「人は解決できるものだけを問題として発見する」

「人は解決できるものだけを問題として発見する」
(よみびとしらず)

People find solvable problems only as problems.

問題解決技法というものがあります。
問題を「あるべき姿」と「現状」のギャップという仕方で定義します。

Tobe – Asis = Gap = 問題

そしてそのギャップを埋める方法を発見する、もしくは設計すること=解決、というわけです。

でも、実際にはそうなりません。
なぜなら、普通、人はそのギャップを埋める方法の見通しがつかないと、「あるべき姿」を構想できないからです。
つまり、

Asis+ 解決方法 = Tobe

という演算しかできないのです。
今日の言葉はそのことをシニカルな調子で表明したものです。

だから試されているのは「問題解決技法」ではなくて、How(方法)の見通しをつける前に理想的な状況を思い描く力=知的跳躍力=想像力=構想力なのです。

風に向かって

「困ったことがあったらな、
風に向かって、俺の名前を呼べ」
(車寅次郎、「『男はつらいよ』第43作、寅次郎の休日」より)

“If you have a trouble, call my name to the wind, OK?”

これは寅次郎が甥の満に対して言う台詞です。
叔父と甥という関係はなかなか興味深い。
甥にとって、叔父=親の兄弟という存在は親の権威を相対化する契機として機能します。

叔父の前では父も母も、兄弟=子供になるからです。

叔父と父・母との会話を聞いたり、また叔父と直接に会話したりすることを通して、甥(姪)は父や母にも子供時代があり、父や母もまた祖父や祖父母にとっての子として育ったということを知ります。
そういう認知は大変貴重です。

また、叔父(叔母も)の方でも、自分の子供にとっての親という権威とは違う次元の影響を甥や姪に与える独特なポジションにいるということを自覚しています。
彼(彼女)は、甥(姪)に対して、父(母)性=親性=権威性とは違う次元での大人性=成熟性を、時々のそしてしばしの遭遇の中で現前させねばならない。
これはなかなかのアクロバシーを要請する難題です。

その点、寅さんはよくそれを果たしていたと言えるでしょう。
アッパレ!

人は夫になったり、妻になったり、父になったり、母になったりすることを成長の契機にできますが、叔父になったり、叔母になったりすることをもってそうすることもできるのです。
そういうことが面白い。
ライフサイクルってよくできてますね。

「おまえたちは骨の髄までありきたりだ」

「おまえたちは骨の髄までありきたりだ」
(山田太一、「早春スケッチブック」)

NHKの番組、「DEEP PEOPLE」を観ています。
http://www.nhk.or.jp/deeppeople/

この番組の「連続ドラマ脚本家」の回に、岡田惠和、中園ミホ、尾崎将也が登場。
自分に一番影響を与えたTVの連続ドラマは?という質問に、岡田惠和、尾崎将也の二人が、山田太一の「早春スケッチブック」を挙げます。
中園ミホも同調し、三人で、 上の台詞についておお盛り上がり。

わたしもリアルタイムでこの番組を見ていました。
山田太一のものはみんな好きだったけど、「早秋スケッチブック」は確かに良かった。
「沿線地図」も良かったなー・・・。

上の台詞、山崎努のものですが、彼が続けてどう語るかも覚えています。
「おまえらは骨の髄まで<ありきたり>だ!
<ありのまま>なんていうのは凡庸だということだ。
人生には<偉大>としかいえないような次元もあるんだ!!」

たぶん、正確ではないと思いますが、私の記憶の中ではこんなふう。
今思い出すと、ずいぶん影響されたなーと思います。

理解できないままよからぬ現実を知る

「大人になるという過程は興味深いものです。
我々は理解できないままよからぬ現実を知るのです。
我々は「死」を理解できないまま、死を知ることになる。
世界にはびこる悪について理解できるようになる前に悪を知るようになる。

人は物事を理解していない状態でそれを学んでいる。
しかし、心の底からは理解していない。
大人になるとは(そのような)自分の(ありよう)の至らなさを認め、(それでも、その)自分(のそうしたありよう)を赦すことだ。
現実には人生は困難だが、それでも(そのように)折り合いをつけることを学ばねばならない。」
(カズオイシグロ、「NHKの特集番組でのインタビュー」より)

上の分の(カッコ内)のところはわたしの挿入です。
昨日の福岡さんの言に対する彼の応答がこれです。

似たことを、内田樹はこう表現しています。
「人は人生に遅れてやってくる」

人が生まれたとき、世界は先に存在していて、ゲームはすでに始まっており、ゲームのルールも先行して決まっています。
ルールも知らないままに人は世界にいきなり投げ込まれる。
そして、ゲームのルールを学びながらそのゲームを生きなければならない。

