ぶために揚力と推進力が必要となるという原理は、鳥の研究からというより飛行機開発によって流体力学などの物理学が進歩したことにより、解明された。
(中略)
人は飛行機を開発することによって、鳥が飛ぶ原理についてもより深く理解することができたのである。」

あなたはここから何を学びますか?

PS:
松本さんの「愛は脳を活性化する」は名著です。
是非お読みください。
岩波書店、岩波科学ライブラリ42
100ページほどの薄いブックレットです。

「人は生涯にひとたび詩人であることを選ぶ」

「人は生涯にひとたび詩人であることを選ぶ」
(ジャン・ポール・サルトル)

“Poets choose to be poets just once in their life.”

これは私が学生のころ、常に頭の中で鳴っていた言葉です。
何かで読んで衝撃を受けました。

でもどうしても出典が思い出せない。
「嘔吐」か、「自由への道」か、「存在と時間」か・・・。
でも今更あんな長いもの読み返せないし・・・。
サイトを検索しても出てこないし・・・。
で、記憶のまま記しました。

「人は生涯に一度」と言っても、「人はだれでも生涯に一度」

と言っているのではありません。
「詩人であることを選ぶような人は、生涯に一度そうするのだ」と言っているわけです。

恩師の栗田勇先生は、私がこれをmy verseにしているのを知って、こう解説してくださいました。
「人がひとたび詩人であることを選ぶとは、言語との関係でそれを選ぶと言うことだ。」

それ以来、ますますこの言葉に惹かれ、同時にますますこの言葉の意味が分からなくなりました。
でも、考え続けているといいことがありますねー。
最近、やっと「ああ、こういうことか」と次のように思い当たりました。

言語との関係で詩人であることを選ぶとは、言語を伝達やコミュニケーションの道具として考えるのでなくて、世界を分節化する道具として考えるということ。
言葉は人とわかりあうためにではなく、自分が世界を理解するためにある、と覚悟すること。

つまり詩人とは、人に自分を分かってもらうためによりも、自分が世界を理解するために言葉を用いる人だということです。
というわけで、詩人は人々の中で「浮いて」しまいます。
しかし、彼らが「言葉」をそのようなものとして扱ってくれるおかげで、言葉は世界との結びつきを維持し、結局それが言語のコミュニケーション・ツールとしての有効性をも担保しているのです。

私のような「(いまだ)詩人であることを選ぶ」に至っていない「普通の人」にできること。
それは、そのような「詩人」に敬意を払うことです。
彼らの仕事によって世界はすこしづつ言葉化されて、人間化され、理解され、発見されているのですから。

「行蔵は我に属す、 毀誉は他人の主張」

「行蔵は我に属す、
毀誉は他人の主張」
(勝海舟)

“The decision whether I should resign or remain belongs to me.
It doesn’t matter to me if others commend or criticize me.”

「こうぞうはわれにぞくす、きよはたにんのしゅちょう」と読みます。
出処進退は自分が決める、

それは他人の承認を受ける筋合いのものではない、といった意味です。
広く、「毀誉褒貶」(きよほうへん)は所詮他人事であるという意味にもなります。

勝海舟が旧幕臣でありながら、明治新政府に出仕したことを福沢諭吉が難じた時に、彼への返書の中で述べた言葉です。
全体としてはこうなります。

「行蔵は我に属す。
 毀誉は他人の主張。
我に与らず我に関せずと存知候(われにあずからずわれにかんせずとぞんじそうろう)。
各人への御示し御座候とも毛頭異存之無候(かくじんへのおんしめしござそうろうとももうとういぞんこれなくそうろう)。
御差越の御草稿は拝受いたし度、御許容可被下候也(おんさしこしのおんそうこうははいじゅいたしたく、おんゆるしくださるべくそうらうなり)。」

内田樹訳ではこうなります。

「出処進退はその人が自己決定することである。
その成否や理非を論じるのは他人の仕事である。
私のことはこう評価してください、と他人にあれこれリクエストする筋のものではない。
私への批判の文章、じゃんじゃん世間に発表してくださって結構。
でもいただいた草稿はなかなか面白いので、このままくださいね。」

上手い訳だなー!

