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「愛し」

「父母を見れば尊し
妻子を見ればめぐし愛し
中は
かくぞ道理」
(「万葉集」より、山上憶良)
「ちちははをみればたっとし
めこをみればめぐし愛し
なかは
かくぞことわり」
「愛し」部分、どう読みますか?
「うつくし」と読むんだそうです。
「愛」という言葉を日本人がどように受け取ってきたか、そ理解一助になりますね。
ちなみに、「愛する」という場合「アイ」は訓ではなくて、音です。
ですから、中国語を音として輸入したもということになります。
「信じる」「シン」もそうです。
ということは、「愛する」も「信じる」も「アンプリファイアする」(増幅する)とか「アナライズする」(分析する)とかいうような言葉と同じ程度にしか日本語化されていないことになります。

キリスト教二大概念が実はまだ本当には日本語化されていない、というは興味深いことだと思います。

「河馬が生まれつき河馬であるのと同じ」

「人は生まれつきの芸術家であって、それは河馬が生まれつき河馬であるのと同じである。」
(ラスキン、「絵画の諸要素」より)

河馬が自分が河馬であることを知っているその自明性の程度と同じほどに、人が自分が芸術家であることを自明のこととして信じることができれば、人はそのまま既に芸術家である、ということでしょう。

そうありたいものです。

ラスキンはこうも言っています。
「私の努力の目的は、大工を芸術家にすることではなく、彼を大工のまま、幸福にすることである。」

Love & Work!

「かみさま、
ぼくはあなたがだいすきです。
とってもしんせつなんだもん。
ぼくもあなたみたいにいいこにします。
ばくはみんなにしんせつです。
あかあさんにも、おとうさんにも、ふたりいもうとにも。
かみさまっておもしろいでしょうね。
みんなにすきになってもらえて。」
(「神様へ手紙」より)

Dear God,
I love you because you are so good,
I try to be good like you.
I am good to all people.
My mother and father.
And my two sisters.
It must be fun to be God and have everybody love you.

谷川俊太郎訳では「しんせつ」、「いいこ」となっているは元はどちらもGoodです。
英文脈では、Good →Goodness=善という言葉、意味は、

こういうふうに情動に刻まれるんだと感心しました。

「おもしろい」部分は、fun=「楽しい」です。
こうも訳せますね。

「かみさまでいるってたしいでしょうね。
だって、みんながあなたことだいすきなんだも

「ああなっちゃったんですか?」

「だいすきなかみさま
あなたはきりんをつくったときあようにつくったんですか?
それともああなっちゃったんですか?」
「神様手紙」より)

Dear God
Did you mean for giraffe to look that
or was it an accident?

わたし高校(今はなき伝説の自由学校、神奈川県立外語短大付属高校)は女子比率が高くて、わたしたちは女子高男子部なんて言われてました。

当時、学内乙女たち間では「イチゴ絵本」(月刊)と「小さな恋物語」(チッチとサリー)が流行ってました。
わたしも乙女たちから影響を受けて、どちらも愛読してました。

「イチゴ絵本」には、「アンパンマン」オリジナル版が掲載されていてましたが、お気に入りは「かみさまてがみ」でした。
アメリカ子供たちが実際に書いた「かみさまてがみ」を谷川俊太郎が訳し、当時まだ無名だった葉祥明が絵をつけていました。

最近、これが一冊絵本になっているということを知り、早速アマゾンで調達。
覚えていた一番おきにいりを探してみました。

どうも訳が違うみたい。
本にはこうあります。

「かみさま
あなたはきりんをほんとうにあんなふうにつくりたかった
それともなにかまちがえですか?」

うん、やっぱりなんか違う。
わたし記憶では上ようになってたんです。
どっちがいいですか?

