事後的、回顧的、遡及的評価

「人は、誰も生きない、
このように生きたかったというふうには。
どう生きようと、このように生きた。
誰だろうと、そのようにしか言えないのだ。」
(長田弘、「世界は美しいと」より)

長田弘はMy favorite poetのひとりです。
高校生のころに「ネコに未来はない」にはまりました。
詩集「深呼吸の必要」もとってもよかった。
機会があったらぜひご覧ください。

「世界は美しいと」は彼の比較的新しい詩集です。
上の言葉はその一節。

内田樹さんは「肝心なことはは事後に、回顧的に、遡及的にしか評価できない」ということを手を換え、品を換え、繰り返し述べています。

例えば、何かを<学ぶ>ということ。
人は学ぶことの価値を事前に評価してその学びに入っていくことはできません。
学ぶ前には学ぶことの価値を知らない。
知らないことについて学ぶことが学ぶということだからです。

そして、それは「肝心なこと」一般、そして「人生」そのものについても言える。
それが、「生きる」ということが時間の中に組み込まれているその組み込まれ方(=生きるということの時間内構造)そのものだからです。
長田さんの詩はそのことをとってもうまく言い当てていると思います。

よい結婚、よい子育て、よい人生をすみずみまで設計し、計画通りにそれらを展開することはできない。
かりに計画通り展開できたとしても、計画通りだったこと=よいこと=価値ではない。

結婚における、子育てにおける、人生における<よい>とは何かを考えながら、結婚生活を、子育てを、人生を生きる。
そしてそのヨシアシは事後的に、回顧的に、遡及的にしか評価できない。

それは<よい>ことだったか?
ヨキニツテアシキニツケそれは本当に<自分の人生>だったか?

少なくとも<自分の人生>だったと自分でいえれば、それは<人生>足りえたことになる。
ウン、ソレデイイノダ!

♪ゼニのない奴ぁ 俺んとこへ来い♪

♪ゼニのない奴ぁ
俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ青い空白い雲
そのうちなんとかなるだろう♪
(植木等、「黙って俺について来い」より)

作詞は青島幸男、演奏は「ハナ肇とクレージーキャッツ」にクレジットされてますが、なんといっても「植木等」です。

映画の無責任シリーズはずいぶん観ました。
ちなみに彼の役名は「たいらひとし」(平均)です。
人を食った名前ですね。

実際の植木さんは「お坊さん」の子どもです。
僧侶だった父親は左翼の運動家でもあり、植木さん自身もたいへんストイックな人だったらしい。

♪俺んとこに来い!
・・俺もないけど心配すんな♪

いいですねー。
「引き受け」というものがある種の「軽み」を根拠にしているところがいい!

♪見ろよ青い空白い雲♪

ここのところで転調します。
そこも秀逸。
本当に青い空と白い雲が見えてくるようです。

いいなー・・!

「早え話」

「お前と俺とは別の人間なんだぞ。
早え話がだ、俺が芋食って、お前の尻からプッと屁が出るか!」
(車寅次郎、「男はつらいよ」第1作より)

You know, you and me are different individuals.
In short, if I ate broccoli, can it make you fart?

すばらしい喩えですね。
要点をずばり突いてる。
視覚、臭覚、聴覚だけでなく、

内臓感覚にまで訴えかけてくる喩えです。
私もこういうふうに「早え話」ができるようになりたいです。
いつも「話が長い」と言われてしまうので・・。

「絶望が足りない」

「絶望が足りない」
(吉本隆明)

What is insufficient is despair.

「希望」という日本語は大変面白いつくりをしています。
希望の<希>はマレ、カスカという意味。
つまり少ないということです。
薄い塩酸が希塩酸、薄い硫酸が希硫酸という場合の<希>ですね。

その<希>に<望>と書いて、<希望>。
つまり<希望>とは<望みが少ないこと>、<かすかな望み>だというわけです。

「浅いところで満足してしまう態度」のゆえに<望>が充ちている状態。
そういう「浅い態度」、「自己欺瞞」に対して、吉本は「絶望が足りない」と言ったのだと思います。

ベトナム戦争時に北ベトナムの捕虜となり、後に帰還したストックデールという人は、生き残った理由を尋ねられてこう言っています。
「自分と捕虜仲間に何が起きているかについて注意を怠らず、生き残るための戦略や作戦を日々更新し続けたこと」

逆に死んでいった人たちに共通だったこととしてこういう指摘をしています。
「クリスマスまでには出られるだろう、次はイースターまでには、次は夏が終わるまでには、そしてまたクリスマスまでには・・・・、と常に未来の希望にだけすがっていた人」

ムズカシイですねー。
そこが面白いんですけど。

So, be it!

「それでいいのだ」
(赤塚不二夫、「天才バカボン」より)

So, be it!

加藤陽子さんの「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」で、赤塚さんが満州からの引揚者だったということを知りました。

「あしたのジョー」のちんばてつやさんや五木寛之さんもそうですね。
「二十歳のエチュード」の原口統三さんや「アカシヤの大連」の清岡卓行さんもそうです。

そうしたことを思うと、「それでいいのだ」という全肯定の台詞も味わい深いです。
ちなみに、バカボンはバカボンドからきています。
バカボンドとは放浪者という意味です。

ソレデイイノダ!

