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あなたが問わねばならないのは

「愛の反対は無関心、そして、幸せの反対は退屈だ」
(ティモシー・フェリス)

The opposite of love is indifference, and the opposite of happiness is boringness.

先立つ文章はこういうものです。

「幸福の反対は何だろうか?
悲しみ?
違う。
愛と憎しみが同じコインの表と裏であるように、

幸せと悲しみは同じなのだ。
幸せのあまり泣いてしまうのはそのせいだ。」

そして先の文章。

「愛の反対は無関心、そして、幸せの反対は退屈だ」

さらに、フェリスはこう続けます。

「あなたが問わねばならないのは、『自分は何を望んでいるか?』や『目標は何か?』ではない。
『自分をわくわくさせてくれるのは何だろうか?』である。」

なるほど・・・。
確かに「問いの立て方」というのは大切ですね。
あなたならこの問いにどう答えますか?

「ひとりでは生きられない」弱者が生き延びるための装置

「家族は『ひとりでは生きられない』弱者が生き延びるための装置である」
(内田樹「邪悪なものの鎮め方」より)


Family is a device for ‘the weak who cannot live by themselves’ to survive.

ということは、「結婚」も「ひとりで生きられない弱者が生き延びるための装置である」ということですね。
昨日のゴルツさんの言葉とはタッチは真逆ですが、同じことを言おうとしているのかもしれない。

それにしても、「なるほどそうだなー」とうなってしまいました。
お互い(少なくとも私の方は)「ひとりでは生きられない」と悟ったから結婚したんだ、と確かに思い当たる。
ちなみに、妻も「同感だ」と申しております。

内田さんは若くして結婚し、その後、離婚を経験しています。
いわゆるバツイチ。
妻が去って行って残された女の子を「男手ひとつ」で育て上げた経験を持っています。

彼の結婚論は本当に面白い。
例えばこんなふうです。

「どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。
Someday my prince will come(いつか王子様がやってくる)というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。」

ながながと引用してすみません。
でも面白いでしょ。

さて、その内田さんがこのたび還暦を直前にして「再婚」なさいました。
オメデトウゴザイマス

ここに「奥様」の写真、載ってます(ミーハーですみません)。
http://walumono.typepad.jp/blog/2009/06/post-c3f1.html

アンドレ・ゴルツ

「君はもうすぐ82歳になる。
身長は6センチ縮み、体重は45キロしかない。
それでも変わらず美しく、優雅で、いとおしい」
(アンドレ・ゴルツ)

アンドレ・ゴルツ「労働のメタモルフォーゼ」は名著です。

上の言葉は、その彼が晩年に書いた本からの抜粋です。
彼はこれを不治の病をえた妻ドリーヌへの最後のラブレターとして書きます。
そして脱稿後、妻に勧められてその出版に同意します。
2007年出版。

さらにこう続きます。

「僕たちは一緒に暮らし始めて58年になる。
しかし、今ほど君を愛したことはない。
僕の胸のここにはぽっかりと穴が空いていて、僕に寄り添ってくれる君の温かい身体だけがそれを埋めてくれる。」

その後、ドリーヌは死去。
ゴルツは後を追って自殺。
フランス国民は、この事件をゴシップ扱いしなかったとのこと。

怠惰の再定義

「怠惰を再定義しよう。
怠惰とは理想とはほど遠い現状に耐え、
成り行きや他人に自分の人生を決めさせることだ」

(ティモシー・フェリス)

Let’s redefine laziness.
Laziness is to tolerate the present situation which is far from ideals, 
and let your life be decided by winds or other people.
 

どうでもいいことをうまくやっても

「どうでもいいことをうまくやっても、それが重要になることはない。
多くの時間を必要としても、その仕事が重要になるわけではない」
(ティモシー・フェリス、「『週4時間だけ働く」より)

What is not essential, if you can manage it skillfully, could not be important.
If a business needs much time, that doesn’t make it important.

まったくその通り。

「真実のいけすかないところは、それがミモフタモナイということだ」

と言ったのは誰だったっけ?
ランボー?

といっても、シルベスタスローンのランボーじゃないですよ。
フランスの詩人のアルチュール・ランボーの方です。

「一生懸命生きとるかどうかそれだけや」

「一生懸命生きとるかどうかそれだけや」
(佐治敬三)

What is essential is only to live one’s life earnestly or not.

