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「君と世界との闘いにおいて、君は世界を支援せよ」

「君と世界との闘いにおいて、君は世界を支援せよ」
(カフカ)

保坂和志の新刊が出ました。
新刊が出るのを楽しみに待っている作家を持っているというのは、人生における小確幸の一つだとおもいます。

ちなみに、小確幸というのは「小さいけれど確かな幸せ」という意味の村上春樹さんの造語です。

さて、その保坂さんの新刊ですが、タイトルは「カフカ式練習帳」
もったいないので、少しづつ読んでいますが、頭がだんだん、カフカになってきました。

で、カフカです。
カフカというと上の言葉を思い出します。
かっこいい言葉ですが、その分、難解です。
さて、これはどういう意味か?
私はこう考えます。

君=つまり自分と世界とが闘いあう関係に入ることがある-これは実感として分かる。
その場合、なぜ人は自分を支援せずに、世界を支援すべきなのか?
まず、世界とは何か?

「人は世界の中に置かれている」-そのように言う場合の世界とは「自分にとっての環境」のことです。
これを世界1.0と呼ぶことにしましょう。

では環境とは何か?
大学の時の環境学の講義で環境の定義というのを学びました。
講師だった宇井純さんはこう言っていました。
<あるものXにとっての環境(環境X)とはX以外のもの全部である>。

これを世界論に適用(代入)するとこうなります。
自分にとっての世界とは、自分と自分の環境である。

世界=自分+環境
環境=世界-自分
自分=世界-環境

世界=自分+自分の環境、という場合の世界。
これを世界2.0と呼ぶことにします。

世界1.0の中には自分が入っていません。
世界1.0とは自分の環境(=自分以外のもの)のことなのですから。
1.0的世界における自分と世界との闘いにおいて世界を支援することは、自分で自分に敵することを意味してしまいます。

しかし、世界2.0の中にはちゃんと自分も入っています。
世界=自分+環境、だからです。
ですから、世界2.0において世界を支援することには、実は自分を支援することが含まれているのです。

自分の環境を自分で支援すれば、それは自分を支援したことになる
自分の部屋を掃除すれば、気持ちがいいのは自分である。
そういうことです。

そして、他者にとっての世界2.0においては、自分は自分ではなく、他者にとっての環境の方に含まれています。
つまり、自分にとっての世界2.0には他者にとっての世界1.0が含まれているのです。
だから、自分にとっての世界2.0を支援することは、他者にとっての世界1.0を支援すること、つまり他者を支援することが含まれるのです。

自分の環境を自分で支援すれば、それは他者を支援したことにもなる。
自分の家の前を掃除して、水を打てば、自分も他者も気持ちがいい
そういうことです。

ということはこういうことでしょう。
<世界を支援することは、自分と他者を共に支援することに等しい

世界はやはりとても<よく>できている。
しかし、それは世界が自分にとって<都合よく>できている、という意味ではない。

私は常々そう言っています。
つまり、それはこういうことです。

世界2.0的世界、つまり自分と自分の環境の全体はやはりとても<よく>できている。
しかし、それは世界1.0、つまり自分にとっての環境が自分にとって、常に<都合よく>できている、という意味ではない。

自分にとっての世界1.0の、つまり自分の環境の自分にとっての<都合悪さ>を引き受けられるのは自分しかいません。
だから世界と自分との闘いにおいては自分をではなく、世界を支援しなければならない。

さあ、はやく仕事して(世界を支援して)、保坂さんの続き読もーっと。

つもりーまん

「・けっこう一生懸命、仕事をしている
 ・まわりもそれを認めていて、非難する人はいない
 ・本人はその行為にまったく疑問を持っていない
 ・しかし、成果はほとんど出ない」
(海老原 嗣生 、「仕事をしたつもり」より)

海老原さんは「仕事をしたつもり」の中で、「つもりーまん」の4条件を挙げて上のように書いています。
本屋で立ち読みして、思わず笑っちゃいました。
早速調達。

「まわりもそれを認めていて、非難する人はいない」というところに一番の病理が表れていますね。
コワイコワイ!

http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A4%E3%82%82%E3%82%8A-%E6%98%9F%E6%B5%B7%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%8E%9F-%E5%97%A3%E7%94%9F/dp/4061385038