彼はこれを「人生の遅延」と呼んでいます。

イシグロも福岡さんもこうした遅延に対する対応として「折り合い」という言葉を使っている。
でも、私は人生には「折り合いをつける」以上の成熟がありうると思っています。
 とはいえ、一旦、「折り合う」しかないというような静謐な諦観を経験することは重要です。
 その先には、そこから行かねばなりません。

大人になること

「人々は大人になることをこう捉えています。
ある種の成長、進化、蓄積、達成であると。
しかし、あなたの小説は全く違うことを語っています。
それはある種の衰えであり、退化であると。
あるいはつらい記憶に向き合い過去と折り合いをつけることであると。」
(福岡伸一、「カズオイシグロ」を特集したTV番組の中でのイシグロとの対談において)

福岡さんは分子生物学者ですが、人は細胞内の物質レベルではつねに更新されていているのにどうして同じ人でありうるのか=同一性を保てるのか、という文科系の課題と取り組んでいます。

確かに大人になることの先に死があるわけですから、大人になることは「ある種の衰え」なのかもしれません。
それでも我々が「成長」や「成熟」について語るとすれば、その語りはそのことを所与として踏まえたうえでのものでなければならないでしょう。

「過去の記憶と折り合いをつけること」というフレーズもなぜか美しい。
こういうネガティブなモノイイが時に慰めとなり、救いとなるのはなぜなんでしょう。

 
福岡さんのこの言に対するイシグロ氏の応答がまた泣かせます。
それについてはまた明日。

「労働を舞踏の範囲にまで高める」

「衝動のようにさえ行はれる
すべての農業労働を
冷たく透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ」
(宮沢賢治)

By means of cold and clear analysis,
heighten all the agricultural labor,
which seems to be carried out by impulse,
along with its indigo blue shadow,
to the category of dancing.

「労働を舞踏の範囲にまで高める」
なんとすばらしい志でしょうか!
そのためには、「冷たく透明な解析」もまた必要となる。
全くです。

Love & Work!

『法隆寺は焼けてけっこう』

「『法隆寺は焼けてけっこう』―――嘆いたって、はじまらないのです。
今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

自分が法隆寺になればよいのです。」
(岡本太郎、「日本の伝統」より)

There is no use crying over the burnt Horyuji temple.
There should be more urgent and essential issues than crying over now the fact that it was burned and that people don’t cry over it.
You can be the Horyuji.

岡本太郎の再評価が進んでいるようです。
大変結構!

上の言葉は、1949年、法隆寺金堂の修理解体中に火災 が発生し、金堂内部の柱と壁画が焼けたことを受けてのもの。
「芸術は爆発だ!」に次いで、「人口に膾炙」しつづける彼の決め台詞の一つとなりました。

山下裕二さんは「太陽の塔を国宝に!」という運動をしている方です。
上の言葉を受けてこんなことを言っていました。

「岡本太郎が死んだことを嘆いたってはじまらない。
今さら死んでしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
自分が岡本太郎になればよいのです。」
(山下裕二「岡本太郎宣言」より)

この覚悟やよし!

Feeling lonely?

「寂しさなんてのはなぁ、
歩いてるうちに
風が吹き飛ばしてくれらぁ。」
(車寅次郎、「男はつらいよ 寅次郎の告白」より)

Feeling lonely?
Just walk, and the wind will blow it off.

寂しさは風が吹き飛ばしてくれる。
「風に吹き飛ばし」てもらうためにはそれでも「歩く」ということが必要です。

歩いて風と出会わなければなりません。
だから寅さんも歩いたのです。

さあ、今日も歩くぞ!

歳をとってみないと分からないこと

「歳をとってみないと分からないことがある。
それは、「歳をとっただけでは人間は成長しない」ということである。」

(内田樹、「老いの手柄」より)

私の場合は、そのことにはずいぶん早くから気づいていたような気がします。
「加齢と成熟」とは異なるということ。

それは一つには、自分の身内に納得いく「成熟」モデルがなかったことが大きい。
つまり、このまま自分が自分の身内の年齢になったときになれるであろう自分のレベルというものに、ずいぶん早くから失望していたということです。
同時に、「成熟」の可能性に対する確信とそれへの憧れも人一倍強かった。
それもあったと思います。

とはいえ、今やそうした早熟的認識のアドバンテージはもはや使い尽くされてしまった感あり。
困ったものです。
あらためて、「加齢と成熟」を隔てる壁を凝視し、それを乗り越えていかねばなりません。
現役の「アラカン」(アラウンド還暦)として。