安藤忠雄さんの「私の履歴書」の中にあった言葉です。
佐治さんというのはサントリーの社長さんですね。
前後の文脈は次のとおり。

「佐治さんは私(安藤さんのこと)のことはなにも聞かず、ただ『人間として面白そうだから』という理由であちこち連れて行ってくださった。

お会いしてから10数年たったころ、『お前、建築家らしいな』という。
『知らなかったんですか』と問い返すと、
『いちいち学歴や職業など聞いておれん。
一生懸命生きとるかどうかそれだけや』
と言われた。」

アッパレ!

超越的学習

学習意欲刺激するほど難しく、思考が停止するほど難しくない問題選ぼう。

忘れないでほしい。
目的は思考を広げることであって、圧倒させることではないのだ。」
(マーク・カーソン、「世界で生きる力」より)

「世界で生きる力」もとてもいい本です。
この本によって、「グローバル5.0」というコンセプトや、「越境的学習」という方法について学びました。
お勧めです。

自分の所属文化を越境し、異文化的背景をもつ他者と自分を繋げなおすために「自分を広げる」ことが必要です。
そして「自分を広げる」ためには「学ぶこと」、「学習」することが必要です。
カーソンはそう論じます。

上記の言葉は、その「学習」の方法、あり方に関する勘所を伝えています。
本当にそうですね。

Keep on learning!

安藤忠雄

「空き地を見つけると、勝手に空想の建築をデザインした。
所有者が分かればこういうものを建てないかと提案に行った。
もちろん、『頼みもしないものを』と追い返される。」
(安藤忠雄、日経「私の履歴書」より)

安藤忠雄さんは世界的な建築家。
学歴は中卒で、元プロボクサー、で今は東大教授、という!!満載の異例のキャリアの持ち主です。
中学卒業後、独学で建築を勉強し、建築士の資格もないうちからあれこれ設計を手がけ、その後建築士試験を受けて、2級も1級も一発合格。

そういう彼ですから、依頼主=施主がいなくったって、空き地があれば勝手に設計して、所有者に提案に出向く。
今で言う、プロダクトアウトというかプッシュ型というか提案型営業というか・・・。
アッパレです。

現代音楽の作曲家、武満徹さんの修行時代のエピソードにもこういうのがありました。
作曲家を志すも、家にピアノがない。
板に釘を打ちつけ、そこにピアノ線をはって音階が出るようにし、それで作曲した。
道を歩いていて、ピアノの音が聞こえると、いきなりその家を訪ねていって、「ピアノを弾かせてください」と頼み込む。
不思議なことにたいていの家の人は迎え入れ、弾かせてくれた、とのこと。
最後の部分は、安藤さんとは違いますね。

「未来の記憶をつくれ」

「未来の記憶をつくれ」
(苫米地英人「まずは親を超えなさい」より)

苫米地さんはちょっと怪しげな「脳機能学者」。
ルー・タイスのコーチングメソドなども教えています。
「まずは親を・・・」もケレン味満載の本ですが、中身は意外と健全でまっとうです。

脳科学的にいうと「思考とは記憶の参照」です。
ということは「思考とは過去の参照」であるということになります。
だから、思考は常に過去の経験に引きづられてしまう。

そこから脱するためには、「未来」に属する自分のゴールを明瞭にイメージすることが肝心だと彼は言います。
そのゴール(=「未来」)を「過去の記憶」以上に鮮明する。
「未来のイメージ」を「過去の記憶」を凌駕する程までにビビッドにする。
そうすると、過去(の記憶)に引きづられていた思考が、未来(のイメージ)に引きづられるようになる。
現在が過去に引きづられるのではなく、未来に先導されるようになる。

苫米地さんはそうした一連の議論を「未来の記憶をつくる」と総称しているわけです。
なかなかいいフレーズです。

自分だったら、大震災の後の瓦礫の山の前にして、どんな「未来の記憶をつくる」ことができるか?
どんなゴールを構想することができるか?
それほどまでに自分は十分タフだろうか?

学生時代に諳(そら)んじてしばしば暗誦した岸上大作の次のような現代短歌を思い出しました。

「両側の腕に支えられ繰り返す
若者よ、体を鍛えておけ」