「自分だけのストライクゾーンを見つけ、 いつでもそこに剛速球を投げ込む制球力」

「発言については一切手を抜かず、渾身の剛速球を投げる。
しかし、ストライクゾーンははずさない。
暴投することもなければ、デッドボールを投げることもしない。
自分だけのストライクゾーンを見つけ、

いつでもそこに剛速球を投げ込む制球力を身につけた。」
(加藤嘉一、「われ日本海の橋とならん」より)

加藤さんは「中国で一番有名な日本人」と評される人物。
1984年生まれ、28歳。
静岡生まれ、生粋の日本人。

彼は、2005年に反日デモが北京であったときに、北京大に留学生としていて、現地のTVにコメントを求められます。
その際の対応、コメント力で一躍時の人となり、現在では「中国で一番有名な日本人」といわれるまでになる。
なにせ、中国の国家主席がかれのツイッターのフォロワーだというのですから驚きです。

自分より若い世代に、見るべき人を見つける。
これは歳を重ねた者だけに許される数少ない喜びの一つです。

“Look! The man!”

青木十良

「90歳を超えると上手くなるのに時間がかかる。
それを定着させるのにも時間がかかる。」
(青木十良、映画「96歳のチェリスト青木十良」より)

先日、青木十良さんのドキュメンタリー映画を観て来ました。
澁谷のマイナーな映画館は満席+立ち見で一杯。
通路に座っている人も。
こういう光景は学生の頃に「アートシアター新宿文化」で出合った以来。

観客は皆、私より年長の方々に見えました。
凄い熱気。

彼は90歳を超えてからバッハの無伴奏チェロ組曲に挑戦。
先ごろ全曲の録音を完成させました。

90歳のときに第6番を録音して、6年かけて、5→4→3→2→1と逆順に挑んだようです。
指が動くうちに技術的に難易度の高いものからはじめて、だんだんとはじまりのバッハに戻っていく、そういう見通しがあったようです。

その彼が、毎日5時間練習する、その練習について語ったのが上の言葉です。
上手くなりたいかなりたくないかではない。
上手くなれるかなれないかでもない。
時間がかかるそれだけが問題。
でも時間はある。
あるから生きている。
だから生きている時間をかければいい。
そう言っているように聞こえました。
アッパレ!

彼のCDの表紙にはこう書かれています。
<翁にして童>

いいですねー。
ソウイウヒトニワタシモナリタイ

変人

「斬新なアイディアを思いつく者は、それが成功するまでは変人である」

(ビエルサ)

ビエルサさんというのは、スペインのサッカーチーム、ビルバオの監督。
昨日の日経の夕刊にあった、北條聡さんのコラムからの孫引きです。

彼の率いるチームが「斬新なアイディア」で先日の欧州リーグで、イングランドのマンチェスター・ユナイデットを破った。
史上最強とされるバルセロナを破るのは彼なのではないか・・。
そういう記事。
で、そこに彼自身の上の言葉が引用されていたわけです。

「変革に必要なのは、よそ者と、ばか者と、若者である」
という言葉もあります。
ちょっと似てる?

「采配」

先日、クライアントの社長から、落合博満氏の「采配」という本についてお話を伺いました。
早速、取り寄せて読んでみました。
すばらしい本でした。
巻頭付近にはこうあります。

「ビジネスマンもプロ野球選手も、仕事を『戦い』や『闘い』にたとえれば、自分のスキルを成熟させながら3つの段階の戦いに直面することになる。
それは、自分、相手、数字だ。
学業を終えて社会に出たら、まずは業種ごとに仕事を覚え、戦力になっていかねばならない。
教わるべきことは教わり、自分で考えるべきことは考え、早く仕事を任せられるだけの力をつけようとしている段階は、<自分との戦い>だ。
(中略)
半人前、一人前になれば、営業職なら外回りをして契約を取る。
それまでに教えられたこと、経験したことを元に成果を上げようとする段階では、どうすれば相手を納得させられるか、信頼を勝ち取れるかなど、<相手のある戦い>に身を置く。
プロ野球選手なら、どれだけ相手に嫌がられる選手になれるかを考えるのだ。
そして、営業成績でトップを取れるような実力をつけたり、職場には欠かせないと思われる存在になれたら、自分自身の中に「もっと効率のいいやり方はないか」、「もっと業績を上げられないか」という欲が生まれる。
現状のままでは評価されなくなるという切迫感、これで力を出し切ったと思われたくないというプライド、さらなる高みを見てみたいという向上心とも向き合いながら、最終段階として<数字と戦う>。」

