アンドレ・ゴルツ

「君はもうすぐ82歳になる。
身長は6センチ縮み、体重は45キロしかない。
それでも変わらず美しく、優雅で、いとおしい」
(アンドレ・ゴルツ)

アンドレ・ゴルツ「労働のメタモルフォーゼ」は名著です。

上の言葉は、その彼が晩年に書いた本からの抜粋です。
彼はこれを不治の病をえた妻ドリーヌへの最後のラブレターとして書きます。
そして脱稿後、妻に勧められてその出版に同意します。
2007年出版。

さらにこう続きます。

「僕たちは一緒に暮らし始めて58年になる。
しかし、今ほど君を愛したことはない。
僕の胸のここにはぽっかりと穴が空いていて、僕に寄り添ってくれる君の温かい身体だけがそれを埋めてくれる。」

その後、ドリーヌは死去。
ゴルツは後を追って自殺。
フランス国民は、この事件をゴシップ扱いしなかったとのこと。

怠惰の再定義

「怠惰を再定義しよう。
怠惰とは理想とはほど遠い現状に耐え、
成り行きや他人に自分の人生を決めさせることだ」

(ティモシー・フェリス)

Let’s redefine laziness.
Laziness is to tolerate the present situation which is far from ideals, 
and let your life be decided by winds or other people.
 

どうでもいいことをうまくやっても

「どうでもいいことをうまくやっても、それが重要になることはない。
多くの時間を必要としても、その仕事が重要になるわけではない」
(ティモシー・フェリス、「『週4時間だけ働く」より)

What is not essential, if you can manage it skillfully, could not be important.
If a business needs much time, that doesn’t make it important.

まったくその通り。

「真実のいけすかないところは、それがミモフタモナイということだ」

と言ったのは誰だったっけ?
ランボー?

といっても、シルベスタスローンのランボーじゃないですよ。
フランスの詩人のアルチュール・ランボーの方です。

「一生懸命生きとるかどうかそれだけや」

「一生懸命生きとるかどうかそれだけや」
(佐治敬三)

What is essential is only to live one’s life earnestly or not.

安藤忠雄さんの「私の履歴書」の中にあった言葉です。
佐治さんというのはサントリーの社長さんですね。
前後の文脈は次のとおり。

「佐治さんは私(安藤さんのこと)のことはなにも聞かず、ただ『人間として面白そうだから』という理由であちこち連れて行ってくださった。

お会いしてから10数年たったころ、『お前、建築家らしいな』という。
『知らなかったんですか』と問い返すと、
『いちいち学歴や職業など聞いておれん。
一生懸命生きとるかどうかそれだけや』
と言われた。」

アッパレ!

超越的学習

学習意欲刺激するほど難しく、思考が停止するほど難しくない問題選ぼう。

忘れないでほしい。
目的は思考を広げることであって、圧倒させることではないのだ。」
(マーク・カーソン、「世界で生きる力」より)

「世界で生きる力」もとてもいい本です。
この本によって、「グローバル5.0」というコンセプトや、「越境的学習」という方法について学びました。
お勧めです。

自分の所属文化を越境し、異文化的背景をもつ他者と自分を繋げなおすために「自分を広げる」ことが必要です。
そして「自分を広げる」ためには「学ぶこと」、「学習」することが必要です。
カーソンはそう論じます。

上記の言葉は、その「学習」の方法、あり方に関する勘所を伝えています。
本当にそうですね。

Keep on learning!

安藤忠雄

「空き地を見つけると、勝手に空想の建築をデザインした。
所有者が分かればこういうものを建てないかと提案に行った。
もちろん、『頼みもしないものを』と追い返される。」
(安藤忠雄、日経「私の履歴書」より)

安藤忠雄さんは世界的な建築家。
学歴は中卒で、元プロボクサー、で今は東大教授、という!!満載の異例のキャリアの持ち主です。
中学卒業後、独学で建築を勉強し、建築士の資格もないうちからあれこれ設計を手がけ、その後建築士試験を受けて、2級も1級も一発合格。

そういう彼ですから、依頼主=施主がいなくったって、空き地があれば勝手に設計して、所有者に提案に出向く。
今で言う、プロダクトアウトというかプッシュ型というか提案型営業というか・・・。
アッパレです。

現代音楽の作曲家、武満徹さんの修行時代のエピソードにもこういうのがありました。
作曲家を志すも、家にピアノがない。
板に釘を打ちつけ、そこにピアノ線をはって音階が出るようにし、それで作曲した。
道を歩いていて、ピアノの音が聞こえると、いきなりその家を訪ねていって、「ピアノを弾かせてください」と頼み込む。
不思議なことにたいていの家の人は迎え入れ、弾かせてくれた、とのこと。
最後の部分は、安藤さんとは違いますね。

「未来の記憶をつくれ」

「未来の記憶をつくれ」
(苫米地英人「まずは親を超えなさい」より)

苫米地さんはちょっと怪しげな「脳機能学者」。
ルー・タイスのコーチングメソドなども教えています。
「まずは親を・・・」もケレン味満載の本ですが、中身は意外と健全でまっとうです。