日本人であることの「隘路」

「アメリカに四年半ばかり住んでいる間に、僕はひとつ自己矛盾に突き当たるようになりました。

というは、僕はそれまで、個人として自立することをひとつ目的として生きてきたからです。
日本にいるときは、それが僕にとって大事な意味を持つ作業だった。
社会システムに対抗する個を確立すること。
ところが、アメリカやヨーロッパでは、人が個人として自立することというは、いわば自明ことです。
つまり、日本を出てアメリカにやってきて、個であることをあえて希求しなくてもよくなった。
すると、「じゃあそ個人として、自分はいったい何をすればいいか」ということが新たな命題として浮かび上がってくるわけです。
個であることは、人生目的ではない。
それがアメリカで暮らしているときに、僕がはっきりと認識できたことですね。
一人個人として、自分が何をなしうるか?
それが僕にとって大事な命題になった。」
(村上春樹、「夢中から責任ははじまる」より)

“When I was living in the US for about four and half years, I came to encounter a self-contradiction.
This is because, up till then, I used to live for a purpose, that is to be independent as an individual.
When I was in Japan, it was a very significant work for me.
In other words, establishing an individual that stands against the social systems.
However, in the US and Europe, it is quite obvious that a person becomes independent as an individual.
Consequently, after leaving Japan and coming over to the US, it became unnecessary for me to pursue independence as an individual.
So the next question came up: ‘Then what should I do as the individual?’
Being an individual is not a purpose of life.
That is something I clearly realized while living in the US.
What can I do as an individual?
That became an important proposition for me.”

「夢中から責任ははじまる」というタイトル、いいですねー。
これは、春樹さんインタビュー集、「夢見るために僕は毎朝目覚めるです」所収です。
一気に読んでしまうがもったいなくて、間欠的に、少しづつ、いとおしむように読みました。
たいていは、ちょっと飲みながら、そウィスキー残量と見比べるようにして。
彼がいかに「まじめに」(=serious)に生きているか、そうしたseriousさがいかに豊かで、楽しいもか(=serious fun)、を感じさせてくれます。

さて、上文章自体には解説必要はないでしょう。
日本人であること「隘路」がよく語られています。

どうしたらそような隘路から抜け出ることができるか。
それをわたしは常々、「日本人を解脱する」と表現してきました。

わたしは、タイとカンボジアに3年いて、春樹さんと同じように考えるようになりました。
ということは、「日本人である」こと特異性は、アジア人であることや、先進性/後進性といった範疇から生じたもではないということです。
だからこそ、それは「自己矛盾」なであり、「隘路」なであり、「解脱対象」なです。

闇は深い。
しかし、我々はそこから出て行こうとしなければなりません。

「道徳的人間」

「道徳的人間とは、
何が公正であるかという原則を理解し、
積極的にそれを実践していく能力と実力をもち、
何が自己人生目標であるかを考え、
必要とあらば訂正し、
合理的にそれを追及していく存在ことである。」
(ジョン・ロールズ、「正義論」より)

The moral person is the one who understands principles on what justice is,
has an ability and power to actively put them into practice,
thinks what his goal in life is,
correct it if necessary,
and pursuit it in a reasonable manner.

ロールズは、「生来才能分配や社会環境偶然性は正義にもとる」という過激な正義論持ち主です。

先日ご紹介した、グラッドウェル「天才!」にあった「すべて人に機会を!」という考え方にも響きあうもがありますね。

「正義」論と「道徳」論関係は必ずしも自明ではありません。
「人が道徳的であることが正義に貢献する」といえるためには、「世界が道徳的な場としてできている」ということについて信頼が必要となるからです。

正義観、道徳観中身について完全には理解→同意できないとしても、それでもそ正義「論」、道徳「論」がときに読者心を打つは、そ呼びかけに伏流するそうした「前提」的な世界観に励みを受けるからでしょう。

ですから、人と連帯ということにおいてさえ、「正義」や「道徳」について定義を共有しているかどうかよりももっと重要なは、「正義」や「道徳」が自分にとってどれくらい重要か、ということです。

「敏感に驚くことのできる人」

「敏感に驚くことできる人は、何事によっても驚かされない」

(内田樹、出典不明)

Nothing can surprise a person who can get surprised sensitively.

もしくは、
If you can surprise yourself sensitively, you would not be surprised by anything.

驚くことと、驚かされること違い。
surpriseという英語が他動詞で、再帰代名詞を目的語にとってsurprise oneselfとすると、受動態でbe surprisedとするとで同じ意味になる、と中学で習いましたが、そニュアンスはやはりちょっと違うんだなと気づきました。

be surprisedをget surprisedにすれば、能動性が出るでしょうか?