3つという数字、3つの内容、そして3つの順番、どれをとっても秀逸な論の運び方です。
特にその順番に感じ入りました。

まずは、<自分>と戦う→そして<相手>と戦う→最後に<数字>と戦う。
<自分>と戦ったことがない、戦うつもりのない人(営業マン)が、<相手>(顧客・市場)と向き合うことなどできるわけがない。
<自分>と戦って、<相手>と向き合うことなしに、ただ<数字>(=ノルマ)だけを追いかけている人がそうした数字を達成することはまれだし、仮にたまたま<数字>が作れたとしても、その経験がその人に真の成長をもたらすことはない。
そういうことでしょう。

書名の「采配」が何を意味するか、「誰が何を采配する」ことについて落合さんが語りたかったのかが 巻末付近で明らかにされます。
そのあたりもグッときます。
なによりも、落合さんがプロ野球選手やアスリートだけでなく、一般の産業人、市井の勤め人に深い敬意をもって語りかけ、エールを送っているのだと感じられて。

お勧めです。

プレイという仕事の次元

「産業革命がレイバーの職を奪った後、

産業や経済社会の変化があって、ワークの仕事は徐々に拡大していったのである。
それを我々は経済成長と呼んだのだ。
大切なのは、機械や情報システムに置き換わってしまうようなワークではなく、人間にしかできない質の高いプレイヤーとしての仕事が増えていくように努力することである。」
(伊藤元重、日経「経済教室」より)

今日の日経にあった言葉です。
伊藤さんは「仕事」を3つのタイプに分けて論じます。
「レーバー」、「ワーク」、そして「プレイ」です。

産業革命以前の仕事は押しなべて「レイバー」。
だから、当時の労働者は産業革命=機械化に怒って、「打ち壊し運動」をした。

そして、時代は回り、今、ワークの仕事が情報化、グローバル化によって侵食されている。
その結果、「もう成長は無理だという諦めと、無理して成長しても幸せにはなれないという開き直りが混在」した情況が時代を覆っている、と伊藤さんは言います。
しかし、「レーバー」→「ワーク」という仕事の質の変化=高度化が「成長」をもたらしたように、「ワーク」→「プレイ」という変化が次なる成長をもたらしうる、と論じます。

伊藤さんはこう論考を結んでいます。
「次世代の人材を育てない限りプレイヤーは増えないだろうし、プレイヤーが増えない限り日本の成長もない。
(中略)
人材投資がプレイヤーを増やす鍵となる。」

ゴモットモ!
Love & Work!

ひとりっ子政策

「人口抑制策を担当する政府の計画出産弁公室は政策の見直しに反対している。

政策に携わる約650万人の雇用と、2人以上生んだ両親から得られる罰金のためだ。」
(日経、ゼニナール「転機を迎えた中国経済」(12)より)

この記事は中国のひとりっ子政策が中国経済にもたらした功罪を論じています。
ひとりっ子政策による人口抑制が、中国にいわゆる「人口ボーナス」(全人口において労働人口が占める比率が高い状態から社会全体が恩恵を受ける状態)をもたらしそれが経済発展に寄与したことはよく知られています。
しかし、その結果生じた年齢別人口構成のゆがみは今後「人口オーナス」となって負の方向に働いて行く。
当たり前のことです。
ただ、そのタイミングは存外に早い。
2015年(3年後!)にも始まろうとしているとする論者もいるほどです。
彼の国も「高齢化」社会に突入するというわけです。

そうした分析はもう常識化しているのに、なぜ中国政府は手を打たないのか。
それを論じたのが上の文章です。

これがそのまま真であるかどうか、私には分かりません。
ただ、ぞっとするのは、こうしたこと(=既得権維持のための思考停止)が姿を変えて、自分の身の回りでも起きていると感じることです。
日本(=日本政府)のことだけを言っているのではありません。
それは私自身のことでもあるのです。

そうした「利己的なご都合主義→既得権維持のための思考停止」から解放されるためにこそ、まずは「自己否定の契機」を自分自身にきっちりとビルドインしなければなりません。
そのために思考の足腰をちゃんときなえなければ!!

『痴呆老人』は何を見ているか?