脳科学的にいうと「思考とは記憶の参照」です。
ということは「思考とは過去の参照」であるということになります。
だから、思考は常に過去の経験に引きづられてしまう。

そこから脱するためには、「未来」に属する自分のゴールを明瞭にイメージすることが肝心だと彼は言います。
そのゴール(=「未来」)を「過去の記憶」以上に鮮明する。
「未来のイメージ」を「過去の記憶」を凌駕する程までにビビッドにする。
そうすると、過去(の記憶)に引きづられていた思考が、未来(のイメージ)に引きづられるようになる。
現在が過去に引きづられるのではなく、未来に先導されるようになる。

苫米地さんはそうした一連の議論を「未来の記憶をつくる」と総称しているわけです。
なかなかいいフレーズです。

自分だったら、大震災の後の瓦礫の山の前にして、どんな「未来の記憶をつくる」ことができるか?
どんなゴールを構想することができるか?
それほどまでに自分は十分タフだろうか?

学生時代に諳(そら)んじてしばしば暗誦した岸上大作の次のような現代短歌を思い出しました。

「両側の腕に支えられ繰り返す
若者よ、体を鍛えておけ」

「見えるものはみな過去のものだ」

「見えるものはみな過去のものだ」
(長友信人)

What is visible is belong to the past.

長友さんというのは宇宙科学研究所で「ミューロケット」

の設計などに携わった科学者です。
サッカー選手ではありません。

長友さんは「小惑星イトカワ」で有名な糸川さんの直系の弟子です。
長友さんのそのまた弟子には去年有名になった「探査機はやぶさ」のプロジェクトマネージャー川口淳一郎さんがいます。
上記の言葉は、その川口さんが、日経のインタビュー記事の中で引用しておられた言葉です(日経、2011/3/11夕刊、「学びのふるさと」)。

糸川さんも長友さんも川口さんも科学者です。
「見えるものは過去のもの」という彼らの言葉は「過去の模倣に甘んじない」という彼らの科学者としての覚悟を語ったものです。
しかし、私はちょっと違うことをこの言葉から読み取りたいと思っています。

自分が震災後、三陸の津波の跡の瓦礫の山の前に立ったとしたら、「見える」瓦礫の山に圧倒されずに、それが片付けられ、新たなものが構築され、新しい生活が再開されるその姿(=まだ見えないもの)を見て、それに向けて、目の前の泥や瓦礫をひとつづつ片付けていくことができるか。
そういう力があるか。
そういうことを考えます。

人には人生の中で、いつか必ずそういう力が試される時が来る。
私の場合、それはいつなのか?

今回の3.11震災は地震→津波→津波火災→原発事故というふうに推移してきました。
これがそのまま、わたしにとっての「それ」にならない保証はまだありません。

仮にそれがそうならないとしても、それはいつか来るのです。
そのときに「見えないものを予め見て行動する」、そういう力を身につけておきたい。
そのために急がねばならない。
そう感じました。

人間の中でしか赤ちゃんは立たない

「人間の中でしか赤ちゃんは立ちません。
垂体一致している人たちと関わり、囲まれていることによって、赤ちゃんは立つのです。」

(高岡英夫「体の軸、心の軸、生き方の軸」より)

高岡さんは、有名な「ゆる体操」の創始者。
彼の本もずいぶん読みました。
「究極の身体」なんかもお勧めです。

初めて自分の子が立ち上がるのを目撃するというのは、人生最大のイベントの一つかもしれません。
それくらい感動する。
私は経験ないですけど。

でも、自分の子でなくたって、赤ちゃんが立ち上がるのを見ることにはある種の興奮が伴います。
それはなぜか?
その理由のひとつを今日の言葉は解明していると思います。

人間の赤ちゃんは単なる本能で立ち上がるのではなく、立つということを学習して立ち上がる。
彼にとっての学習現場は周囲の大人たち、たいていの場合は親ですね。
親たち、大人たちは、彼の学習とそれが彼にもたらした感動に立ち会ったことに感動を覚える。

続く部分にはこうあります。

「子供が立ちそうになると、親は手を添えたり、脇を支えたりして、立つ格好をさせます。
あれは擬似たっちですが、あれをすると、子供は感動でブルブル震えるような、天にも昇るような喜びを表しますが、あれが垂体一致軸の通ったときの姿なのです。
(中略)
自分の体軸をどうしても垂軸に合わせたくなるという身体意志の衝動が起きる。
なんとかして垂軸と体軸を一致させたいという根深い衝動によって、子供は立とうとする。
合いそうで合わないものを合わせたくなるという衝動が基本的にあります。
うまく合わずに転んでしまうと、それが許せないのです。
そして、一瞬でもピタッと垂軸と体軸が一致し、スパッと通ると、まるで超快適な電撃や光を通すような爽快感が走るのです。
だから、子供はそれを求めてまた立とうとする。」

人が<立つ>、それもまたひとつの奇跡なのです。