「企業にとって存在価値とはなにか?」

はじめてのバンコクの12月。確かに「涼しい」です。夜は冷房がいりませんし、窓を閉めて寝ても寝汗をかかなくなりました。でも、雨が降らない分、空気が悪くなって(排気ガスです)、それはちょっと困りまね。まさに、<Nothing is perfect!>です。

さて、先々回、成長について、こう言いました。<企業にとって、『成長』とは、事業機会と経営資源の間の不均衡を、拡大方向に解消しようとする運動 である>。そして、先回、戦略について、こう言いました。<企業にとって、『戦略』とは、企業行動の全体的一貫性のことである>。そして、今回はこの二つ を繋げるとお約束しました。やってみたいと思います。うまくいきましたら、拍手ご喝采!

企業が成長するためには、事業機会の発見とそれに新たな事業機会にマッチした人材の調整、そしてその両者のスパイラルな好循環が必要です。この事業 機会の発見が、経営トップによりなされ、人材調整も事後的なスキル・マッチングという形で行われる(既存の人材に対するスキル教育と予めスキルをもった者 の中途採用)というのが、戦略論における、トップダウン型、戦略授与型。事業機会の発見が人材開発のプロセスと一体になって、その過程で生じ、<発見=人 材調整=戦略生成>というのが、ボトムアップ型、戦略生成型。

こう書けば、後者が理想形であることは明らかに見えますが、とはいえ、理想的にすぎて、現実的ではない、という声が聞こえてきそうです。実際、企業 の規模や、企業ドメイン、業態をネグって、こうした一般論を語ることにどんな実践的意味があるのかという批判もありうるでしょう。しかし、ここはしばら く、「理想とねて」みようと思います*1)。ヘーゲルさんも言っています。「理想的なものは現実的であり、現実的なものは理想的である」と。

先回の最後で、成長と戦略の関係について、成長が目的であり、戦略が手段であると書きました。では、成長の目的はなんなんでしょうか?それは「存 在」(を更新=継続)することです。企業は成長し続けないと存在を継続できないからです。では、企業が存在する(存在を更新し続ける)目的・理由・価値は なんでしょうか?それは、「外部に価値を生み出すこと」です。つなげて言えばこうなります。

<企業は外部に価値を創造するために存在している><その存在価値を更新できなければ、企業は存続できない><企業の成長は、企業の存続=存在価値の更新=価値創造の継続のためにある>そして、<企業の成長とはその存在価値の不断の更新のプロセスである>

これは考えてみればあたりまえのことです。存在価値のないものは存在できない、ということだからです。やはり、<理想的なものは現実的で、現実的なものは理想的なもの>なのです。

そうした企業の存在価値の更新のサイクルに、企業規模やドメイン、業態によって長短があることは確かです。ビジネスモデルの賞味期間に長短があるということです。しかし、長いか短いかはともかく、賞味期間があるということ自体は普遍的です。

賞味期間が長い場合(規模が大きく、ドメインが上流にある)、その間の蓄積により、急激な変化は難しくなりますから、問題は緩慢にやってくる分、深 刻になりえます。いわゆる、「大型タンカーはゆっくりとしか曲がれない」というやつですね。逆に、規模が小さく、ドメインが下流にある場合、その賞味期間 は短くなるので、業態に柔軟性を持たせて企業価値更新のサイクルを早めていかねばなりません。「自転車操業」はなにも資金繰りだけの問題ではなく、経営全 体の問題なのです*2)。

では、企業が生み出し、更新していかねばならない「価値」とはなんでしょうか。結局のところ、それは、「人の幸福への寄与」であり、そして、市場とはそうした寄与・貢献への信任投票である、というのが資本主義の原理、いや信仰告白です*3)。

高度成長期というのは、物やサービスをともかく広く行き渡らせることが「人の幸福に寄与」した時代です。ですから、国家(=国民経済の主体としての 国家)にはそのためのシステムがあり、企業にはそのシステム内での役割があり、その役割を果たすことが企業にとっての価値創造の方式でした。これを私は 「割当て型経済」と呼んでいます。通産省他からの許認可と大蔵省からの予算があり、許認可と予算分配という形で割当てられたドメインがあり、それが上流か ら下流に下りてくる。もちろん、割当て型経済の中にも競争はあるんですが、それは業界秩序を破壊しない範囲での、シェア競争といった微温的なものでしかな い。