出処進退はその人が自己決定することだから、他人はとやかく言うな!と言っているのはないところがいいでしょ。
他人はとやかく言う、そういうものだ、おおいにやってくれ。
でもそれは自分の問題ではない。
というところがいいと思うわけです。

さすが勝海舟。
彼を批判した、福沢諭吉の文章、これがまたいいんだ!
でも、それはまた別の機会に。

「数学は能力ではない、態度である」

「数学は能力ではない、態度である」
(マルコム・グラッドウェル、「天才!」より)

“Math is not an ability, but an attitude.”

こうあります。
「私たちは往々にして、『数学が得意なこと』を生まれつきの才能だとみなす。

しかし、成功とは、粘り強さ、辛抱強さ、勤勉を厭わない意志の結果であり、それがあればたいていの人が30秒で投げ出すことを22分かけて取り組める。」

「数学は」の部分にいろいろな言葉を入れてみると面白いです。
「**は能力ではない、態度である」という具合。

あなたなら何を入れますか?

「あらゆるものが含まれ、相互に複雑な仕組みの中に統合され、一つのまとまりのあるものとして成り立っている『生活』」

「排泄は全身の姿勢や動作を背景とし、神経機構の協働によって行われる」

(竹内孝仁、「医療は生活に出会えるか」より)

“Excreting is performed by coordinated nerve mechanisms,
having the total physical posture and actions as its background.”

竹内さんは、特別養護老人ホームで「オムツはずし戦略」を実施して、「オムツ・ゼロ」にまで成功した医師です。
彼は言います。

「特養にいる少数の看護師、医師、理学療法士は専門家と呼ばれてはいても、一皮向けば『病院における専門家』なのであって、病院を離れた生活の場のことについては、知らない。
医療は生活のプロセスに付き合っていけるほどに、長期的な手立ては身につけていない。
したがって、医療における専門家も、まったく無力な存在となっていき、その教科書的知識は無残にも破綻していく。
結論的に言えば、生活と人の人生に立ち会って、そこに生じる様々なことに回答を与えられるものを、現代の医学や看護学は待ち合わせていない。
だとすれば、新しい概念と方法論が発見されるべきであった。」

そして、排泄感覚がなくなるのは感覚能力の「廃用症候群」、つまり使わないから機能が失われるのであって、リハビリで取り戻せるということを発見します。
そして、「オムツ・ゼロ」に成功する。

「あらゆるものが含まれ、相互に複雑な仕組みの中に統合され、一つのまとまりのあるものとして成り立っている『生活』は、その複雑さのゆえに飢えや病にも冒されやすい。
医学はそのうちの病を<取り出して>、それを治すことで小宇宙の秩序を回復しようとしてきた。」
といい、<生活と医学のギャップを埋める医療>の必要を説いています。
立派ですね。

さあ、今日も自分の「排泄」の中に、「全身の姿勢や動作を背景」とした「神経機構の協働」を感じ取り、「あらゆるものが含まれ、相互に複雑な仕組みの中に統合され、一つのまとまりのあるものとして成り立っている『生活』」をその統合された全体性の内に生きましょう。

「陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てる」

「イノベーション戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。

イノベーションを行う組織は、昨日を守るために時間と資源を使わない。
昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる。」
(P・ドラッカー、「マネジメント」より)

“The first step of innovation strategies is to throw away old, dying, and stale things in a planned and systematic manner.
Organizations doing innovation never spend time and resources to protect yesterday.
Only by throwing away yesterday, you can release resources, especially valuable human resources, for something new.”

「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という本がベストセラーになりました。

ドラッカーが有名になるのはいいことです。
上の言葉、「計画的かつ体系的に捨てる」というところがいいですね。
「人材という貴重な資源を新しいもののために解放」するということろも泣かせます。

「イノベーションを行う組織は」というところを「イノベーションを行う個人は」と言い換えてみましょう。
イノベーションは組織にだけでなく、自分個人にも必要なのですから。

今日という時間を「昨日を守るため」だけに使わない。
そういう覚悟!