今年はいろいろなことに驚かされてしまいました。
来年はもっと自ら予め驚いておくことで、驚かされないようにしたいと思います。

「プログラムを脱プログラム化する」

「ニューロン働きがひとつ出来事であり、一大事件となるに違いないは、まさにそれが自ら出来事を作り出し、そしてプログラムを出来事化する、すなわち、ある意味でプログラムを脱プログラム化することができるからなだ」

(カトリーヌ・マラブー、「わたしたち脳をどうするか」より)

マラブー・シリーズ第二弾。
「プログラムを脱プログラム化」なんて上手いこといいますねー。

つまり、脳には「非決定論的」(=非機械的、非運命的)領域がちゃんとある(=自由だ!)ということ。
そして脳機能自由性(=出来事性)を信じるということ自体が、脳において生じている。
うーーん、奇跡だ!

「すべての人に好機を!」

「よりよい社会を築くために我々に求められることは、成功者を決める幸運や気まぐれな優位点、

タイミングのいい誕生日や歴史の幸せな偶然の代わりに、
すべての人間に好機を与える社会を築くことだ。」
(マルコム・グラッドウェル、「天才!」より)

“To build a better world we need to replace the patchwork of lucky breaks and arbitrary advantages that today determine success
- the fortunate birth dates and the happy accidents of history
- with a society that provides opportunities for all. ”

彼は「天才!」の中で、成功者の成功の原因がいかに偶然に左右されていたかということを例証しています。
例えば、IT革命をリードした3人、B・ゲイツ(マイクロソフト)、S・ジョブス(アップル)、ビル・ジョイ(サンマイクロ)が、1954~1955年生まれであり、それが彼らの後の人生にいかに幸運に作用したかということ。
世界のプロスポーツリーグのスター選手やオリンピック選手の大半が、遅生まれであり、そうした偶然がアスリートになる必須の条件となっているということ、などなど。
ちなみに、わたしも1955年生まれで、しかも3月27日生まれという超早生まれです。

グラッドウェルはこう続けます。
「一年の後半生まれの子供を対象とする第二期アイスホッケーチームがカナダにあったら、現在の二倍のスター選手が生まれていただろう。
そのようにして花開いた才能を、あらゆる分野や職業に掛け算してみればいい。
世界は、いまよりずっと豊かだったかもしれない。」

なーるほど!という感じでしょ。
「すべての人に好機を!」という彼の主張は天才論としてだけでなく、正義論としても読めますね。

「彼は天才である必要がなかったのだ」

「カヴァーは天才ではなかったということなのか?
いや、彼は天才である必要がなかったのだ。」
(村上春樹、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より)

“Does it mean Carver was not a genius?

Well, he did not need to be a genius.”

カヴァーとはレイモンド・カヴァー(アメリカの短編小説家)のことです。

村上春樹さんはカヴァーの全集の翻訳者でもあります。

なぜ、カヴァーは天才である必要がなかったのか?
それについて、春樹さんはこう書いて文章を結んでいます。

「レイモンド・カヴァーにとっては、死に物狂いで自分の身を削ってものを書くというのは最低限のモラルだったんです。
だから、そういうモラルを実行していない人を目にするのは、彼には耐え難いことだった。
優しくて親切な人なんだけど、文章を書くことに手を抜いている人間に対して、あるいは手を抜いているとしか思えない人間に対して、自分はどうしても友達としての親愛の情をもつことができなかったと、あるエッセーの中で告白しています。
そういう場合、「あいつはいいやつなんだけど」というんじゃなくて、「いいやつ」という視点すらすっぽりと消えうせてしまうわけです。
そういう人が近くにいると、やっぱり身が引き締まりますよね。」

なぜ、カヴァーは天才である必要がなかったのか?
天才とはオートノミーだけで勝負できている人のことです(「モチベーション3.0」)。
カヴァーにはオートノミーは必要なかった。
彼にはそれに代わるもの=倫理的使命感があった。
春樹さんはそう言っているのでしょう。

それがあれば天才は要らない。
天才がいらないどころか、才能もスキル自体が二次的なものになるし、それがあれば必要な才能やスキルは必ず身につく。

<欲望に見合った分しか、スキルは身につかない>と私は常々言っています。
ここでいう<欲望>とは上の文脈における「倫理的使命感」と同じものです。

企業に「理念」が必要なのはそのためです。
社員がその「理念」を内面化する必要があるのもそのためなのです。

あなたは「天才」になりますか?
それとも、「理念を内面化」して「天才になる必要のない者」になりますか?

どちらでも選ぶことができますが、どちらかは選ばなければなりません。
それが<オキテ>です。