しかし、そのような割当て型の産業構造では、経済が回らなくなった。市場が成熟して、経済の重心が供給側から需要側に、最終的には生産側から消費側 に移ったからです。何を生産することが価値を生み出すことかが自明であるような状況下では、どのように生み出すかだけが問題であり、その解は合理性の論理 によって導けました。しかし、何を生産することが消費者にとって価値あることとされるかが自明ではないような状況下では、どのようにではなく、何を生み出 すかということそれ自体が問題であり、その解は合理性の論理によっては導くことができません。

こうした変化に伴ってよく言われたのが、「プロダクトアウトからマーケットインへ」ということでした。マーケットインという言葉は、供給側からの需要側への摺りよりのための謂いです。しかし、結局事態はさらにその先に進んでいきます。

次に登場したタームが「価値創発」というものです。それは単なるマーケッティング用語ではなく、産業構造全体を射程にいれた言葉です。「価値創発」 という言葉のストレスは「価値」にではなく、「創発」にあります。企業が「価値」を生み出さねばならないことは、割当て型が機能していた時代も同じだから です。しかし、割当て型では「価値」が生み出せなくなった。「価値」は「創発」されねばならなくなったのです。

この場合の「創発」という言葉には、供給側がむりやり作るのではなく、需要側から生成されてくる、といった含みがあります。いわゆる、自己生成、自己組織化、複雑系の考え方ですね。

だいたい話の落とし所が見えてきたんじゃないでしょうか。経済の重心が供給側から需要側に移った。それに伴って、企業が外部に向かって生み出すべき 価値は企業自体が割当て型でプロダクトアウトできる時代ではなくなった。価値は企業が外部とのコミュニケーションによって創発、生成していくべきものと なった。外部との関係で生成論的創造が必要なのであれば、内部構造もそれに見合ったものになっている必要がある。それに見合った構造とは、例えば戦略論の 文脈では、戦略生成型の戦略形成プロセスを重視することを意味する。

こうした時代の変化を最近亡くなられたドラッカー氏の名言を使って表現してみたいと思います。ドラッカー曰く、<従業員はコストではない、資源である>。インサイト曰く、<従業員は資源ではない、人間である>

企業は人間(自然人)ではなく法人です。これは企業の強みでもあり、弱みでもあります。企業は究極的には(B2Bの会社でも)、人に向けて価値を創 造していかねばなりません。最終消費者としての人間と、企業は実は内部で繋がっています。それは社員です。その社員を人間として遇し、その創造性の発動を 促すことに成功した企業だけが、「価値創発」時代に価値を生み続けることができるのです。

Love & Work !!

*1)「理想とねる」という表現は、「現場とねる」という言葉をひっくり返したものです。「現場とねる」というのは、文芸批評の世界などで用いる言 い回しで、批評理論の一般的研究から離れて、生の具体的創作物とじっくりと対峙することを指しています。例えば、文芸時評を担当するとか。ですから、「理 想とねる」とは、現実の名で呼ばれる先入観からいったん離れて、理想を深堀して、現実への回路を開こうとする営みをさしています。私の造語ですから、他で 通用しないと思います。ご注意を!

*2)サルトルさんは確か「嘔吐」のなかで(「存在と自由」だったかもしれない)、「悪は自転車のようなものだ、走っていないと倒れてしまう」と いったようことを言っていました。でも、自転車みたいなのは、悪だけでなく、善も、個人も、企業、社会も、みんなですね。泳ぎ続けていないと死んでしまう 回遊魚みたいでもあります。

*3)これは「主義」(=イデオロギー=宗教)としての資本主義の定義の問題です。日本には、制度としての資本制はありますが、主義としての資本主 義も資本主義者もほぼ存在しないといっていいでしょう。ちなみに、私もそのような意味での「資本主義者」ではありません。しかし、資本制の下で、その理念 的価値を問い、局所的にその価値を実現しようとすることには意義があると考えています。所与・与件は活かされねばならないからです。

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