「コミュニケーションという名詞には、コミュニケートという英語の動詞が対応しており、ラテン語のコミュニカレに由来します。

これには情報を共有する、という現代人が理解する意味と同時に、「共に楽しむ」という古義があり、「楽しい」という情動を共有するという含意があります。」
(大井玄、「『痴呆老人』は何を見ているか」より)

週末に同著を読みました。
最近の認知科学の成果や哲学、仏教(唯識論)などを総動員して、非認知症の人と認知症の人の間の<連続性>について論じています。

痴呆(大井さんは認知症という言葉をあえて使いません)には、アルツハイマーのような「脳組織変性」のものと、脳溢血の後遺症のような「脳血管性」のものとがある。
認知能力の低下という「主症状」と、うつ状態や妄想・幻覚・夜間せん妄などの「周辺症状」とは区別されなければならない。
そうしたことが、よく整理されていて納得感が高かったです。

そして周辺症状のない「純粋痴呆」は、老いの過程であって<病ではない>(老いは病ではない!)こと、周辺症状は周囲とのコミュニケーションによって緩和、縮減、無化されうるものであることが説明されています。
そこで、上のようなコミュニケーション論が展開されます。

だからこそ、介護に当たる周囲の者が「痴呆老人が世界をどう見ているのか」を知らねばなりません。
そして、それは非認知症の普通の人々が、自らが世界をどう認知しているかを知ることに繋がっていきます。
そこにある種の「連続性」が発見できたときに、両者の間にコミュニケーションが立ち上がる。
そしてそれが認知症患者に「周辺症状」の緩和をもたらす。

大井さんはこうも言います。
「痴呆状態にある人と心を通わすとは、記憶、見当職などの認知能力の低下によって彼らに生じる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、心穏やかな、できれば楽しい気分を共有することです。
そのためには、細かい行動学的観察に基づく個別化された接近方法が必要ですが、しかしまず、自分は彼らと連続した存在であり、彼らは実は『私』であるということを確信しなくてはなりません。」

この「彼らは実は『私』であるということを確信」するために、単なる思いやりや愛といった道義が説かれるではなく、主には認知科学が動員されています。
認知症でない我々も、いかに不完全な認知能力をやりくりして現実(世界)と折り合いをつけて生きているか、そのことがよく分かるような仕方で。

後半の「私とは何か」という章も読ませます。
「私はもう私ではないが私である」という「自己の現象学」。

①の私は、過去から現在までの経験を閲覧し、それによって変化し、過去現在を総括し、しかも未来という時間性にある私。
②の私は、大病を患う以前の健康に恵まれた私―健康に担保される諸能力は多分に利己的な目的に用いられる。
③の私は、病によって常識的な意味での健康と利己的な意味での能力を失ったが、それでも他者や社会に対し、本来の繋がりがあることを主張する私―そこには社会的有用性の自覚があるが、もはや利己的意図を削り取り、面目を一新した能力的装いがある。
と大井さんは説明します。

ところどころ、嫌米的で、日本賛美的な議論に流れるところが疵ですが、それもまた著者の「認知」の正直な発露なんでしょう。

両親にも、弟妹たちにも読ませたい本です。
皆様にもお勧めします。

日産の会議

「すべては一人一人の意欲から始まる」
(「日産Way」より)

「日産 驚異の会議」という本を読みました。
「会議は問題解決のツールである」という認識から出発して、

従来の会議がそのようなものとして機能していない現実を認め、そこで「会議プロセスを新たに開発する」ことにする。
その新たに開発された「会議プロセス」が紹介されています。

プロセスの中身についてはここでは解説しませんが、わたしが「会議コンサル」で言ってきたことと重なる部分について、わたしの側が発信してきたキーワードを二つだけ紹介させてください。
<会議の外部と内部を定義する>
<発言と意見と決定を区別する>

プロセスそのものも秀逸ですが、「新たに開発しなければならない」という気づきがなにより大切だったのだろうと思います。
「失敗論」の文脈に置き換えると、失敗を成長につなげるためにはどうしても次のことがまず認識されねばなりません。

1:失敗した(している)と認める
2:その失敗は自分の失敗であると認める
3:自分の失敗の原因は自分が発見し、自分が改善しなければならないと決意する

これはタフな要求のようですが、実は現実的で積極的な覚悟です。
過去と他人は変えられませんが、未来と自分は変えようがあるからです。