『分かっていない人』を論駁している暇はない

「私は孤独の中の作業を知っている人かそれに敬意を払う人に向けてしか、この連載を書いていない。

『分かっていない人』を論駁している暇はない。
もう一方の人たちを激励することが今は必要なのだ。」
(保坂和志、「小説、世界の奏でる音楽」より)

「分かっていない人を論駁している<暇はない>」(キッパリ!)というところがいいですね。
こういう断定的な台詞には日常なかなかお目にかかれません。
でも、この言葉が存外に<温かい>のは、その背後に、「もう一方の人たち」を支援しようとする保坂さんの願いがあることが伝わってくるからでしょう。

私たち一人ひとりは、だれもかれもを励ますことはできません。
自分で自分を励ませる人が、自分で自分を励ませたその同じことで励ますことのできる相手というのは案外少ない。
だからこそ、わたしたちの全員が、誰かしら自分のVoice(こえ)が届きそうな相手に向けて、その誰かを励まそうと努め続けなければならない。

私もまた「孤独の中の作業を知っている人かそれに敬意を払う人」という「もう一方の人たち」を激励することに与したいと思います。

大人は大人になるためのアイディアを大人になっても必要としている

「大人はいつも子どもに『大人になったら何になりたい?』と尋ねる。

なぜなら、大人はアイディアを欲しがっているからだ。」
(ポーラ・パウンドストーン)

Adults always ask a child  “what do you want to be?”.
Because adults want ideas (to be adults).

大人は大人になるためのアイディアを大人になっても必要としている。
確かにそうですね。

私がまだ幼かったとき、私の祖父も私に会うたびに同じことを尋ねました。
私は「何か」になりたくなかったので、いつも答えに窮していました。
今だったらこう答えます。

「成熟した大人になりたい」

maturityへの憧れは時間がなくなるにつれて大きくなります。
あなたの成熟モデルは誰ですか?

「あなたができるもっとも有効な投資は、あなたが心を通わせたいと思っている人々の言語を学ぶことだ。」

(マイク・ガーソン、「世界で生きる力」より)

<心を通わせたいと思っている人々の>というところがいいですね。

ガーソンはこうも言っています。
「(歴代の)アメリカの大統領のほとんどは英語以外の言語を流暢に話すことができなかった。」

ティモシー・フェリスもこう言っています。
「言語の習得は特筆すべきものだ。
これは文句なしに思考を研ぎ澄ますためには最高の方法である。
(中略)
外国語に精通することのメリットは、その難しさが過大評価されているのを同じくらい、過小評価されている。」

あなたが問わねばならないのは

「愛の反対は無関心、そして、幸せの反対は退屈だ」
(ティモシー・フェリス)

The opposite of love is indifference, and the opposite of happiness is boringness.

先立つ文章はこういうものです。

「幸福の反対は何だろうか?
悲しみ?
違う。
愛と憎しみが同じコインの表と裏であるように、

幸せと悲しみは同じなのだ。
幸せのあまり泣いてしまうのはそのせいだ。」

そして先の文章。

「愛の反対は無関心、そして、幸せの反対は退屈だ」

さらに、フェリスはこう続けます。

「あなたが問わねばならないのは、『自分は何を望んでいるか?』や『目標は何か?』ではない。
『自分をわくわくさせてくれるのは何だろうか?』である。」

なるほど・・・。
確かに「問いの立て方」というのは大切ですね。
あなたならこの問いにどう答えますか?

「ひとりでは生きられない」弱者が生き延びるための装置

「家族は『ひとりでは生きられない』弱者が生き延びるための装置である」
(内田樹「邪悪なものの鎮め方」より)


Family is a device for ‘the weak who cannot live by themselves’ to survive.

ということは、「結婚」も「ひとりで生きられない弱者が生き延びるための装置である」ということですね。
昨日のゴルツさんの言葉とはタッチは真逆ですが、同じことを言おうとしているのかもしれない。

それにしても、「なるほどそうだなー」とうなってしまいました。
お互い(少なくとも私の方は)「ひとりでは生きられない」と悟ったから結婚したんだ、と確かに思い当たる。
ちなみに、妻も「同感だ」と申しております。

内田さんは若くして結婚し、その後、離婚を経験しています。
いわゆるバツイチ。
妻が去って行って残された女の子を「男手ひとつ」で育て上げた経験を持っています。

彼の結婚論は本当に面白い。
例えばこんなふうです。

「どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。
Someday my prince will come(いつか王子様がやってくる)というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。」

ながながと引用してすみません。
でも面白いでしょ。

さて、その内田さんがこのたび還暦を直前にして「再婚」なさいました。
オメデトウゴザイマス

ここに「奥様」の写真、載ってます(ミーハーですみません)。
http://walumono.typepad.jp/blog/2009/06/post-c3f1.html